神の摂理 265
265 (3)悪を罪のように避けることがキリスト教そのものであることをここまで知らなかったことから、神的な摂理に反する疑いをもたらすことができる
このことがキリスト教そのものであることは、『新しいエルサレムのための生活の教え』の中に最初から終わりまで示されています――仁愛から分離した信仰だけが妨げとなっているのに、むしろ受け入れられているので、さらにまたそれらについても扱われています。
悪を罪として避けることがキリスト教そのものであることを知らなかった、と言われています。ほとんどすべての者が知らないからですが、それでもなお、それぞれの者が知っています(前の258番に見られます)。
それでも、ほとんどすべての者が知らないのは、〔仁愛から〕分離した信仰がそれを抹殺したからです。というのは、「信仰だけが救い、何らかの善の働きまたは仁愛の善は救わない。もはや律法のくびきの下になく、自由の中のいる」と言うからです。
このようなことを何回か聞いた者は、もはや生活の何らかの悪について考えず、生活の何らかの善についても考えないからです。さらにまた、だれでも人間は、自分の性質からこのことを心に抱く傾向があり、いったん抱かれるなら、もはや自分の生活(いのち)の状態について考えないからです――これらが、知られないことの理由です。
[2]この知られないことが霊界で私に明らかにされました。
私は世からやって来る千人より多くの者に、「悪を罪として避けることが宗教そのものであることを知っていますか」と質問しました。彼らは、「知らない、また、このことは今まで聞いたことのない新しいものである、しかし、善は自分自身から行なうことはできない、律法のくびきの下にない、と聞いている」と言いました。
そのとき私は、「人間は自分自身を調べ、自分の罪を見、悔い改めを行ない、その後、新しい生活を始めなければならないこと、またそうでなければ、罪は赦されず、罪が赦されないなら、救われないこと、このことは聖餐に出席するたびごとに大きな声で朗誦されることを知らないのですか?」と言いました。彼らは、「それらには留意せず、聖餐を通して自分たちに罪の赦しがあり、信仰は知らないうちに他のものに働いていることしか心に留めなかった」と答えました。
[3]同じく私は、「なぜ、あなたがたはあなたがたの幼児に十戒を教えているのですか?どんな悪が避けるべき罪であるか知るためではないのですか?行なわないで、単に、それらを知り、信じるためなのですか?それゆえ、なぜ、それは新しいことである、と言うのですか?」と言いました。
このことにある者は、「知っている、それでも知らない。姦淫を犯すとき第6の戒めについて、ひそかに盗むかまたはだますとき第7の戒めについて、他のことを決して考えなかった。まして、このようなものが神的な律法に、したがって神に反しているとは考えなかった」としか答えることができませんでした。
[4]私が、教会の教えやみことばから、悪を罪として避け、退けることがキリスト教そのものであり、それぞれの者に、避け、退けるかぎり信仰があることを確認する多くのものを話しに出したとき、彼らは黙ってしまいました――しかし、すべての者が生活に関して調べられ、行為にしたがって裁かれ、それぞれの者に生活にしたがった信仰があるので、だれも生活から分離した信仰にしたがって裁かれないことを見るとき、真理であることが確認されました。
[5]キリスト教世界の大部分で、そのことを知らなかったことは、それぞれの者は理性にしたがって自由から行動するがままにされるという神的な摂理の法則からです(それらについては、前の71-99番、また100-128番)――なおまた、天界から直接にではなく、みことばによって、教えとそれからの説教によって間接的に教えられるという法則からです(それらについては154-174番)――そしてまた、許しの法則のすべてからであり、それらもまた神的な摂理の法則です。
これらについて多くのことは前に見られます(258番)。
〔初版に266-273番はありません〕