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最後の審判 67

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67 さらに、「最初のもの」と呼ばれているこの天は、主の来臨の前に世の中で生きた者からでなく、その方の来臨の後にすべての者からであったことを知らなければなりません。なぜなら(前の72番に示されているように)、それぞれの教会の終わりの中で最後の審判が行なわれ、その時、最初の天は破壊され、新しいものが創造されるかまたは形作られるからです。というのは、教会の最初から終わりまで、外なる道徳的な生活の中に、また外なる敬虔と神聖さの中に生きたすべての者は、たとえ思考と意図のものである内なるものの中に生きていなくても、市民上と道徳上の社会の法律によって束縛の中に保たれることができるかぎり存在を許されるからです。しかし、教会の終わりの中で内なるものが明らかにされ、その時、彼らの上に審判が行なわれます。
ここから、最後の審判は以前にこの地球の住民の上に二度行なわれました、今や三度目です(前の46番参照)。このように二度、以前にもまた、天と地は過ぎ去り、そして新しい地とともに新しい天が創造されました。というのは(前の15番に示されているように)、天と地のどちらにも教会があるからです。
ここから、旧約聖書の預言書に記録されている「新しい天」と「新しい地」が、主が世におられたときその方から存在するようになったものでなく、今やその方から存在する「新しい天」と「新しい地」であり、それらが「黙示録」の中に記されているものであることが明らかです。それらについて旧約聖書の預言書にあります、

見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する、前のものは思い出されない(イザヤ65:17)。

また他の箇所に、

新しい天と新しい地を、わたしはつくる(イザヤ66:22)。

ほかに、「ダニエル書」に。