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最後の審判 56

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 (2)バビロニアからの者が来世の中でどんなものであるか
このことは、主から霊界にいる彼らと一緒であることが与えられた者以外に、明らかにすることができません。
このことが私に許されたので、私は経験から話すことができます、なぜなら、私は彼らを見、彼らから聞き、彼らと話したからです。
それぞれの人間は、死後、世の中でいたのと似た生活(いのち)の中にいます。これは変えられることができません、ただ愛のものである快さに関してだけ、それらは対応するものに変えられます。例えば、著作『天界と地獄』の中の二つの章(470–484番588番)から明らかにすることができます――これらの生活(いのち)は、それらについて今や扱われていますが、それらは、その時、彼らの心に隠されていたものがあらわにされるという相違とともに、まったく世の中のようなものです。というのは、彼らは霊の中にいるからであり、その中に思考と意図のものである内的なものが住んでいて、それらを世の中で隠し、外なる聖なるもので閉じ込めていたからです。
[2]これらは、その時、明らかにされるので、彼らからの半分を越える者が、天界を開け、閉ざす力を用いたまったくの無神論者であることが認められました――しかし、心に世の中のような支配権が堅く宿り、またそれは、「父からそのすべての力が主に与えられ、そしてそれをペテロに、また順番に継承することによって教会の長たちの中に移した」という原理の上に基づいているので、それゆえ、彼らの無神論に結びついた主についての口頭の告白が残存しています。しかし、それでもこのことは、それによって何らかの支配の中にいるよりも長くはありません。
けれども、無神論者ではない他の者は、人間の霊的ないのち(生活)・救いの手段・天界へ導く神的な真理・天界的な信仰と愛について、天界はだれにでも、どんな種類の人間であっても、教皇の恩恵から何らかのものが与えられることができると信じて、まったく何も知らないほどに空っぽの者です。
[3]著作『天界と地獄』の中で示されて見られるように(453–480番)、それぞれの者が天界あるいは地獄の中にいないかぎり、そのとき何も相違なく、霊界の中で自然界の中でいたのと似た生活(いのち)の中にいるので、また霊界は外なる外観に関してまったく自然界と似ているので(170–176番)、それゆえ、彼らに似たような霊的な生活と市民的な生活が、特に似たような礼拝があり、それは人間に彼の最内部に根付いて、こびりついているので、ある者は、死後、真理からの善の中に、善からの真理の中にいないなら、それから連れ去られることができません。
けれども、この国民は、それについて今や扱われていますが、真理からの善の中に、まして善からの真理の中にいないので、他の国民以上にその礼拝から導き出されることがほとんどできません。というのは、彼らの真理は、みことばからではなく、ただわずかな真理だけがありますが、それらを支配へ向けて適用することによって虚偽化したから。ここから彼らに、にせもの以外でないなら善はありません。なぜなら、どのような真理であるかによって、そのような善になるからです。
これらは、この国民の礼拝は、自然界の中であったのとまったく同様なものが霊界の中でもあることが知られるために言われました。
[4]これらをあらかじめ言っておいて、今や、そこの彼らの礼拝について、そして彼らの生活について何らかのものを述べます。
ローマの評議会または教会会議の代わりに、彼らはそこに彼らの長たちが集まるある類いの評議会があり、いろいろなことについて相談します、それらは彼らの宗教に属することであり、特に、どのように大衆を盲目の服従の中に保つべきか、どのように彼らの支配を拡大すべきかです。
この評議会の場所は東に近い南の方向にあります――しかし、世の中でローマ教皇であった者は、枢機卿であった者もあえて入ることをしません、自分たちの心に神的な権限のようなものを据え付け、そのことから、世の中で主の力を自分自身に主張した理由のためです。そのために、自分自身の臨在をそこに示すと直ぐに、取り去られ、荒野の中の似た者のもとに追い払われます――けれども、彼らのうち心が正直であった者は、またこのような権力を確信した信念から用いなかった者は、その評議会の後、ある種の暗い部屋の中にいま
[5]他の集会が北に近い西の方向にあります――そこの任務は、信じやすい大衆を天界の中へ入れることです。彼らはそこに自分たちの周囲に、いろいろな外なる快さの中にある多くの社会を配置します。ある社会では遊び、ある社会では踊り、ある社会では顔をいろいろな種類の快活さと喜びに作り上げ、ある社会では、ある所で市民的な事柄について、ある所で宗教的な事柄について、ある所でみだらなことについて親しげに話します、等々。これらの社会から、ある社会の中に、それを天界と呼んで、それぞれの願いにしたがって、隷属者を入れます。しかし、すべての者は、少しの時間の後、そこにいたとき退屈を感じ、立ち去ります、それらの快さは内なるものでなく外なるものであるからです――このようにして、多くの者は、天界の中に入ることについての彼らの信仰の教えから連れ出されま
[6]特に、彼らの礼拝については、世の彼らの礼拝とまったく似ています。
それは世のようなミサで構成され、それらは霊たちの普通の言語の中に現われません、しかし、大きく鳴り響く言葉から作り上げたものであり、それらは外なる神聖さと身震いをひき起こし、まったく理解されません。
同様に、聖徒を崇拝し、そして偶像を展示します――しかし、彼らの聖徒はどこにも見られません。なぜなら、神として礼拝されることを求めた彼らからのすべての者は、地獄の中にいるからです。礼拝されることを求めなかった他の者は、普通の霊たちの間にいます。
彼らの高位聖職者たちはそのことを知っています、なぜなら、彼らを捜し、見いだし、それゆえ、彼らをさげすむからです。しかし、このことを、それでも守護の神々のように、しかし、人々に長に任じられた高位聖職者自身が、天界の主として礼拝されるために、人々に隠しま
[7]同様にまた、世でしたように、彼らは神殿と修道院を増やします――同様に、富をかき集め、高価なものを蓄積し、そして貯納室の中に隠します。なぜなら、霊界の中に、自然界の中のように、等しく高価なものが、そしてはるかに多くのものがあるからです。
同様に、自分の宗教的な信念へ誘うために、彼らを自分の支配へ服従させるためにそこに修道士を送り出します。
通常、集会の真ん中に物見の塔を建築し、それらから視野をすべての近隣の中に広げることができます。近くや遠くの者との伝達手段もまたいろいろな方法と策略で、自分たちにつくり、自分の側に引き寄せます。
[8]彼らの状態は全般的にこのようなものです――けれども、特に、彼らの宗教の大部分の長たちは主のすべての権力を取り去り、それを自分自身に要求しました。またこのことを行なうので、何らかの「神性を認めません。やはり外なる神聖さを装いますが、それでもその神聖さは、彼らの内なるものの中に何らかの神性の承認がないので本的に冒涜的です――ここから、天界の最も低い何らかの社会と外なる聖なるものよって、また地獄と内なる冒涜的なものによって連絡(交通)し、そのように、どちらの場所にもいます――そのために、さらにまた単純で善良な霊を誘います、彼らに自分たちの近くに住まいを与え、悪意のある者を集め、彼らを集団の周囲に配置します。さらにまたこのように単純で善良な者によって自分自身を天界に、悪意のある者によって地獄に結合させます。ここから、極悪なことを働くことができ、それらを地獄から遂行します。というのは、最も低い天界の中にいる単純で善良な者は、外なる聖なるものに向けて、外なるものの中での彼らの最も聖なるものである主の崇拝に向けて、それ以外に越えて眺めず、彼らの邪悪な行為を見ず、そのために彼らに好意を持つからです。ここから、彼らに最大の保護があります。しかしそれでも、時間の経過とともに、彼らのすべての者は、外なる聖なるものから去り、その時、天界から分離され、地獄の中に投げ込まれます。
[9]これらから、来世の中でバビロニアからの者がどんなものであるか、多少知られることができます。しかし、私は、世にいる者が、また人間の死後の状態について、そして天界と地獄について、無意味で空虚なものを除いて何らかの観念を持たない者が、そこにこのようなものが存在することを怪しむことを知っています。しかし、人間は死後も等しく人間であり、世の中のように交わりの中で生き、家の中に住み、教会で説教を聞き、職務を果たし、そして前の世の中に残したものと似たものをその世界の中で見ることを、「見て、聞いたことから」の著作『天界と地獄』の中で言われ、示されたことから明らかにすることができます。


★[4][5][6]は『真のキリスト教』819番に再録されています。