神の摂理 216
216 (2)永遠なものは、天界の中の愛と知恵のものである霊的な名誉と富に関係する
自然的な人間は、自分の愛の快さを、また悪の欲望の快さもまた、善と呼び、それらが善であることもまた確信するので、それゆえ、名誉と富を神の祝福と呼びます。
しかし、その自然的な人間は、悪い者が善い者と等しく名誉へ高められ、富へと進むのを見るとき、またさらに、善い者が軽蔑と貧困の中に、悪い者が称賛と裕福の中にいるのを見るとき、自分自身に、「これは何か?神的な摂理は存在するはずがない。なぜなら、もし神的な摂理がすべてを支配しているなら、善い者に名誉と富を与え、悪い者を貧困と軽蔑で苦しめ、また神がおられ、神的な摂理があることを悪い者が認めるように強いる〔はずである〕から」と考えます。
[2]しかし、自然的な人間は霊的な人間から照らされないなら、すなわち、同時に霊的でないなら、名誉と富が祝福でありうること、そしてまた呪いでありうること、祝福であるとき神からであり、呪いであるとき悪魔からであることを見ません。
さらにまた、名誉と富は悪魔により与えられることは、よく知られています。なぜなら、そのことから悪魔は世の君主と呼ばれるからです。
そこで、名誉と富のどこに祝福があるか、そしてどこに呪いがあるか、知られていないので、次の順序で、言わなくてはなりません――
(1)名誉と富は、祝福であり、呪いである。
(2)名誉と富は、祝福である時、霊的であり、永遠である、しかし、呪いである時、一時的なものであり、はかないものである。
(3)呪いである名誉と富は、祝福である名誉と富と比較すれば、すべてと比べて何ものでもないようなもの、そして本質的に存在するものに比べて本質的に存在しないようなものである。