神の摂理 227
227 これらが、それらのためにこのような憎むべきことが存在するようになる理由です。しかしそれらは、それらの無知から不明瞭さの中にあるので、理解力の前で明らかであるように説明されなければなりません。
第一――どんなものでも人間が意志から考え、話し、行なうものは、善でも悪でも、彼に自分のものとされ、残る
このことは前に示されています(78-81番)――というのは、人間に外なるまたは自然的な記憶があり、そして内なるまたは霊的な記憶があるから。
この記憶に、どんなものでも世の中で意志から考え、話し、行なったすべてと個々のものが、どんなものも欠けていなほどに、すべてと個々のものが刻み込まれています。
この記憶が彼の「いのちの書」であり、それは、死後、開かれ、それにしたがって裁かれます。
この記憶について多くのものが著作『天界と地獄』の中に、経験そのものから示されています(461-465番)。
[2]第二――しかし、主はご自分の神的な摂理によって、悪がそれ自体によって、善がそれ自体によって、このように分離されることができるよう絶えず備え、整えられる
それぞれの人間は、悪の中にも善の中にもいます、というのは、自分自身から悪の中に、主から善の中にいるから。人間は〔善と悪の〕両方の中にいないなら、生きることができません。なぜなら、自分自身だけの中に、このように悪だけの中にいるなら、いのちの何らかのものを持たないからです。主だけの中に、このように善だけの中にいるなら、いのちの何らかのものを持たないから、なぜなら、「後者のいのち」の中の人間は窒息するようにあえぎ続けて、苦しみの中で死ぬことを欲するからです。また「前者のいのち」の中で消滅します、なぜなら、善のまったくない悪は本質的に死んだものであるからです。それゆえ、それぞれの人間は〔善と悪の〕両方の中にいます――しかし、相違があって、一方は内的に主の中に、外的にあたかも自分自身の中に、そしてもう一方は内的に自分自身の中に、しかし、外的にあたかも主の中にいます。後者は悪の中に、前者は善の中にいますが、それにもかかわらず、両者とも〔善と悪の〕両方の中にいます。
悪の中にもまたいるのは、市民的な生活と道徳的な生活の善の中に、そしてまた、外的に霊的な生活の何らかのものの中に、加えて、主により推理力と自由の中に保たれ、善の中にいることができるからです。この善は、それによってすべての人間が、悪い者もまた、主により導かれる善です。
これらから、主が、一つが内的であるように、そしてもう一つが外的であるように、またこのように混ぜられないように悪と善を分離することを備えられていることを見ることができます。
[3]第三――しかし、このことは、もし人間が最初に信仰の真理を認め、それにしたがって生き、またその後、それをやめ、それを否定するなら、行なわれることができない
このことは今、言われたことから明らかです。第一のものからは、人間が意志から考え、話し、行なうすべてのものは、彼に自分のものとされ、そして残ることです。また第二のものからは、主はご自分の神的な摂理によって、悪がそれ自体によって、善がそれ自体によって、このように分離されることができるように絶えず備え、整えられることです。
さらにまた、主により、死後、分離されます。内的に悪であり、外的に善であった者のもとから、善を取り去り、このように自分自身の悪に取り残されます。内的に善であり、外的に他の人間のように富をほしがり、地位を得ようとし、世俗のいろいろなものを楽み、何らかの欲望に好感をもった者のもとでは逆です。それでも、これらの者のもとで、善と悪は混ぜられません、内なるものと外なるもののように分離しています。このように外なる形の中で悪い者に似た多くのものの中にいましたが、それでも内なる形の中でいませんでした。
逆に、悪い者もまた、その者は外なる形の中で、敬虔・礼拝・話し方・行動の中で、善い者のように見え、それでも内なる形の中で悪い者でした。
しかし、前に信仰の真理を認め、それらにしたがって生き、その後、正反対のものの中に逸れ、そしてそれらを退けた者のもとで、特に、それらを否定するなら、善と悪はもはや分離されません、混ぜられます。なぜなら、このような人間は自分自身に善を自分のものとし、そしてまた自分自身に悪を自分のものとし、このように結合し、それらを混ぜたからです。
[4]第四――その時、善と悪を分離されることができないほどにまでも混ぜる
このことは、今、言われたことからいえます――悪が善から、そして、悪から善が分離されることができないなら、天界の中にも、地獄の中にもいることができません。
それぞれの人間は、一つの中にあるいはもう一つの中にいなくはなりません。両方の中にいることはできません。時には天界の中に、時には地獄の中にいて、天界の中にいた時には地獄のために行ない、地獄の中にいた時には天界のために行ない、このように自分のまわりにいるすべての者のいのち(生活)を、天使のもとの天界のいのち(生活)を、また悪魔のもとの地獄のいのち(生活)を破壊した者がいました。そのことから、それぞれの者のいのち(生活)は滅びました。なぜなら、それぞれのいのち(生活)は自分のものでなければならないからです。だれも他に属するいのち(生活)の中で、まして、正反対のものの中では生きません。
ここから、主がすべての人間のもとで、死後、霊に、すなわち、霊的な人になる時、善を悪から、そして悪を善から分離します。内的に悪の中にいる者のもとで善を悪から、そして内的に善の中にいる者のもとで悪を善から分離します。このことはその方の次の言葉にしたがっています、
持っているすべての者に、満ちるように与えられ、持たない者からは、持つ物もまた取り去られる(マタイ13:12, 25:29, マルコ4:25, ルカ8:18, 19:26)。
[5]第五――また、善と悪はそれぞれの人間のもとで分離されなければならず、そのような者のもとで分離されることができないので、それゆえ、すべての真の人間性に関して破壊される
前に示されたように、真の人間性はそれぞれの者に、推理力からあって、もし欲するなら「何が真理か、何が善か」見ることと知ることができ、そしてまた自主性から、考え、それを話し、行ない、欲することができます。
しかし、この自主性はその推理力とともに、自分自身のもとで善と悪を混ぜた者に破壊されています、なぜなら、一つのものとなるので、彼らは善から悪を見ること、悪から善を考えることができないからです。ここから、推理力はもはや彼らの能力の中に、または潜在力の中になく、ここから何らかの自主もありません――その理由は、それらの能力は空想からの単なる狂気のようなものであるからです。前に言われたように、もはや人間のように見えず、何らかの皮膚に包まれた骨のように見えます。またここから、名前を挙げられるとき、彼や彼女と言われないで、「それ」と言われます。
この方法で聖なるものを冒涜的なものに混ぜる者に、このような運命があります。
しかし、それでもこのようなものではない多くの種類の冒涜があります。それらについては続く節の中で述べます。