神の摂理 121
121 多くの者により、単に教会が教えることを信じることが、人間を悪から清めることであると信じられています。ある者により、善を行なうことが清めること、ある者により、教会のものであるこのようなものを知り、話し、また教えること、ある者により、みことばや信仰修養書を読むこと、ある者により、礼拝所をしばしば訪れること、説教を聞くこと、また特に聖餐に出席すること、ある者により、世を退け、そして信心に専念すること、ある者により、すべての罪の事柄を自分自身に告白することなどが信じられています。
しかしそれでも、これらすべてのものは、彼が自分自身を調べ、自分の罪を見、それらを認め、それらのために自分自身を有罪とし、そして、それらをやめようと、悔い改めを行ない、これらすべてを自分自身からのように、しかしそれでも、心の承認から、主からであることを行なわないなら、決して人間を清めません。
[2]これらが行なわれる前に、前述のことは決して助けとなりません、というのは、功績を求めるものあるいは偽善的なものであり、そして彼らは天界の中の天使の前に、自分の腐敗から悪臭を放つ美しい娼婦のように、あるいは、見せかけから美の外観を引き起こす醜い女のように、あるいは、舞台の上で道化や喜劇役者に扮する者のように、あるいは、人間の衣服を着たサルのように見えるからです。
しかし、悪が遠ざけられる時、前述のことは彼らの愛のものとなり、彼らは天界の中の天使の前に、美しい人間として、そして彼らの〔地域〕仲間と〔仕事〕仲間のように見えます。