神の摂理 168
168 人間の理解力は照らしの中にあり、主により教えられる者はその照らし中にいますが、その照らしについて何らかのものをほとんどの者が知らないので、それゆえ、その照らしについて何らかのものを述べます。
主から、内的な照らしと外的な照らしがあり、人間からも内的な照らしと外的な照らしがあります。
主からの内的な照らしは、言われたことが真理であるかあるいは真理でないか、人間が最初に聞いて知覚することです。
外的な照らしは、ここから思考の中にあります。人間からの内的な照らしは、確信からだけです。人間からの外的な照らしは、知識からだけです――しかし、個々のものについて何らかのことを述べます。
[2]「主からの内的な照らしから理性的な人間」は、多くのことが真理であるかあるいは真理でないか、聞くとき、すぐさま知覚します。
例として、愛は信仰のいのちであること、すなわち、信仰は愛から生きることがあります。
人間は内的な照らしから次のこともまた知覚します、どんなものでも人間が愛するものを意志し、意志するものを行ない、ここから、愛することは行なうことであること――なおまた、どんなものでも人間は愛から信じるものを意志し、行ない、ここから、信仰を持つことは行なうことでもあること、そのように、不信心な者は、神の愛を、したがって神の信仰も持つことができないことです。
理性的な人間は照らしからもまた、聞くときすぐさま、次のことを知覚します――神はひとりであること、神は遍在すること、すべての善はその方からであること、なおまた、すべてのものは善と真理に関係すること、すべての善は「善そのもの」からであり、またすべての真理は「真理そのもの」からであることです。
これらやまた他の同様のものを聞くとき、人間は内的に自分自身の中に知覚します。知覚することは、彼に推理力があり、天界の光の中にそれらを照らすものがあるからです。
[3]「外的な照らし」は、その内的な照らしからの思考の照らしです。思考は、その照らしの中にいればいるほど、それだけ内的な照らしからの思考を知覚の中に持ち、同時にそれだけ彼に真理と善の知識となっています。というのは、これらの知識から論拠を得て、それらによって確信するからです。
この外的な照らしからの思考は、事柄を両方の側から見ます。一つの側からは確信を強める論拠を見ます、もう一つの側からは弱める外観を見て、後者を追い散らし、前者を迎え入れます。
[4]けれども、「人間からの内的な照らし」は、完全に別ものです。
人間はこれにより事柄を一つの側から見ますが、他の側から見ません。それを確信したとき、それを外観に関して同様の光の中で見ます(その光については前述しました)、しかし、冬の光です。
例として次のことを挙げます――
贈り物からまた利益のために不正に裁く裁判官は、法律によってまた論証によって判決を確信した後、自分の判決の中に公正しか見ません。
ある裁判官は不正を見ます、しかし、それを見ようと欲しないので、自分自身を曇らせ、見えないようにし、したがって見ません。
友情から、恩恵を得ようとすることから、親戚との結びつきから、判決を下す者の裁判も同様です。
[5]権威ある者の口または名声ある男の口から取り入れる者、または自己の知性から、すべての物事について考え出す者も同様です――盲目の理性を持つ者です。なぜなら、彼らにそれを確信する虚偽からの視覚があるからです。そして、その視覚を虚偽は閉ざし、真理は開きます。
このような者は真理を真理の光から何も見ず、公正を公正の愛から何も見ません、しかし、確信の光から見ますが、それらは愚かな(弱い)光です。
霊界の中では、頭のない顔のように、または、木の頭が後ろにある人間の顔に似た顔のように見え、理性的な家畜と呼ばれます、彼らに推理力が可能性の中にあるからです。
けれども、「人間からの外的な照らし」は、記憶に刻みつけられた知識だけから考え、話す者のもとにあります。これらの者は、自分自身からでは何らかの事柄をほとんど確信することができません。