神の摂理 256
256 (3)単に自然的な人間は、キリスト教が地球の中のヨーロッパと呼ばれる住むに適した小さい部分にだけあること、またそこで分裂していることを見るとき、神的な真理に反して確信する
キリスト教が地球の中のヨーロッパと呼ばれる住むに適した小さい部分にだけあることは、すぐ前に示された混合した宗教であるムハンマドの宗教(イスラム教)のように、それが東洋人の性格に適合しなかったからであり、適合しない宗教は、受け入れられないからです。
例として、多くの妻をめとることを許さないことを規定する宗教は受け入れられず、これまで数代も1夫多妻であった者から拒否されます。キリスト教の他の何らかの規定もこのようです。
[2]宗教が世の少ない部分かあるいは多い部分に受け入れられているかは、その人々のもとに、みことばがあるかぎり重要ではありません。なぜなら、教会の外にいて、みことばを持たなくても、『新しいエルサレムの教え 聖書について』の中に示されているように(104-113番)、それでも、そこから彼らに光があるからです――驚くべきことですが、みことばが信心深く読まれ、主がみことばから崇拝される場所に、天界とともに主がおられるのです。その理由は、主は、みことばであられ、みことばは神的な真理であり、それが天界をつくるからです。それゆえ、主は言われています、
ふたりまたは三人が、わたしの名において集まる所に、そこにわたしは彼らの真ん中にいます(マタイ18:20)。
みことばがこのようなものになることができるのは、住むに適した多くの場所の中に、ヨーロッパ人から地球の全地の彼らと交流があり、どこでも彼らにより、みことばが読まれるかあるいは教えられるからです。
これは作りごとのように見えますが、しかし、それでも真理です。
[3]キリスト教が分裂しているのは、みことばからであり、みことばが対応そのものによって書かれており、多くの部分に関して真理の外観は対応であり、それでもなお、それらの中に純粋な真理が包まれて隠れているからです。教会の教えは、みことばの文字どおりの意味から、汲み取られなければならないようなものであり、教会の中に論争・論戦・意見の衝突が、特に、みことばの理解に関して存在するようにしかならないからです、けれども、〔そのような争いは〕みことばそのものに関して、主の神性そのものに関してではありません――というのは、どこでも、みことばが聖なるものであること、主に神性があること、これら二つのものが教会の本質的なものであることが認められているから。それゆえまた、ソッツィーニ教徒と呼ばれる主の神性を否定する者は教会から追放されます。みことばの神聖さを否定する者は、キリスト教徒と見なされません。
[4]これらに私は、みことばについて、あるメモラビリア(注目すべき出来事)を付け加えます、そのことから、みことばは内部で神的な真理そのものであり、そして最内部では主であることが結論されることができます――
ある霊が、みことばを開き、それによって自分の顔または衣服をこする時、彼の顔または衣服は月のようにまた星のように白く輝いて光を放ち、またこのことは出会うすべての者に見られます。このことは、世の中に、みことばよりも聖なるものが存在しないことを証ししています。
『新しいエルサレムの教え 聖書について』の中に、みことばが対応そのものによって書かれていること(5-26番)、教会の教えは、みことばの文字どおりの意味から汲み取られ、それによって確信しなければならないこと(50-61番)、みことばの文字どおりの意味から異端をつくり上げることができる、しかし、それを確信することは有害であること(91-97番)、教会は、みことばからのものであり、みことばがどのように理解されるかによって、そのようなものであること(76-79番)が見られます。