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最後の審判と世の終わり 第二部 35

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(8)「マタイ福音書」24:36-41の解説 35-38

35 [4332] 前章の前〔の部分〕で、主が「マタイ福音書」第24章32-35節で、ご自分の到来について予言したものを説明しました。それらは、前の教会の最後の時と新しい教会の最初を意味し、そこに、また前に、しばしば示しました(今まで扱われた前の教会の最後の時または終わりについて、また新しい教会の最初の時または始まりについては、前の〔「創世記」〕第31章の前〔の部分〕の4056-4060[27-31]番に、また第32章の前〔の部分〕の4229-4231[32-34]番参照)――さて、続く「福音書」同章の中の36-42節を説明します、すなわち、次のことばです、

けれども、その日と時について、わたしの父だけでないなら、だれも、天の天使たちも知りません。けれども、ノアの日のように、人の子の到来はこのようです。というのは、洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、〔彼らは〕食べて、飲んで、めとったり、嫁いだりしていたからです。また、洪水がやって来て、すべてのものを取り上げるまで〔彼らは〕知りませんでした。人の子の到来もまた、このようです。その時、ふたりが畑の中にいて、ひとりは選ばれ、ひとりは残されます。ふたりの臼をひく女がいて、ひとりは選ばれ、ひとりは残されます。