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最後の審判と世の終わり 第二部 34

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34[4231] 「けれども、イチジクの木からたとえを学びなさい。すでにその枝が柔らかくなり、葉が芽を出している時、あなたがたは夏が近いことを知ります」は、新しい教会の最初のものを意味します。「イチジクの木」は自然的な善であり、「」はその情愛であり、「」は真理です。それらを意味することを〔彼らは〕「たとえ」から学びます。みことばの内意を知らない者は、イチジクの木そしてその枝と葉について主の来臨のたとえが何を含むか、決して知ることができません。しかし、みことばの中のすべてのたとえもまた表意するものであるので(3479番)、ここから、それらが何か知ることができます。「イチジクの木」は、みことばの中で名前を挙げられているどこでも、内意では、自然的な善を意味します(217番参照)。「枝」がその情愛であることは、枝がその幹からのように、情愛は善から芽を出すので、ここからです。「葉」は真理です(885番参照)。ここから今や、そのたとえが何を含むか明らかです、すなわち、新しい教会が主により創造されるとき、その時、すべてのものの最初に自然的な善が、すなわち、外なる形の中の善が、その情愛と真理とともに現われることです。自然的な善によって、その中に人間が生まれる善は、すなわち、両親から得る善は意味されません、その善は、起源に関して霊的なものであって、この中にだれも生まれていません、しかし、主により、善と真理の知識によって導き入れられます。そのために、人間はこの善の中に、すなわち、霊的な善の中にいる前に、生来の善から、〔外なる形の中で〕教会の人間であるとどれほど見られても、教会の人間ではありません。
[2]「このように、あなたがたはこれらのすべてを見る時、あなたがたは戸口に近くにいることを知りなさい」は、 最も近い前の29-31節で、また「イチジクの木」について言われたこれらのことばによって、それらが見られるとき、内意で意味されることは、その時、教会の完了、すなわち、最後の審判、そして主の到来です。それゆえ、その時、旧い教会は退けられ、新しい教会が設立されます。自然的な善とその真理が最初のものであるので、「戸口に」と言われ、それらは、再生し、教会となるとき人間に徐々にしみ込みます。
まことに、わたしはあなたがたに言います、これらすべてのことが起こるまで、この世代は過ぎ去りません」は、他の民族のように絶滅されないユダヤ民族を意味します(その理由は3479番参照)。
[3]「天と地は移ります、けれども、わたしのことばは移りません」は、前の教会の内なるものと外なるものが滅びる、しかし、主のみことばが残ることを意味します。「」は教会の内的なものであり、「」はその外的なものです(82, 1411, 1733, 1850, 2117[1], 2118[2], 3355[3]番以降参照)。「わたしのことば」は、今、その方の来臨と世代の完了についてだけが言われのではなく、しかし、みことばの中のすべてのものであることが明らかです。これらが、ユダヤ民族について言われたそのすぐ後に言われたのは、3479番で言及された箇所から明らかにすることができるように、ユダヤ民族は、みことばのために保たれたからです。
これらから、今や、ここに新しい教会の始まりについて予言されていることが明らかです。