神の摂理 311
311 プロプリウムの思慮分別とその中にいる者の記述から、プロプリウムでない思慮分別とその中にいる者がどんなものであるか見ることができます。すなわち、プロプリウムの思慮分別でない思慮分別は、「どのようにして、だれが自分自身から賢明であることができるのか、どのようにして、だれが自分自身から善を行なうことができるのか?」と言って、知性と知恵は人間からでないことを、自分自身のもとに確信していない者の思慮分別です。
このことが言われるとき、自分自身の中でそのようであることを見ています、というのは、内的に考えるから。そしてまた、他の者たちが、特に学識のある者たちが、同様に考えると信じています、外的にだけ考えることができる者がいることを知らないからです。
[2]彼らは外観の何らかの確信による欺きの中にいません。それゆえ、殺人・姦淫・盗み・偽りの証言が罪であることを知り、知覚し、それゆえ、それらを避けます。なおまた、悪意が知恵ではなく、狡猾が知性ではないことも知ります。欺きからの才気走った推論を聞くとき、いぶかり、自分自身の中で微笑みます。
その理由は、彼らのもとに内的なものと外的なものの間の垂れ幕が、すなわち、感覚的な者のもとにあるような心の霊的なものと自然的なものの間の垂れ幕がないからです。それゆえ、天界から流入を受け、その流入から内的にこのようなものを見ます。
[3]彼らは他の者よりも単純にまた誠実に話し、そして生活の中に知恵を置き、話の中に置きません。
プロプリウムの思慮分別の中にいる者と比較すれば、子羊や羊とオオカミやキツネのようです。家の中に住み、窓を通して空を見る者のようですが、プロプリウムの思慮分別の中にいる者は家の地下室の中に住み、その窓を通して地の下にあるものしか見ない者のようです。山に立ち、プロプリウムの思慮分別の中にいる者が谷や森の中をさ迷っているように見る者のようです。
[4]これらから、プロプリウムでない思慮分別が主からの思慮分別であること、外なるものの中で似た外観の中にあるプロプリウムの思慮分別とは、内なるものの中ではまったく似ていないことを明らかにすることができます。内なるものの中では、プロプリウムでない思慮分別は霊界の中で人間のように見えます、しかし、プロプリウムの思慮分別の中にいる者は、推理力と自主性から、すなわち、理解し、意志し、ここから話し、行動する能力だけから、それでも生きているように見える肖像のようです。それらの能力によって、偽り装うこと、さらにまた人間であることができます。
このようなものは肖像です、悪と虚偽は生きていません、善と真理だけが生きているものであるからです。このことを自分の推理力から知るので自分の肖像の中に人間の生命力をもちます、なぜなら、知らないなら、それを偽り装わないからです。
[5]内なるものがどんなものかによって人間はそのようなものであること、したがって、外的にどんなものであるか見られたい者が内的にその人間であること、内的でなく単に外的に人間である者は肖像であることを、だれが知ることができませんか?
神のために、宗教、公正と誠実のために、あなたが話すように、そのように考えてみなさい、するとあなたは人間になります。その時、神的な摂理があなたの思慮分別となり、あなたは他の者のもとのプロプリウムの思慮分別が狂気であることを見ます。