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聖書について85

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85 みことばの中に同じ事柄の繰り返しのように見えるこのような二つの表現があることを、みことばから示すことは長くてうんざりするものになるでしょう、なぜなら、紙面を満たすからです。
しかし疑いが取り除かれるために、私は、そこに「審判と義(公正)」が、さらにそこに「国民と人民」が、そのようにまた、そこに「楽しさと喜び」が一緒に言われている箇所を示します。
そこに「審判」と一緒に「」が挙げられている箇所は次のものです――

 都は……審判で満ち、公正が夜を過ごした(イザヤ1・21)。
 シオンは公正として、その帰ってくる者は審判として、あがなわれる(イザヤ1・27)。
 万軍のエホバは審判として高められ、聖なる神は義としてきよめられる(イザヤ5・16)。
 ダビデの王座の上に、その王国の上に座る。それを……審判と義として確立するために(イザヤ9・7)。
 エホバは高められる、高いところに住まわれるから。地を審判と義で満たされた(イザヤ33・5)。
 エホバは言われた、審判を守れ、義を行なえ。わたしの救いが近いから……わたしの義が現われるように(イザヤ56・1)。

 義を行ない、自分の神の審判を見捨てなかった国民のように、彼らは……義の審判を求める(イザヤ58・2)。
 生きるエホバによって審判と義として……誓え(エレミヤ4・2)。
 誇る者はこのことについて誇れ……エホバは地に……審判と義を行なわれたこと(エレミヤ9・24)。
 審判と義を行なえ。……わざわいだ、義なしに自分の家を建て、審判なしに自分の高殿を建てる者。……あなたの父は……審判と義を行なわなかったか?その時、彼らはよくなかったか(エレミヤ22・3, 13, 15)。
 わたしはダビデに正しい若枝を起こす。彼は王となって支配し……地に審判と義を行なう(エレミヤ23・5, 33・15)。
 もし男が正しいなら、その者は審判と義を行なう(エゼキエル18・5)。
 不信心な者でも「引き返すなら、審判と義を行なうなら、彼に対して記憶はない、審判と義を行なうなら、生きに生きる」(エゼキエル33・14, 16, 19)。
 わたしはわたしをあなたと永遠に婚約させる……義としてまた審判として、慈悲としてまた哀れみとして(ホセア2・19)。
 審判を水のように、義を泉の流れのように流れさせよ(アモス5・24)。
 あなたがたは審判を胆汁に、義の実をニガヨモギに変えてしまった(アモス6・12)。
 エホバは「私の争いを争われ、私に審判を行なわれ、私を光の中に連れ出される」。私はその方の義を見る(ミカ7・9)。
 エホバよ、あなたの義は神の山のようであり、あなたの審判は大きな深淵のようです(詩篇36・6)。
 エホバは「あなたの義を光のように、あなたの審判を真昼のように現わされる」(詩篇37・6)。
 エホバが「ご自分の民を義として、ご自分の哀れな者たちを審判としてさばきますように」(詩篇72・2)。
 義と審判はあなたの王座の支え(詩篇89・14)。
 私があなたの義の審判を学ぶとき……私は日に七度、あなたを、あなたの義の審判をほめたたえます(詩篇119・7, 164)。
 ガドは「主の義とその方の審判をイスラエルに行なう」(申命記33・21)。
 真理の霊は「世に……義について、審判について非難する」(ヨハネ16・8, 10)。(また他の箇所)。

審判と義(公正)がこれほど何度も言われていることは、審判は真理について、義は善について言われるからです。それゆえ、「審判と義を行なうこと」によってもまた真理と善から行なうことが意味されます。
審判が真理について、義(公正)が善について言われるのは、霊的な王国の中の主の統治は審判と呼ばれ、天的な王国の中の主の統治は義と呼ばれるからです(そのことについて著作『天界と地獄』214, 215番を見てください)。
審判は真理について言われるので、それゆえ、ある箇所では、「真理と公正」と言われています(例えば、イザヤ11・5、詩篇85・11、また他の箇所に)。