主について3
3 ここにもまた、旧約聖書の「イザヤ書」から「マラキ書」まで、すべての預言書のもとに、 全般的にまた特定的に、主について何が扱われているか簡潔に述べておきます——
(1) 主は、定めの時に世にやって来られた。それは、ご自分がもはやユダヤ人から知られなかった、またそのことから教会の何らかのものが残らなかった時であった。その時、主が世に来られなかったなら、ご自分を現わされなかったなら、人間は永遠の死のうちに滅んでしまった——その方が「ヨハネ福音書」で言われている、
あなたがたが、わたしがある(存在する)ことを信じないなら、あなたがたは罪の中で死にます(8・24)。
(2) 主は最後の審判を行なうために世にやって来られた、それによって、その時、支配的であった地獄を征服された。それは闘争によって、すなわち、母からのご自分の人間性に試練を受けることを許して、またその時、絶え間のない勝利によって行なわれた——それが征服されなかったなら、人間はだれも救われることができなかった。
(3) 主は、受胎からその方の中にあった人間性を栄化するために、すなわち、その神性を結合させるために世にやって来られた。
(4) 主は、主を「あがない主」と「救い主」と認め、そしてその方への愛と信仰によって、あがなわれ、救われる新しい教会を設立するために世にやって来られた。
(5) 同時に、その時、天界を教会と一つとなるよう秩序づけられた。
(6) 十字架の受難は、最後の闘争すなわち試練であった、それによって完全に地獄に勝利し、完全にご自分の人間性を栄化された。
みことばが〔これら以外の〕他の事柄について扱っていないことは、〔本書に〕続く小著『聖書について』の中にあります。