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神の摂理 166

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166 けれども、人間が照らしによって教えられるのは、教えられることと照らされることもまた理解力について言われるからです。なぜなら、人間の内なる視覚である理解力は、自然的な光から目である人間の外なる視覚が照らされるのとは異なって、霊的な光から照らされるからです。
さらにまた両方とも同様に教えられます。しかし、理解力である内なる視覚は、霊的な対象により教えられ、目である外なる視覚は、自然的な対象により教えられます。
霊的な光と自然的な光があり、両方とも外的な外観では似ています、しかし、内なるものに関して異なっています。というのは、自然的な光は自然界の太陽からであり、ここから本質的には死んでいます、しかし、霊的な光は、霊界の太陽からであり、ここから本質的に生きているからです。
この光が人間の理解力を照らし、自然的な光が照らすのではありません。
自然的で理性的な光(ルーメン)は、後者の〔自然的な〕光からではなく、しかし、前者の〔霊的な〕光からのものです。
自然的で理性的な光(ルーメン)と呼ばれるのは、霊的自然的であるからです。
[2]というのは、霊界の中に、光の三つの段階、天的な光・霊的な光・霊的自然的な光があるからです。
天的な光は赤く輝く燃えるような光です。この光は第三の天界の者にあります。霊的な光は白く輝く光です。この光は中間の天界の者にあります。霊的自然的な光は私たちの世界の日中の光のようです。この光は最も低い天界の者にあります。さらにまた、天界と地獄の間にいる霊たちの世界にいる者のもとにあります。しかし、この霊たちの世界の中の光は、地上の善い者のもとの夏の光のようであり、悪い者のもとの冬の光のようです。
[3]しかし、霊界の光は自然界の光と何も共通なものを持たず、生きているのと死んでいるように異なることを知らなくてはなりません。
それらから、理解力を照らすのは、私たちの目の前にあるような自然的な光ではなく、霊的な光であることが明らかです。
このことを人間は知りません、霊的な光について今まで何も知らなかったからです。
霊的な光がその起源の中で神的な知恵または神的な真理であることは、著作『天界と地獄』の中に示されています(126-140番)。