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神の摂理 251

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251 (3)自分自身と自然を礼拝する者は、戦争が許され、その時、これほど多くの人間が死に、彼らの財産が略奪されることを考えるとき、神的な摂理に反対して確信する
戦争が起こるのは、殺害・略奪・暴力・残酷、憎むべきその他の悪と結合しており、それらは真っ向からキリスト教の仁愛に反しているので、神的な摂理からではありません――しかしそれでも、許されことができます。人間のいのちの愛は、アダムと彼の妻によって意味される最古代の者の後(それらについて前の241番)、他の者をまた最後にはすべての者を支配することを欲し、世の富を最後にはすべての富を所有することを欲するようなものになったからです。
これら二つの愛は、束縛の中に保たれることができず、そのとき、それぞれの者に理性にしたがって自由の中で行動することが許されているように(そのことについては前の71-99番参照)、神的な摂理にしたがっています。許しなしに、人間は主により悪から導かれ、したがって改心し、救われることができません。なぜなら、悪が突発することが許されないなら、人間はその悪を見ず、したがってそれを認めず、このようにそれに抵抗することができないからです。
ここから、何らかの摂理によって悪が妨げられることはできません。なぜなら、このように閉じ込められてとどまるなら、癌と壊疽と呼ばれる疾患のように、それは歩き回り、人間の生命力のすべてを滅ぼすからです。
[2]人間は生来から小さい地獄のようであるので、その地獄と天界の間に絶え間ない不一致があります。
人間はだれも、主により、その地獄にいることを見ないなら、導き出されることを欲しないなら、自分の地獄から引き出されることができません。このことは許しなしに行なわれることができず、その原因は神的な摂理の法則です。
この原因から、小なり大なりの戦争があります。小さいものは地所の所有者と彼の隣人の間に、大きいものは国の君主とその隣国の間にあります。
小さいものと大きいものに、小さいものは国の法律によって、大きいものは諸国民の法律によって限度が保たれること以外に、何ら相違はありません。また、小さいものも大きいものもその法律を破ろうとしますが、しかし、小さいものはできず、大きいものはできます、しかしそれでも、可能性の範囲内です。
[3]大きい戦争が、殺害・略奪・暴力・残酷と結びついているので、主により妨げられず、王や大公のもとで、〔その〕始まりの中でなく、進行中でもなく、しかし、一方またはもう一方の力が弱くなり、彼に死の危険が減らされるような終わりの中で〔戦争が終わりにされ〕、〔それには〕多くの原因があり、それらは神的な知恵の宝庫に隠されています。それらから何らかのものが私に示されました。それらの間に次のものがあります――すべての戦争は、市民的なものであるとはいえ、天界の中の教会の状態の表象であり、対応するものであることです。
みことばの中に述べられているすべての戦争はそのようなものであり、今日のすべての戦争もそのようなものです。
みことばの中で述べられた戦争は、イスラエル民族がいろいろな国民と、例えば、エモリ人・アンモン人・モアブ人・ペリシテ人・シリア人・エジプト人・カルデア人・アッシリア人と行なったものです。教会を表象したイスラエル民族が、戒めと法令から逸れ、悪の中に堕落したとき、イスラエル民族と戦争を行なった国民によって罰せられました。それらの悪がそれらの国民によって意味されたからです、というのは、それぞれの国民は何らかの種類の悪を意味したからです。
例えば、不潔な偶像崇拝によって教会の聖なるものが冒涜されたとき、アッシリアとカルデアによって聖なるものの冒涜が意味されるので、アッシリア人とカルデア人によって罰せられました。
ぺリシテ人との戦争によって何が意味されるかは、『新しいエルサレムの教え 信仰について』に見られます(50-54番)。
[4]今日の戦争によって、それがどこに存在しても同様のものが表象されます。というのは、自然界に生ずるすべてのものは、霊界の中の霊的なものに対応し、すべての霊的なものは教会に関係するからです。
この世では、イスラエル民族と戦争が行なわれたキリスト教世界の中のどの国がモアブ人とアモン人に、どの国がシリア人とペリシテ人に、どの国がカルデア人とアッシリア人に、その他に関わりがあるか、知られていません。しかしそれでも、それらに関わりのある者たちがいます。
しかし、地上で、教会がどんなものであるか、またその教会が陥り、どの悪がそのために戦争によって罰せられたのかは、自然界の中ではまったく見られることができません、この世の中では外なるものだけが明らかであり、その外なるものは教会をつくらないからです。しかし、霊界の中では、そこに内なるものがあり、それらの中に教会そのものがあって、そして、そこにそれらのいろいろな状態にしたがって結合されて、見られます。
霊界の中のこれらの衝突が戦争に対応し、それらは両方とも主によりご自分の神的な摂理にしたがって、対応して支配されています。
[5]世の中の戦争が主の神的な摂理によって支配されていることを、霊的な人間は認めます、しかし、自然的な人間は認めません。単に勝利のための祝祭が告げ知らされる時、神にひざまずいて、勝利を与えられたことを感謝します、そしてまた戦いの始まる前には少ない言葉で〔武運を祈ります〕。しかし、自分自身の中に戻るとき、勝利を司令官の思慮分別、あるいは戦いの最中の何らかの計画または物事に帰します。それについては決して考えなかったし、それでもそれらから勝利〔したのでした〕。
[6]「運」と呼ばれる神的な摂理が、物事のさらにまた軽微なものの最も個々のものの中にあることは前に見られます(212番)。もしあなたがそれらの中に神的な摂理を認めるなら、戦争の事柄の中のすべてのものにあなたはその摂理を認めるはずです。
成功や普通の言葉で武運と呼ばれる戦争の事柄で、特に、司令官の計画や熟考の中で恵まれた幸運もまた、たとえその時、またその後、そのすべてを自分の思慮分別に帰しても、神的な摂理です。
しかし、もし欲するなら、この〔自分の思慮分別に帰す〕ことを行なうでしょう、なぜなら、神的な摂理としてまたそれに反して、それどころか神に〔感謝して〕またそれに反して、まったく自由な考えの中にいるからです。しかし、自分自身からの計画や熟考は何もないこと、すべてのものは天界からあるいは地獄から、地獄からは許しから、天界からは摂理から流入することを知るべきです。