カテゴリー

神の摂理 109

108◀︎目次▶︎110

109 時々、人間の思考の外なるものが、本質的に内なるものと〔同じ〕でないように見られます。しかし、このことは、〔悪の〕いのちの愛がその内なるものをそれ自体のまわりに、中間(手段)の愛と呼ばれる代理をそれ自体の下に、それに連結させ、その欲望から何らかのものが見られないように用心し、守るために置くので生じます。
それゆえ、この代理は〔悪の〕いのちの愛であるその源の欺きから、王国の市民にふさわしいものと理性の道徳にしたがって、また教会の霊的なものにしたがって話し、行動します。ある者は、だれにも見られないように、このように狡猾に、巧妙に、むしろこのような者であるかのように、ついにはヴェールでおおうことから、ほとんどその者自身が他の者とわからないように話し、行動します。
すべての偽善者はこのような者です。心で隣人を無とし、神を恐れない祭司はこのような者であり、それでもなお、隣人の愛について、神の愛について説教します――贈り物と友情にしたがって裁判する裁判官はこのような者であり、そのとき公正のために、理性から熱意を見せかけて、判決を下します。心では不誠実で、ごまかす商人はこのような者であり、〔それでも〕そのとき利益のために誠実に行動します――また姦淫者はこのような者であり、そのときそれぞれの人間にある推理力から結婚の貞潔について話します、等々。
[2]しかし、同じ者が、彼のいのちの愛の代理である中間(手段)の愛が、着ていた紫の色の亜麻布の衣服を脱ぎ、そして自分の部屋着のガウンを着るなら、その時に考え、時には自分の思考から、似ているいのちの愛の中にいる最も親しい者に、まったく反対のことを話します。
彼らは、中間(手段)の愛から、このように公正に、誠実に、敬虔に話し、その時、思考の内的なものがどんなものであるか彼らの思考の外的なものからあったものではないと信じさせることができます、しかし、それでも、〔そのようなもので〕あったのです。それらの中に偽善があり、それらの中に自己と世への愛があり、その狡猾さは名誉の名声を、または利益のために獲得することであり、それでも〔そのことは〕最外部の外観に〔向けたものです〕。
この内なるものがどんなものかは、そのとき、そのように話し、行動する時、彼らの思考の外なるものの中にあります。