カテゴリー

神の摂理 258

257◀︎目次▶︎259

258 (5)単に自然的な人間は、キリスト教を公言する者たちの間に、救いを、考えて話すある言葉の中に置き、行なわなくてはならない何らかの善の中に置かない者がいることから、神的な真理に反して確信する
信仰のみが救いを行ない、仁愛の生活は救いを行なわないとし、それゆえに、信仰を仁愛から分離する者がこのような者であることは、『新しいエルサレムの教え 信仰について』の中に、そしてまた、そこには、みことばの中で、彼らが「ペリシテ人」、「竜」、「ヤギ」によって意味されていることも示されています。
[2]このような教えもまた許されているのは、主の神性が、みことばの神聖さが冒涜されないようにとの神的な摂理からです。
「父なる神が、十字架を受け入れられた御子のために哀れみを示され、私たちのために贖いをなしてくださいますように」という救いについての言葉によって、主の神性は冒涜されません。なぜなら、このようにして主の神性には近づかず、神性として認めない人間性に近づくからです――みことばも冒涜されません、そこに愛・仁愛・行なうこと・働きが挙げられているそれらの箇所に留意しないからです。彼らは、「これらすべてのものは信仰という言葉の中に含まれている」と言います。そのことを確信する者は、「律法は、そのように悪もまた、私を断罪しない。善は、私からのものではないので救わない」と自分自身に言います――それゆえ、彼らは、みことばからの何らかの真理を知らず、このためにそれを冒涜することができないような者です。
しかし、信仰のその言葉を、自己愛からプロプリウムの知性の高慢の中にいる者たちは確信します。これらの者は、心ではキリスト教徒ではなく、単に見られることを欲しています。
それでも主の神的な摂理は、仁愛から分離した信仰を宗教に属するものであるとした者のもとでも、彼らが救われるために絶えず働いていることを、今から述べます。
[3]たとえそれら信仰が宗教に属するものであっても、それでもそれぞれの者が、「それらの信仰は救わない、しかし、その信仰と一つとして働くときの仁愛の生活が救う」ことを知るようになるのは、主の神的な摂理からです。というのは、そこにその宗教が受け入れられているすべての教会の中で、人間が自分自身を調べ、自分の罪を見、それを認め、悔い改めを行ない、罪から離れ、新しい生活を始めないなら、決して救いはないことが教えられているからです。
このことは多くの熱意とともに聖餐に加わるすべての者の前で朗誦され、このことを行なわないなら、「聖なるものを不浄なものに混ぜ、自分自身を永遠の断罪の中に投げ込む」、それどころか、イギリスでは、「そのことを行なわないなら、悪魔がユダのように彼らの中に入り、霊魂と身体に関して彼らを滅ぼす」と付け加えられています。
これらから、教会の中のそれぞれの者はそこに信仰のみが受け入れられていても、それでも、悪を罪として避けなくてはならないことが教えられていることが明らかです。
[4]さらに、その者はキリスト教徒に生まれているそれぞれの者が、悪は罪として避けるべきものであることを、十戒がすべての少年と少女の手に渡されており、両親と教師から教えられることからも知っています。そしてまた王国のすべての市民は、特に1般の人々は、暗誦した記憶による十戒だけから祭司により、キリスト教から何を知っているか調べられ、そしてまたそこにあるそれらを行なうように警告されます。
その時、教会の指導者から、「律法のくびきの下にいない、善は自分自身からでないので、それらを行なうことができない」とは決して言われません。
全キリスト教世界でアタナシウス信条もまた受け入れられており、そしてまたそこの最後に言われている「主は生きている者と死んだ者を裁きにやって来られ、その時、善を行なった者は永遠のいのちに入り、悪を行なった者は永遠の火の中に入る」ことが認められています。
[5]信仰のみについての宗教が受け入れられているスウェーデンでもまた、仁愛から分離した信仰または善の働きなしの信仰は存在しないことがはっきりと教えられており、これはすべての讃美歌の本に挿入された覚えておくべきための付録の中にあり、「悔い改めない者の障害またはつまずき(Obotfardigas forhinda)」と呼ばれ、それは次の言葉です――

善の働きの中で富んでいる者は、そのことによって、信仰の中で富んでいることを示している。仁愛によって生み出す救いは信仰とともにあるからである。というのは、義とする信仰は、それだけによっては、また善の働きから分離したものによっては、果実のない善い木なく、光と熱のない太陽がなく、湿気なしに水がないように決して存在しないからである。

[6]これらのわずかなものは、たとえ信仰のみについての宗教信念の体系が受け入れられても、それでも、善の働きである仁愛の善が、どこでも教えられ、1般の人々がそれによって惑わされないように、またこれが神的な摂理であることが知られるために、提示されました。
私は、信仰のみに献身的であったときのルターと霊界の中で数回話しました。彼が、「主の天使によって、このことを行なわないように警告されましたが、しかし、自分自身で、働き(業)を退けなければ、カトリック教から分離しないと考え、それゆえ、警告に反してその信仰を確立させました」と言っていたのを聞きました。