カテゴリー

神の摂理 152

151◀︎目次▶︎153

152 人間に内なるものと外なるものがあり、そして人間が改心されるためには両方とも改心されなければならず、自分の悪を見て、認め、自分自身を調べないなら、その後、それをやめないなら、だれも改心されることができないので、外なるものだけでなく、内なるものもまた調べられなくてはならないことがいえます。
外なるものだけが調べられるなら、人間は実際に犯したことしか何も見ません。例えば、殺さなかった、姦淫しなかった、盗まなかった、偽って証言をしなかったことなどです――このように自分の身体の悪を調べて、自分の霊の悪を調べません。それでも、改心されることができるために、霊の悪が調べられなければなりません。なぜなら、死後、人間の霊が生き、すべての悪はその霊の中にあって残るからです。霊は、人間が自分の思考に、特に意図に留意することでしか調べられません、なぜなら、意図は意志からの思考であるからです。そこに悪が、その起源の中に、その根の中にあります、すなわち、その欲望の中に、その快さの中にあります。それらが見られ、認められないなら、外なるものの中でどれほどそれらを犯さなくても、人間はやはり悪の中にいます。
意図から考えることが意志することと行なうことであることは、主のことばから明らかです、

もしだれかが他の女を、このように彼女をほしがるようにして眺めたなら、すでに彼女と心の中で姦淫を犯したのです(マタイ5:28)。

このような調べが内なる人の調べであり、その調べから本質的に外なる人が調べられます。