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結婚愛 494

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494 (14) 第三と第四段階の姦淫は、行為で行なわれたにしろ行為で行なわれなかったにしろ、それらの中の理解力と意志の量と質によって、罪の悪である
第三段階のものである理性のまたは理解力の姦淫には、そして第四段階のものである意志の姦淫には、理解力と意志の性質にしたがってきびしさが、したがって罪の悪があることは、それらについての前の論証から見られることができます(490–493番)。その理由は、人間は意志と理解力から人間であるからです。なぜなら、それら二つのものから、心の中に生じるすべてのものは存在するようになるだけでなく、身体の中に生じるすべてのものもまた存在するようになるからです。身体はそれ自体から活動しません、しかし意志が身体によって活動します、なおまた、口はそれ自体から話しません、しかし思考が口によって話していることを、だれが知りませんか? それゆえ、もし意志が取り去られるなら、一瞬に、行動は止まります。もし思考が取り去られるなら、一瞬に、口の話しは止まります――ここから、行為で行なわれる姦淫は、それらの中の理解力と意志の量と質にしたがってきびしいものであることがまったく明らかです。もし行為で行なわれなくても、同様に、きびしいものであることは、主の次のことばから明らかです――

昔の人から、あなたは姦通してはならない、と言われています。けれども、わたしはあなたがたに言います。もし、だれかが他の者の女を、そのように彼女を強く欲するように見たなら、すでに彼女と心で姦淫を犯したのです(マタイ5:27, 28)。

「心で姦淫を犯すこと」は、意志で犯すことです。
[2]行為での姦淫者ではありませんが、それでも、意志そして理解力での姦淫者となる多くの原因があります。というのは、行動に関して姦淫を慎む者がいるからです、市民の法律への恐れから、またその罰への恐れから、名声とここから名誉が奪われることへの恐れから、それらからの病気への恐れから、家で妻からの口論とここから生活の安らぎ欠如への恐れから、夫からまたは親類からの復讐への恐れから、そのようにまた召使いからのむち打ちへの恐れから、貧乏から、またはけちから、あるいは病気から起こる衰弱から、あるいは濫用から、あるいは年齢から、あるいは性的不能またここからの恥ずかしさから――もし、だれかがこれらのまた同様の原因から、行動での姦淫を抑制し、それでも意志と理解力でそれらに賛成するなら、やはり姦淫者です。というのは、それにもかかわらず、罪でないことを信じ、それを自分の霊の中で行なうことは神の前で許されなくもないとし、このように、たとえ世の前で身体でなくても、霊の中でそれを犯すからです――それゆえ、死後、霊となるとき、あからさまに、それらに賛成して話します。