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結婚愛 380

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37 討議:自然はいのちに属すものか、あるいは、いのちは自然に属すものか。なおまた、いのちのまた自然の中心と広がりについて

380 (二つのメモラビリアを加えます、最初のものはこれ——)
かつて私は、創造を、またここから太陽の下のすべてのものを、太陽の上にあるすべてのものを、自然に帰する膨大な数の人間について驚いていた。あるものを見るとき、「これは自然のものではないのか?」と心から認めて言い、それゆえ、「なぜそれらは自然のものであり、神のものでないのか」、と質問されるとき、そのときそれでも、交際しているときは、ときどき、「神が自然を創造した」と言い、ここから見られるものを等しく、「神のものである」とも「自然のものでもある」とも言うことができる。しかしほとんど聞こえない内にこもった声で、「自然でないなら、神とは何か?」と答えている。
彼らは、自然からの全世界の創造についての確信から、またその狂気から、知恵からのように自慢し、神による全世界の創造を認めるすべての者を、地面を這い、いつもの道を行くアリのように、空中を飛ぶチョウのように眺め、それらの教えを、見ないものを見ているので、「だれが神を見たか、だれが自然を見なかったか?」と言って、夢と呼んでいる。
[2]このような者の多数について、私が驚いていた時、脇から天使が私のそばに立って、「何をあなたは熟考しているのですか?」と言った。
私は答えた、「自然が全世界を創造したことを信じているこのような多くの者についてです」。
すると天使が私に言った、「全地獄はこのような者からであり、そこではサタンと悪魔と呼ばれています。サタンは、自然として自分自身に確信し、ここから神を否定した者です。悪魔は、無法に生き、このように心から神の認知のすべてを退けた者です。しかし、私はあなたを南西にある学校(gymnasium)へ案内しましょう、そこにはまだ地獄にいないような者がいます」。
そして、私の手をつかみ、案内した。私は小さい家々を、それらの真ん中に学校を見た、その真ん中に他のものの中心施設のようなものがあった。これはピッチのような色(=黒色)の石から建てられていて、それはあたかもきらめくかのような金や銀からのガラス製の小板でおおわれていた、それらは「マリアの氷」と呼ばれるものであり、同様にあちこちに光り輝く貝殻がちりばめてあった。
[3]ここへ私たちは近づき、たたいた。間もなく、ある者が扉を開け、「ようこそ!」と言った。机へ走り、4冊の本を持ってきて言った、「これらの本は知恵である、これらを国々の大衆が、今日、称賛している。この本、すなわち、この知恵をフランスで多くの者が称賛している、これを多くの者がドイツで、これをある者がオランダで、これをある者がイギリスで称賛している」。
さらに言った、「もしあなたがたが見たいなら、私はこれらの四つの本をあなたがたの目の前で輝くようにする」。その時、自分の名声への称賛が拡散し、取り巻き、間もなく、本は光からのように輝いた。しかしこの光は私たちの目の前で直ちに消えた。
その時、私たちは、今、何を書いているか質問した。答えた、「今は、最内部の知恵のものである、それらを自分の宝庫から引き出し、取り出そう、それらの大要はこれらである」——

(1) 自然はいのちからのものであるのか、あるいは、いのちは自然からのものであるのか。
(2) 中心は広がりのものであるのか、あるいは、広がりは中心のものであるのか。
(3) 自然のまたいのちの中心と広がりについて。

[4]これらを言って、机の椅子へ戻った。けれども、私たちはその広い学校の中を歩いた。
彼は机の上にロウソクを置いた、そこに昼の太陽の光がなく、夜の月の光があったからである。驚いたことに、ロウソクがそこの周囲を動き回り、照らすのが見られた。しかし、それは芯を切っていなかったので、わずかに照らした。彼が書いていたとき、私たちは、いろいろな形で机から内壁へと飛ぶ像を見た。それらはその夜の月の光の中で、インドの美しい鳥〔クジャク〕のように見えた。しかし私たちが扉を開けたとき、見よ、それは太陽の昼間の光の中で、翼に網目がある夕方の鳥〔コウモリ〕のように見えた。というのは、それは確信によって欺きへ作られ、彼により巧妙に連続してつなぎ合わされていた真理の外観であったからである。
[5]私たちがこれらを見た後に、私たちは机に近づき、、今、何を書いているのか、彼に質問した。
彼は、「その最初のもの、自然はいのちからのものであるのか、あるいは、いのちは自然からのものであるのか、についてである」と言った。このことについて彼は、両方とも確認すること、真理であるとしてつくることができる。しかし内部に何らかの深遠なものが隠れて、それを恐れるので、自然はいのちのものである、すなわち、いのちからであること、けれども、いのちは自然のものである、すなわち、自然からであることをあえて確認しない、言った。
私たちは穏やかに、内部に隠れているもの、それを恐れる深遠なものとは何か、と質問した。
彼は、「盲目の信仰から信じる者たち、あるいはその信仰を確認している視覚から見ている者たちから、自然主義者〔自然を神として崇拝する者〕、このように無神論者と聖職者から、また平信徒から健全な理性のない男と呼ばれてしまうことである」と答えた。
[6]しかしその時、真理のための熱意のある種の憤りから、私たちは彼に話しかけて、言った、「友よ、あなたは大いに欺かれています。書くことの才気であるあなたの知恵が、あなたを惑わせました、名声の称賛が、あなたが信じないものを確認することへ導きました。
人間の心が感覚的なものの上に高められることができるものであることはよく知られていませんか? 身体の感覚から思考の中にあるものは、高められるとき、上にあるものを、また下にある自然的なものを見ます。
愛と知恵以外の何らかのいのちとは何ですか? それらの容器以外の何らかの自然とは何ですか? それによってその結果またはその役立ちを生み出します。これら〔愛や知恵と自然〕は一緒であることができますか? 光は目と一緒であることができますか? 音は耳と一緒ですか? これらの感覚は、いのちからでないなら、それらの形は自然からでないなら、どこからですか? 人間の身体は、いのちの器官以外でないなら、何ですか? その人体のすべてと個々のものは有機的に形作られていませんか? それらを生み出すために、それらを愛が意志に、そして理解力が考えます。自然から身体の器官が、そしていのちから愛と思考が存在しませんか? それらは互いにまったく別ものとして存在しませんか?
知力の鋭さを、さらに少しさらに高いところに上げてみなさい、するとあなたは、働きかけられることと考えることがいのちのものであること、働きかけられることが愛から、考えることが知恵からであり、そして両方のものがいのちのものであることを見るでしょう、なぜなら、言われたように、愛と知恵はいのちであるからです。
もしあなたがさらに理解する能力を少し高く上げるなら、あなたは、愛と知恵が、それらの起源があるところでないなら、存在しないこと、それらの起源は〔愛そのものと〕知恵そのもの、ここからいのちそのものであり、これらは神であり、その方から自然があることを見るでしょう」。
[7]その後、私たちは彼と第二のもの、中心は広がりのものであるのか、あるいは広がりは中心のものであるのか、について話した。私たちは、なぜこのことを発表(議論)するのか、質問した。
「自然といのちの中心と広がりについて、そのように一つともう一つの起源について証明する目的のためである」と答えた——私たちが、それが彼の心〔の中にある見解〕であるか質問したとき、これらについて最初のものと同様に、両方とも確認することができること、しかし名声が失われることの恐れから、広がりが中心のものであること、すなわち、中心からであることを確認した。「それでも、私は、太陽の〔存在する〕前に何らかのものがあったこと、これは広がりの中のどこにでも、これが秩序の中へそれ自体から、そのように中心の中へ群がり集まったことを知っている」と答えた。
[8]しかしその時、再び、熱意から憤って彼に話しかけた、「友よ、あなたは狂っています」。このことを聞いた時、彼は机から椅子を遠ざけ、臆病になって、私たちを注視し、その時、耳を向けた、しかし〔疑いをもって〕ほほ笑んでいた。
しかし、私たちは続けて言った、「中心は広がりからである、と言うこと以上にさらに何が狂っていますか? あなたの〔言う〕中心によって、私たちは太陽を、また、あなたの〔言う〕広がりによって、私たちは全世界を理解します、このように全世界は太陽なしに存在したのですか? 太陽は自然とその所有物のすべてのものを生じさせませんか? それらはもっぱら大気を通って太陽から発出する光と熱に依存します。これらは以前どこに〔存在しましたか〕?
しかしこれらがどこからか、続きの中で、話題に取り上げて、言いましょう。大気は、また地球の上のそれらすべてのものは、表面のようであり、太陽はその中心ではありませんか? 太陽なしにそのすべてのものは何ですか? 一瞬でも存続することができますか? ここから、太陽〔が存在する〕以前にそれらすべてのものは何ですか? 存在するようになることができましたか? 存続は永続する存在ではありませんか?
そこで、自然のすべてのものの存続が太陽からであるとき、すべてのものの存在もまた太陽からであることがいえます。このことを見ます、また個人的な観察からそれぞれの者が認めます。
[9]後のものが存在するように、前のものからもまた存続するのではありませんか? もし表面が前のもの、中心が後のものであったなら、前のものは後のものから存続することになり、そのことはそれでも、秩序の法則に反していませんか? どのように、後のものが前のものを、または外的なものが内的なものを、またはさらに粗雑なものがさらに純粋なものを生み出すことができますか? ここから、広がりをつくる表面は、どのように中心を生み出すことができるのですか? このことが自然の法則に反していることをだれが見ませんか?
私たちはこれらの論拠を理性の分析から言い加えたのは、広がりは中心から存在し、逆ではないことを確認するためですが、それでも正しく考えるそれぞれの者が、これらのことがなくても、このことを見ます。
あなたは、広がりがそれ自体から中心へ群がり集まった、と言いました。これほどに不思議なまた驚くべき秩序の中に、一つがもう一つのために、そのように、またすべてと個々のものが人間のために、また彼の永遠のいのちのために、このように偶然にですか? 自然は何らかの愛から何らかの知恵を通してこのようなものを備えることが、また人間から天使を、天使から天界をつくることができますか? これらを前に置き、考えてみてください、すると、自然からの自然の存在についてのあなたの観念は崩壊します」。
[10]この後、私たちは彼に、第三のもの、自然のまたいのちの中心と広がりについて、何を考えたか、またその時、何を考えているか、いのちの中心と広がりが自然の中心と広がりと同じである、と信じているか質問した。
彼は言った、当惑していること、最初は、自然の内的な活動がいのちである、本質的に人間のいのちをつくる愛と知恵はそこからであると思ったこと。また、太陽の火は、熱と光によって、大気を手段〔として〕それら〔いのち〕を生み出したこと、しかし、今、人間の永遠のいのちについて聞いてからは、疑いの中にいて、この疑いが心をある時は上へ向かうように、ある時は下へ向かうようにすること、また、上へ向かうとき、中心を認める、それについて最初は何も知らなかった。また、下へ向かうとき、中心を見る、それを唯一のものと信じた。また、いのちは中心からであり、それについて最初は何も知らなかった、また、自然が中心からであること、それを最初は唯一のものであること、また両方の中心がそれ自体のまわりに広がりをもっていることを信じた。
[11]これらに、私たちは、「いのちの中心と広がりから自然の中心と広がりを、また逆にでなく、眺めることもまた欲するかぎり、それでよいです!」と言った——私たちは彼に〔次のことを〕教えた——
「天使の天界の上に純粋な愛である太陽があり、外観に関して世の太陽のような火であり、その太陽から発出する熱から、天使と人間に意志と愛があり、ここからの光から彼らに理解力と知恵があること。また、それらは霊的なものと呼ばれるものからであり、それらは世の太陽から発出し、いのちの容器であり、自然的なものと呼ばれること。なおまた、いのちの中心からの広がりは霊界と呼ばれ、それはその太陽から存続し、自然の広がりは自然界と呼ばれ、それはその太陽から存続すること。
さて、愛と知恵について、空間と時間は属性とされることができず、しかしそれらの代わりに状態があるので、天使の天界の太陽のまわりの広がりは広がりではない、しかしそれでも、自然的な太陽の広がりの中にあり、そこにいのちの主体のもとに受容にしたがって広がりがあり、受容は形にしたがっていること」。
[12]しかしその時、彼は、「世または自然の太陽の火はどこからか?」と質問した。
私たちは、天使の天界の太陽からであり、それは火ではなく、神から最も近く発出している神的愛であり、その方は愛そのものである、と答えた。
このことは〔彼には〕不思議であるので、私たちはこのように示した——
「愛はその本質の中で霊的な火です。ここから、みことばの中の火はその霊的な意味で愛を意味します。そのゆえ、神殿の中で聖職者たちは、天界の火が心を満たすように、と祈ります、その火によって彼らは愛を理解します。イスラエル民族のもとの幕屋の中の祭壇の火、燭台の火は、神的愛以外の何も表象しませんでした。血の熱は、または人間の、また一般的に動物の生命力の熱は、愛から以外の別の源泉からではなく、それはそれらの生命をつくります。ここから、人間は彼の愛が熱意・怒り・憤りの中で高められる時、火をつけられ、熱くなり、興奮します。それゆえ、そのことから、愛である霊的な熱は、人間のもとに自然的な熱を生み出し、熱くなるまでも彼らの顔と手足に火をつけること、自然的な太陽の火は、神的愛である霊的な太陽の火から以外に、他の源泉から存在しないことを明らかにすることができます。
[13]さて、広がりは中心から生じるので、また逆でなく、前に私たちが言ったように、いのちの中心は、それは天使の天界の太陽であり、神から最も近く発出する神的愛であり、その方はその太陽の真ん中におられます。ここから、その中心の広がりがあるので、それは霊界と呼ばれます。また、その太陽から世の太陽が存在するようになったので、このことからその広がりが、それは自然界と呼ばれ、全世界は唯一の神により創造されたことが明らかです」。
これらの後、私たちは去った。彼は自分の学校の入り口を越えて、私たちに同行し、私たちと、新しい知力の賢明さで、天界と地獄について、神的統治について話した。