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神の摂理 309

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309 しかし、私は、霊界である者から聞いたものが何かを語りましょう。すべてのものはプロプリウムの思慮分別であり、そして神的な摂理は何ものでもないと信じていた者からでした。
私は、「あれこれのような主体、あるいはあれこれのような器官、またはあれこれのような形であるものを、あなたが人間のプロプリウムと呼びたくないなら、何らかのプロプリウムは人間にありません。これは単に性質であるのでプロプリウムで意味されるものではありません。全般的な意味でのプロプリウムのようなものは、人間のだれにもありません」と言いました。
すべてのものをプロプリウムの思慮分別に帰した者、さらにまたは自分の想像の中で「自力で行なった」と呼ばれることができる〔と思っている〕者は、鼻から炎が見えるように激しく怒って、「あなたは背理や狂ったことを話している。それでは人間は無また狂気とならないか?あるいは観念や幻想とならないか?あるいは彫像または彫刻とならないか?」と言いました。
[2]しかし、私は、「人間は自分自身から、いのちであること、そしてまた知恵と思慮分別は、したがって仁愛である善と信仰である真理も、神から流入しないで、人間の中にある、と信じることが背理と狂気です」としか答えることができませんでした。
これらを自分自身に帰することは、すべての賢人により「気が狂っている」と呼ばれ、ここからもまた背理です。そして加えて、彼らは他の者の家に住み、その所有物をまかされた者のようであり、それらの中にいるとき、自分の主人のすべてのものを自分のものであると信じ、自分のものであると自分自身に説きつける管理人や執事のようです。また、「商売するように」と管理者である主人がタレントとミナを与えた召使いたちのようです。彼らは勘定書きを戻さず、しかし、自分のものとして保有し、このように泥棒を働いたのでした。
[3]これらの者に私は、「狂っています。それどころか無と空虚であり、なおまた、いのちのエッセそのものである善を、したがって真理も、主から自分自身のもとに持たない観念論者です」と言うことができました。それゆえ、このような者もまた「死んだ者」、そしてまた「無と空虚」(イザヤ40:17, 23)、また他の箇所に「像を作る者」、なおまた「彫像」や「彫刻」と呼ばれています。
しかし、これら多くのものについて、続くものの中で、次の順序で調べます――

(1)何がプロプリウムの思慮分別か、何がプロプリウムでない思慮分別か。
(2)人間はプロプリウムの思慮分別から、すべての善と真理は、同様にすべての悪と虚偽は、自分自身から、また自分自身の中にあることを自分自身に説きつけ、自分自身のもとで確信する。
(3)説きつけられ、確信したすべてのものはプロプリウムのように人間のもとに残る。
(4)人間が、すべての善と真理は主からであり、すべての悪と虚偽は地獄からであることを〝真理〟であると信じていたなら、自分自身に善を帰さず、その善を功績ともせず、自分自身に悪も帰さず、自分自身がそのことを行なうこともなかった。