神の摂理 80
80 単に考えるだけで、それどころか、欲しようと考えても、同時にそれを欲さないなら、さらにまた、機会が与えられる時、それを行なおうとまで欲さないなら、人間に何も自分のものとなりません。
その理由は、人間はそれを行なう時、それを意志から理解力を通して、すなわち意志の情愛から思考の理解力を通して、行なうからです――けれども、著作『神の愛と知恵』第五部の中に数多く示されているように、思考のものだけであるかぎり、自分のものにされることができません。理解力がそれ自体を意志と結合させません、すなわち、理解力の思考が意志の情愛と結合しません、しかし、意志とその情愛がそれら自体を理解力とその思考に結合するからです。
このことが次の主のことばによって意味されます、
口に入るものは、人間を汚しません、しかし(心から)口を通って出るものが、人間を汚します
(マタイ15・11、17、18、19)。
思考は口によって話されるので、「 口」によって霊的な意味で思考が意味されます。また「 心」によって、その意味で愛のものである情愛が意味されます――人間が情愛から考え、話すなら、その時、汚れます。
「ルカ福音書」(6・45)の「心」によってもまた、愛のものまたは意志のものである情愛が、また「口」によって理解力のものである思考が意味されます。