聖書について40
40 みことばの文字どおりの意味の真理は、一部に関してありのままの真理ではなく、真理の外観であり、そして自然の中にあるものようなものから取られた類似とたとえのようなものであり、したがってそれらは単純な者と幼児に理解されることに適し、ふさわしいものです。
しかし対応するものなので、本物の真理の容器と住まいです。食べられる食物を含む銀の皿のように、上等なぶどう酒を入れている水晶の杯のように、それらを含み、入れている器のようです。またそれらは幼児に着せるむつき、乙女に着せる美しい衣装のようです――さらにまた、霊的な人の真理の知覚と情愛を中に包含する自然的な人の記憶知のようです。
含まれ、入れられ、着せられ、包含されているありのままの真理そのものは、みことばの霊的な意味の中にあり、ありのままの善は、その天的な意味の中にあります。
[2] しかしこのことを、みことばから説明します。
イエスは言われました、
あなたがたにわざわい〔あれ〕、律法学者とパリサイ人たち。あなたがたは杯や皿の外側を清める、けれども、内側は強奪と不節制でいっぱいであるからです。盲目のパリサイ人、まず杯や皿の内側を清めなさい、外側もまた清潔であるために(マタイ23・25, 26)。
ここで主は対応である最後のものによって語られ、それで「杯や皿」と言われました。「杯」によってぶどう酒が、そして「ぶどう酒」によって、みことばの真理が意味されます。「皿」によって食物が、そして「食物」によって、みことばの善が意味されます――「杯や皿の内側を清めること」によって、みことばによって、意志と思考に属すもの、したがって愛と信仰に属す内的なものを清めることが意味されます。「このように外側が清潔になる」ことによって、このように働きと話すことである外的なものが清められることが意味されます、なぜなら、前者から後者はその本質を得るからです。
[3] さらに、イエスは言われました、
紫色の服と亜麻布の服を着て、日々、ぜいたくに楽しんでいた、ある富んだ人がいた。その〔富んだ者の〕門前に投げ出されて、できものでいっぱいのラザロという名前の、ある貧しい者がいた(ルカ16・19, 20)。
ここでもまた主は対応するものであり、霊的なものを含んでいる自然的なものによって語られました。「富んだ人」によってユダヤ国民が意味されます。みことばを持っていた彼らは「富んだ者」と呼ばれます、その中に霊的な富があるからです。着ていた「紫色の服と亜麻布の服」によって、みことばの善と真理が、「紫色の服」によってその善が、「亜麻布の服」によってその真理が意味されます。「日々、ぜいたくに楽しむこと」によって、それを持ち、読む満足感が意味されます。「貧しい者のラザロ」によって、みことばを持たない異教徒が意味されます。彼らがユダヤ人から軽蔑され、退けられたことは、「ラザロが富んだ者の門前に投げ出されて、できものでいっぱいであった」ことによって意味されます。
[4] 「ラザロ」によって異教徒が意味されるのは、〔次のラザロのように〕異教徒は主により愛されたからです、
主により愛されたラザロは死からよみがえった(ヨハネ11・3, 5, 36)。
主は友と呼ばれた(ヨハネ11・11)。
主とともに食卓に着いた(ヨハネ12・2)。
それらの二つの箇所から、みことばの文字どおりの意味の真理と善は、ありのままの真理と善の器のようであること、また衣服のようであること、ありのままの真理と善は、みことばの霊的なまた天的な意味の中に隠れていることが明らかです。