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神の摂理 193

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193 (1)人間のすべての思考は彼のいのちの愛の情愛からのものであり、それらなしで、まったく思考は何もなく、存在することもできない
いのちの愛が何か、情愛とそこからと思考が何か、これらから身体の中に存在するようになる感覚と行動がその本質では何であるか、この著作の前のほうに、そしてまた『神の愛と知恵』と呼ばれる著作に、特に、その第一部と第五部の中に示されています。
さて、人間の思慮分別を原因として結果が生ずることになっているので、それらについて何らかのものがここにもまた提示されることが必要です――なぜなら、他のところで書かれたものが、そのあとで書かれたものと、同じものが思い出され、視野の中に置かれるようにしなければ、連続的に結ばれることができないからです。
[2]この論文のこれまでの中に、また前述の『神の愛と知恵』の中に、主の中に神的な愛と神的な知恵があること、それら二つのものは、いのちそのものであること、それら二つのものから人間に意志と理解力があり、神的な愛から意志が、神的な知恵から理解力があること、身体の中の心臓と肺はそれら二つのものに対応することが示されています。ここから、心臓の鼓動が肺の呼吸と一緒に人間全体をその身体に関して支配するように、意志は理解力と一緒に人間全体を心に関して支配すること――このように一つは自然的なものともう一つは霊的なものであるいのちの二つの源がそれぞれの人間にあること、いのちの自然的な源が心臓の鼓動であり、いのちの霊的な源が心の意志であること、両方ともそれ自体を配偶者と接合させ、それとともに一緒に住み、それとともにいのちの機能を働かせ、心臓はそれ自体に肺を結合させ、意志はそれ自体に理解力を結合させることを明らかにすることができます。
[3]そこで、意志の霊魂は愛であり、理解力の霊魂は知恵であり、両方とも主からのものであるので、愛はそれぞれの者のいのちであり、どのように知恵が結合しているかによって、愛はそのようないのちであることがいえます。すなわち、同じことですが、意志はそれぞれの者のいのちであり、この意志はどのように理解力が結合しているかによって、そのようないのちであることがいえます。
しかし、これらの多くのものについて、この著作の前のほうに、また特に、『神の愛と知恵』の第一部と第五部の中に見られます。