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結婚愛 391

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391 (4) 幼児への愛のスフェアは、自分自身を守り、支えることができない者を守り、支えるスフェアである
主から発出しているスフェアを通して、その方による役立ちの働きが神的摂理であることは、前に言われました(386番)。それでこのことが、自分自身を守り、支えることができない者を守り、支えることのスフェアによって意味されます――というのは、被造物が保存され、保護され、守られ、支えられることが、創造からであり、そうでなければ、全世界は滅びるであろうからです。しかし、それは自由裁量のままに残されている生きている者のもとに、直接に主により行なわれることができないので、それは、父たち、母たち、乳母たちにより植え付けられた自分の愛を通して間接的に行なわれます。彼らの愛が、彼らのもとの主からの愛であることを知らないのは、流入を、まして主の遍在を知覚しないからです。
しかし、これが自然のものではなく、自然の中で自然を通して働いている神的摂理であることを、だれが見ませんか。また、このような普遍的なものは、全世界の中心にある主からのある種の霊的な太陽とその働きを通してでないなら、存在することができません、なぜなら、空間と時間なしに、最初のものから最後のものの中に瞬間のうちに現在するからです。
[2]けれども、主の神的摂理であるその神的働きが、神性が生命のあるものにより、どのように受け入れられるか、続きの中で言います。
母や父たちが自分自身を守り、支えることができない幼児たちを守り、支えることは、その愛の原因ではなく、理解力の中に落ち込んでいる理性的な原因です。というのは、人間はそれを吹き込み、吹き込んでいる愛なしに、またはそれを強いる法律や罰なしに、この〔理性的な〕原因だけからでは、彫像ほどにも幼児に備えることをしないからです。