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主について25

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25 審判について扱われているとき、主は「人の子」と言われた

このことは、これらから明らかです——

人の子がご自分の栄光の中にやって来る時……その時、ご自分の栄光の王座の上に座り、そして羊を右側に、また山羊を左側に置く(マタイ25・31、33)。
人の子がご自分の栄光の王座の上に座る時、イスラエルの十二の部族をさばく(マタイ19・28)。 人の子が自分の父の栄光の中にやって来る……その時、それぞれの者にその行為にしたがって報いる(マタイ16・27)。
(あなたがたは)すべての時に目覚めていなさい……あなたがたが価値を持つように……人の子の前でしっかりと立つために(ルカ21・36)。
あなたがたは、人の子がやって来るその時を思わない〔からです〕(マタイ24・44。ルカ12・40)。
父はだれもさばかれません、しかしすべてのさばきを子に与えられました……〔子は〕人の子であるからです(ヨハネ5・22、27)。

主が、審判について扱われているとき、ご自分を「人の子」と呼ぶ理由は、すべての審判は、みことばの中にある神的真理にしたがって行なわれるからです。
これがそれぞれの者を裁くことを、その方は「ヨハネ福音書」で言われています、

もしだれかがわたしの言うことを聞いて、信じないなら、それでも、わたしはその人をさばきません、というのは、わたしは、世をさばくために来たのではないからです。……わたしが話すことばが、それが最後の日にその人をさばきます(12・47、48)。

また他の箇所に、

人の子がやって来たのは、「世をさばくためでなく……その方によって救われるためです。その方を信じる者は、さばかれません。けれども、信じない者は、すでに裁かれています、神のただひとりの子の名前を信じなかったからです」(3・17、18)。

主がだれも地獄へと裁かれないで、すなわち地獄へ投げ込まれないで、悪い霊そのものが自分自身を投げ込むことは、著作『天界と地獄』(545―550574番)にあります。
「エホバの名前」「主の名前」「神の子の名前」によって神的真理が意味され、そのようにまた、その方から、その方について、このようにその方である、みことばが意味されます。