カテゴリー

主について64

63◀︎目次▶︎65

64 みことばの中の「エルサレム」によって教えに関する教会が意味されることの理由は、そこに、他の場所でなくカナンの地に神殿があり、いけにえが行なわれ、このように神的な礼拝そのものがあったからであり——それゆえ、さらにまた毎年三つの祭りが祝われ、またその祭りへ全地のすべての男性は行くことが命じられました。
そのことから、「エルサレム」によって礼拝に関する教会が、またここから教えに関する教会も意味されます、なぜなら、礼拝は教えの中で定められ、それらにしたがって行なわれたからです——なおまた、主はエルサレムの中におられ、その神殿の中で教え、その後、そこでご自分の人間性を栄化されたからです。
さらに、みことばの中の「都」によってその霊的な意味で、教えが、そこから、「聖なる都」によって主からの神的真理の教えが意味されます(*)。
[2]「エルサレム」によって教えに関する教会が意味されることは、みことばの中の他のものからもまた明らかです。例えば、これらから。
「イザヤ書」に——

 シオンのために、わたしは黙っていない。エルサレムのために、わたしは休まない。その義が輝きのように出て、その救いが明かりのように燃えるまでは。その時、国々はあなたの義を、すべての王はあなたの栄光を見る。あなたに新しい名前が呼ばれ、それをエホバの口が発声する。あなたはエホバの手の中の美しい王冠となり、あなたの神の手の中の王のかぶり物となる。……エホバはあなたを喜び、あなたの地は夫を与えられる。……見よ、あなたの救いがやって来る。見よ、その方の報酬がその方とともにある。……彼らは、聖なる民、エホバにあがなわれた者と呼ばれる——あなたは、求められ、見捨てられない都と呼ばれる(62・1―4、11、12)。

 その全章の中に主の来臨について、またその方による設立されるべき新しい教会について扱われています——この新しい教会は、「エルサレム」によって意味されるものであり、それは「新しい名前が呼ばれ、それをエホバの口が発声し」、そしてそれは「エホバの手の中の美しい王冠、あなたの神の手の中の王のかぶり物となり」、それを「エホバは喜び」またそれは「求められ、見捨てられない都と呼ばれる」——これらによって、主が世にやって来たとき、ユダヤ人がいたエルサレムが意味されることはできません、なぜなら、それはすべての正反対のものであったからです。それはむしろソドムと呼ばれるべきであり、そのようにもまた呼ばれています(黙示録11・8。(また参照)イザヤ3・9。エレミヤ23・14。エゼキエル16・46、48)。
[3]「イザヤ書」の他の箇所に、

 見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造している……前のものは思い出されない。……あなたがたは、わたしが創造しているものを、永遠の中で喜べ、小躍りせよ。見よ……わたしは歓喜のエルサレムを創造し、その民を喜び〔とする〕、エルサレムに小躍りし、わたしの民を喜ぶために……。その時、狼と子羊は一緒に食う……わたしの聖なる全山の中で悪は行なわれない(65・17―19、25)。

この章にもまた主の来臨について、またその方により設立されるべき教会について扱われています。それはエルサレムの中にいた者のもとに設立されませんでした、しかしその外にいた者のもとに設立されました——それゆえ、主に歓喜であり、その民はその方に喜びであり、なおまた、そこにオオカミと子羊は一緒に食い、そこに悪は行なわれない「エルサレム」によって、この教会が意味されます。
ここにもまた、「黙示録」の中のように、主が「新しい天と新しい地」を創造されることが言われていて、それらによってもまた似たものが意味されます。そしてまた、「エルサレム」の創造が言われています。
[4]「イザヤ書」の他の箇所に、

 起こされよ、起こされよ、あなたの力をおびよ、シオン。あなたの美しい衣服を着よ、聖なる都エルサレム。あなたの中に、もはや無割礼の汚れた者がやって来るようにしないからである。あなたはちりを振り払え、起き上がり、すわれ、エルサレム。……民はわたしの名前を知るようになる……その日に。なぜなら、わたしは、「見よ、わたしを」と話す者であるから。……エホバはご自分の民を慰め、エルサレムをあがなわれた(52・1、 2、6、9)。

その章にもまた主の来臨について、またその方から設立されるべき教会について扱われています。それゆえ、「エルサレム」によって、その中にもはや無割礼の汚れた者がやって来ず、主があがなわれた教会が、また「聖なる都エルサレム」によって主からの教えに関する教会が意味されます。
[5]「ゼパニヤ書」に、

 歓呼せよ、シオンの娘。……すべての心から喜べ……エルサレムの娘。イスラエルの王が……あなたの真ん中に〔おられる〕——もはや悪を恐れるな。……〔その方は〕楽しさとともにあなた喜ばれる、あなたの愛の中で満足し、歓呼とともにあなたを小躍りして喜ばれる。……わたしはあなたがたに、地の民からのすべての者による名声と称賛を与える(3・14―17、20)。

同様に、ここに主について、またその方による教会について〔扱われています〕。その教会に、主であるイスラエルの王は、「楽しさとともに喜ばれ」、「歓呼とともに小躍りして喜び」、「その愛の中で休まれ」、その者たちに「地の民からのすべての者による名声と称賛を与え」られます。
[6]「イザヤ書」に、

 あなたのあがない主、またあなたの形成者エホバはこのように言われた……エルサレムに、「あなたは住むようになる」、またユダヤの町々に、「私たちは建築するようになる」と言われた(44・24、26)。

また「ダニエル書」に、

 知って……また認めよ。みことばが出てから、エルサレムの回復まで、また建築まで、君主メシアまで、七週(9・25)。

「エルサレム」によってここにもまた教会が意味されることは、明らかです。これは主により回復され、建築されたけれども、ユダヤ人たちの席(場所)のエルサレムではないからです。
[7]以下の箇所によってもまた「エルサレム」によって主からの教会が意味されます。
「ゼカリヤ書」に、

 エホバは言われた、「わたしはシオンへ戻ろう、わたしはエルサレムの真ん中に住もう。ここからエルサレムは、真実の都、万軍のエホバの山、聖なる山と呼ばれよう」(8・3、20―23)。

「ヨエル書」に、

 その時、あなたがたは、シオンに、神聖な山に住むわたしエホバがあなたがたの神〔である〕ことを知る……。エルサレムは神聖となる。……その日に、山々には新しいぶどう酒が滴り、丘々には乳が流れる。……エルサレムは代々に住む(3・17―20)。

「イザヤ書」に、

 その日、エホバの若枝は、美観の中に、栄光の中にある。……シオンに残された者は、エルサレムの残りの者は、聖と呼ばれる……。すべての者はエルサレムでいのちへ向けて書かれる(4・2、3)。

「ミカ書」に、

 終わりの日に、主の家の山は山々の頂に立つ。……なぜなら、シオンから教えが、エホバのことばがエルサレムから出るから。……あなたに前の王国が、エルサレムの娘の王国がやって来る(4・1、2、8)。

「エレミヤ書」に、

 その時、エルサレムはエホバの王座と呼ばれる。……すべての国はエホバの名前のためにエルサレムに集められる。もはや、自分の悪い心を確信してその後ろを歩くこともない(3・17)。

「イザヤ書」に、

 私たちの変わらない祝祭の都シオンを眺めよ。あなたの目はエルサレムを、静かな住まい、追い散らされない天幕を見る。そのくいは永久に取り除かれず、そのすべての綱は引き離されない(33・20)。

加えて他の箇所にもまた(例えば、イザヤ24・23、37・32、66・10―14。ゼカリヤ12・3、6、8―10、14・8、11、12、21。マラキ3・2、4。ダビデの詩篇122・1―7、詩篇137・4―6)。

[8]「エルサレム」によって、それらの箇所の中に主により設立され、また設立された教会が意味されることは、ユダヤ人たちにより住まわれたカナンの地のエルサレムではないことは、みことばの箇所からもまた明らかにすることができます、そこにはこのことについて、完全に失われ、破壊されるべきものであったと言われています——

例えば、エレミヤ5・1、6・6、7、7・17、18続き、8・5―7続き、9・11、 12、14続き、13・9、10、 14、14・16。哀歌1・8、 9、17。エゼキエ4・1終わりまで、5・9終わりまで、12・18、19、15・6―8、16・1―63、23・1―49。マタイ23・33、37、39。ルカ19・41―44、21・20―22、23・28―30。また多くの他の箇所の中に。