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結婚愛 132

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14 神の映像と似姿とは何か、いのちの木とは、善悪の知識の木とは何か

132 (これらに私は二つメモラビリア付け加えます、最初のものはこれです——)
かつて、私はふたりの天使と話した。ひとりは東の天界から、もうひとりは南の天界からであった。その者は、私が愛について知恵のアルカナを熟考していたことを知覚したとき言った、「あなたは私たちの世界の知恵の学校について何か知っていますか?」
私は答えた、「まだ知りません」。
すると彼らは言った、「多くのものがあります。霊的な情愛から真理を愛する者、すなわち、真理であるので真理を、またその真理によって知恵があるので真理を愛する者は、与えられたしるしに応じて集まり、そして、それらを議論し、さらに深い理解力のものである結論へと導きます」。
その時、彼らは私の手をつかまえ、言った、「私たちに従いなさい、そうすれば、あなたは見、聞くでしょう。今日、集会のしるしが与えられています」。
私は平地を通って丘へ導かれた。すると見よ、丘のふもとに頂上にまで続くシュロの木でできた並木道——私たちはそれに入り、上った。丘の頂上またはてっぺんに木立が見られ、盛り上げられた土の上にそれらの木々が劇場のように形作られ、その内側にいろいろな色の小石で舗装された舞台があった。そのまわりに正方形の形に椅子が置かれ、それらの上に知恵の愛好家たちが座った。劇場の真ん中に机があり、その上に封印で封じられた紙が置かれていた。
[2]椅子の上に座っている者が、私たちをまだ空いている椅子へと招いた。
私は答えた、「ここに私が見て、聞くために、ふたりの天使により導かれました、私が座るためではありません」。
その時、それらのふたりの天使は舞台の机へ行き、紙の封印を解き、座っている者たちの前で紙に書かれた知恵のアルカナを読んだ。それらは第三の天界の天使により書かれ、机の上に降ろされ、今や議論され、解釈されたものであった。
三つのアルカナであった。
第一のものは、「神の映像とは何か、神の似姿とは何か、人間はそれらに創造された」。
第二のものは、「なぜ人間は愛するものの何の知識の中にも生まれていないのか、そのときそれでも、高貴なものも低級なものも、すべての獣と鳥は、自分の愛するもののすべての知識の中に生まれている」。
第三のものは、「『いのちの木』は何を、『善と悪の知識の木』は何を、『それらから食べること』は何を意味するか」。
これらに、「それらの三つを一つの見解に結合し、これを新しい紙に書き、それをこの机の上に戻せ、私たちは見よう。その見解が、はかりの上で釣り合いが取れ、正当なものに見えるなら、あなたがたのそれぞれの者に知恵の褒美が与えられる」と追記されていた。
これらが読まれて、ふたりの天使は引き下がり、自分の天界に上げられた。
[3]その時、椅子の上に座っている者たちは、自分たちに提示されたアルカナを議論し、解釈し始めた。順に、最初に北に座っていた者、その後、西に、その後、南に、また最後に、東に座っていた者が話した。議論の最初の主題を取り上げた、それは、神の映像とは何か、神の似姿とは何か、人間はそれらに創造されたであった。
その時、最初に、「創造の書」からすべての者の前でこれらが朗読された——

神は言われた、わたしたちは人間をわたしたちの映像に、わたしたちの似姿にしたがってつくろう。 ……また神は人間を自分の映像に創造し、神の映像に彼をつくられた(創世記1:26, 27)。
神が人間を創造したその日に、神の似姿に彼をつくられた(創世記5:1)。

北に座った者が最初に話し、言った。「神の映像と神の似姿は、神により人間に吹き込まれた二つのいのちである、それらは意志のいのちと理解力のいのちである。なぜなら、読まれるから、

神エホバはアダムの鼻にいのちの息を吹き込まれた、人間は生きている生き物になった(創世記2:7)。

〝鼻に〟は知覚に、であり、善の意志とそして真理の理解力、またこのように生きた魂が彼に内在することである。また、いのちが神により彼に吹き込まれたので、神の映像と似姿は愛と知恵から、そして公正と判断力からの彼の中の完全性を意味する」。
これらに、西に座った者は賛同した、それでも次のことを付け加えた。「神から彼に吹き込まれた完全性の状態は、人間のそれぞれの者に、その後、絶えず吹き込まれている。しかし、容器の中へのように人間の中にである、人間は容器であるかぎり、神の映像と似姿である」。
[4]その後、順に、南に座った第三の者が言った。「神の映像と神の似姿は区別のある二つのものである、しかし人間の中で創造により結合された。私たちはある種の内的な光からのように、神の映像が人間により破壊されたこと、けれども、神の似姿は破壊されないことを見る。このことは、アダムが神の映像を失った後、神の似姿を保持したことから格子の仕切りを通してのように見られる、なぜなら、呪いの後で読まれるからである、

見よ、善と悪を知って、人間はわたしたちからのひとりのようである(創世記3:22)。

その後、神の映像でなく「 神の似姿」と呼ばれている(創世記5:1)。
しかし私たちはここからさらに高い光の中にいる東に座っている私たちの仲間に、何が正しく神の映像か、何が正しく神の似姿か、言うことを残す」。
[5]その時、沈黙の行為の後、東に座っている者たちが椅子から立ち上がり、主を見上げ、その後、椅子に戻り、言った。神の映像とは神の容器であり、神は愛そのものと知恵そのものであるので、神の映像は彼の中の神からの愛と知恵の容器であること。しかし、神の似姿とは、愛と知恵が人間の中にあるような、またここからまったく彼のものであるような完全な似姿と徹底的な外観であること。「というのは、人間は自分自身から愛し、自分自身から賢明である、すなわち、自分自身から善を意志し、真理を理解するとしか感じないからである。そのときそれでも、少しも自分自身からでなく、神からである。神は愛そのものと知恵そのものであるので、神だけがご自分から愛し、ご自分から賢明であられる。似姿または外観とは、愛と知恵すなわち善と真理が、人間の中に彼のものであるかのように、人間が人間であるように、そして神と結合されることができるようにつくり、このように永遠に生きることである。そのことから、人間がそのことから人間であること、善を意志することそして真理を理解することができること、まったく自分自身からのように、それでも神からであることを知り、信じることができることが流れ出る。なぜなら、このことを知り、信じるように、神は自分の映像を人間の中に置かれるからである。もし神からでなく、自分自身からであると信じたなら異なっていたであろう」。
[6]これらを言って、真理への愛から熱意が彼らから出て、そこからこれらが話された——
「人間は愛と知恵の何らかのものを受けること、そしてそれを保持することが、それを自分自身のもののように感じないなら、どのようにしてできるのか? 愛と知恵によって、人間に何らかの結合の相互のものが与えられていないなら、どのようにして神との結合が与えられることができるのか? なぜなら、相互のものなしに結合は決してありえないからである。人間が自分自身からのように神を愛し、神のものを行ない、それでも神からであることを信じる結合の相互のものがある——なおまた、永遠の神に結合していないなら、どのようにして人間は永遠に生きることができるのか? したがって、どのようにして人間は彼の中に神の似姿なしに人間であることができるのか?」
[7]これらが言われて、すべての者は賛同し、「これらから結論をつくろう」と言った。次のもの——

人間は神の容器であり、神の容器は神の映像である。神は愛そのものと知恵そのものであるので、人間はそれらの容器である。そして容器は受けるかぎり神の映像になる——人間はそのことから神の似姿であること、それらは神からであること、自分自身のものであるかのように自分自身の中にあるかように感じること。しかしそれでも、愛と知恵すなわち善と真理が、彼らの中に自分のものでなく、ここから彼らからでもなく、神の中にだけ、またここから神からであることを認めれば認めるほど、それだけその似姿から神の映像である。