白い馬について 12
12 みことばは対応によって、このように表象によって書かれている
みことばは文字通りの意味に関して対応そのものによって、そのようにこのようなものによって天界と教会に属する霊的なものを表象し、意味するものによって書かれている(1404, 1408, 1409, 1540, 1619, 1659, 1709, 1783, 2179, 2763, 2899番)。
このことは個々のものの中の内意のためになされた(2899番)。
このように天界のために〔なされた〕、天界にいる者はみことばを自然的なものであるその文字通りの意味にしたがって理解しないで、霊的なものであるその内意にしたがって理解するからである(2899番)。
主は神性から語られたので、対応、表象、表意によって語られた(9049, 9063, 9086, 10126, 10728番)。
このように主は世の前と天界の前で語られた(2533, 4807, 9049, 9063, 9086番)。
主の語られたものは全天界を行き渡った(4637番)。
みことばの歴史的なものは表象である。言葉は表意である(1540, 1659, 1709, 1783, 2686番)。
みことばは他の文体で書かれることはできなかった、それによって天界との伝達と結合が存在するためである(2899, 6943, 9481番)。
みことばを外見上の単純で粗野な文体のために軽蔑し、もし異なった文体で書かれていたなら、みことばが受け入れられると考える者は大いに誤っている(8783番)。
最古代の人々にもまた、表象と表意による書き方と文体があった(605, 1756, 9942番)。
古代の賢人は、みことばを、そこに表象的なものと表意的なものがあるので喜んだ(経験から、2592, 2593番)。
もし最古代教会の人間がみことばを読んだなら、彼は内意の中にあるものを明らかに見て、外なる意味の中にあるものはぼんやりと見たであろう(4493番)。
カナンの地のすべての場所は最古代から表象的なものとなっていたので、ヤコブの子孫はその地へ導かれた(1585, 3686, 4447, 5136, 6516番)。
このように、みことばがそこで書かれ、その中で〔それらの〕場所は内意のために名づけられなければならなかった(3686, 4447, 5136, 6516番)。
しかしそれでも、みことばは、その民族のために、その外なる意味に関して変化した、しかしその内意に関して変化しなかった(10453, 10461, 10603, 10604番)。
その民族について、みことばから引用した多くの個所があるが、それでも、それらは内意にしたがって、そのように、文字通りの意味にしたがうのとは異なって、理解されなければならない(7051番)。みことばがその民族にあり、彼らについて書かれ、彼らは教会を表象したので、それゆえ、神的で天的なものは、ルベン、シメオン、レビ、ユダ、エフライム、ヨセフ、その他のように、彼らの名前によって意味された――また、ユダによって、内意では、天的な愛に関する主とその方の天的な王国が意味される(3654, 3881, 5583, 5782, 6362-6381番)。
みことばの中の対応と何であるか、また表象とはどんなものであるか、その性を知るために、それゆえ、それらについてもまた何らかのことを述べよう。
対応するものはすべてまた表象するものでもあり、そこから表意するものであり、このように対応と表象とは1つである(2896, 2897, 2973, 2987, 2989, 2990, 3002, 3225番)。
対応と表象とは何か(経験からまた例から、2763, 2987-3002, 3213-3226, 3337-3352, 3472-3485, 4218-4228, 9280番)。
対応と表象の知識は古代人のもとで主要な知識であった(3021, 3419, 4280, 4748, 4844, 4964, 4966, 6004, 7729, 10252番)。
特に東洋人のもとで(5702, 6692, 7097, 7779, 9391, 10252, 10407番)。
エジプトでは他〔の国々〕にまさって(5702, 6692, 7097, 7779, 9391, 10407番)。
ギリシアやその他のところのように、異邦人のもとでもまた(2762, 7729番)。
しかし今日〔それは〕失われた知識の間にある、特にヨーロッパで(2894, 2895, 2995, 3630, 3632, 3747-3749, 4581, 4966, 10252番)。
それでもその知識は〔他の〕すべての知識にまさる、それなしでみことばは理解されず、またみことばの中のユダヤ教会の儀式はそれらについて何を意味するのかも、また天界の性も知られず、霊的なものが何かも、どのように自然的なものに霊的なものが流入するか、その他多くのことが知られないからである(4280番、それと前に引用した個所)。
天使と霊に見られるすべてのものは、愛と信仰とに属するといったものの対応にしたがった表象的なものである(1971, 3213-3226, 3449, 3475, 3485, 9481, 9574, 9576, 9577番)。
天界は表象で満ちている(1521, 1532, 1619番)。
表象は天界の内部ほど、それだけ美しく、また完全なものになっている(3475番)。
そこの表象は、神的な真理である天界の光からのものであるので、真の外観である――またこれは、すべてのものの存在の本そのものである(3485番)。
霊界の中に存在するすべてと個々のものが自然界に表象されている理由は、内なるものが適合する外なるものを着て、それによってそれ自体を目に見えて示し、見られるためである(6275, 6284, 6299番)。
このように目的は適当な着物を着て、低い領域の中で原因として存在し、そしてその後、さらに低い領域の中で結果として存在し、そして目的が原因によって結果となるとき、その時、それは目に見えるものとなるか、または目の前に見られる(5711番)。
このことは肉体への霊魂の流入によって説明される。すなわち、霊魂はそうしたものを肉体に着せ、それによって考え、欲するすべてのものを見られ、目に見えて示すことができる。それゆえ、思考は肉体に流れ下るとき、それに対応する態度と行動によって表象される(2988番)。
心に属する情愛は、容貌の変化によって明らかに顔の中に表象され、それほどにまでそこに見られる(4791-4805, 5695番)。
ここから自然界のすべてと個々のものの中に霊界からの内的な原因と目的が隠れていることが明らかである(3562, 5711番)。
自然界の中のものは、そこに先在的なものが内在する最後の結果であるから(4240, 4939, 5051, 6275, 6284, 6299, 9216番)。
内なるものは表象され、外なるものは表象する(4292番)。
さらに、何が対応と表象かは、著作『天界と地獄』参照。そこに天界のすべてのものと人間のすべてのものとの対応について扱われている(87-102番)。地のすべてのものと天界との対応について(103-115番)。また、天界の表象的なものと外観について(170-176番)。
自然の中のすべてのものは、霊的なものと天的なものを表象しているので、それゆえ、古代に存在した教会の中では儀式である外なるもののすべてが表象であった。それゆえ、それらの教会は表象的教会と呼ばれた(519, 521, 2896番)。
イスラエルの子孫のもとに設立された教会は表象的教会であった(1003, 2179, 10149番)。
そこのすべての儀式は天界と教会の内なるものを表象する外なるものであった(4288, 4874番)。
主が世に来られたとき、教会と礼拝との表象はやんだ、なぜなら、主は教会の内なるものを開かれたからであり、またすべて教会の外なるものはその最高の意味で主に目を向けていたからである(4832番)。