神の摂理 264
264 (2)みことばの個々のものの中に霊的な意味があり、ここからその神聖さがあることを今まで知らなかったことから、神的な摂理に反する疑いをもたらすことができる
というのは、「このことが、なぜ、今、初めて啓示されるのか?」なおまた、「なぜ、あの者やこの者によってなのか、教会の高位聖職者のだれかによってではないのか?」と言って、このことから神的な摂理に反する疑いをもたらすことができるからです。
しかし、高位聖職者であるかあるいは高位聖職者のしもべであるかは、主の意のままです。ある者が、また他の者がどんなものかは主が知っておられます。
しかし、みことばの霊的な意味が以前にではなく啓示されたことの理由は――
(1) もし前になら、教会はそれを冒涜し、それによってみことばの神聖さそのものを冒涜したであろうからである。
(2) 主により、最後の審判がなし遂げられ、みことばの霊的な意味が含まれる純粋な真理が啓示され、「聖なるエルサレム」によって意味される新しい教会が主により設立される以前でもないからである。
しかし、これらを一つずつ調べます。
[2]第一――みことばの霊的な意味が以前に啓示されなかったのは、もし前になら、教会はそれを冒涜し、それによってみことばの神聖さそのものを冒涜したであろうからである
教会はその設立の後、間もなくして、バビロンに、その後、ぺリシテに変わりました――バビロンは、みことばを認めるとはいえ、しかしそれでも、彼らの最高の判断の中で、「聖霊」が預言者に吹き込んだように、彼らにも等しく吹き込む、と言って、みことばを見下します。
みことばを認めるのは、代理役を主のことばからペトロへ確定させるためです。しかし、それでも、〔みことばと〕調和しないので、それを見下します――それゆえ、人々からもまた奪われ、修道院の中にしまい込まれ、その場所で、わずかな者がそれを読んでいます。
それゆえ、もし、みことばの霊的な意味が明らかにされたなら、その中に主がおられ、また同時にすべての天使の知恵がありますが、みことばは、文字どおりの意味の中に含まれている最外部の意味の中で冒涜され、最内部の意味の中でもまた冒涜されたでしょう。
[3]ペリシテは、それによって仁愛から分離した信仰が意味されますが、考えまた話す言葉の中に救いを置き、行なう善の中に置かないので、前に示されたように、みことばの霊的な意味もまた冒涜しました。このように救いをなさないものを救いをなすものにし、加えて理解力を信じるべきものから移しました。
彼らに、みことばの霊的な意味が含まれる光がありますか?
暗やみに変わりませんか?自然的な意味が暗やみに変わるとき、霊的な意味は何もないのではありませんか?
自分自身に仁愛から分離した信仰を、また信仰のみによって義認を確信した者のだれが、何が生活の善か、何が主への愛で、隣人に対する愛か、何が仁愛か、何が仁愛の善か、何が善の働きか、何が行なうことか、それどころか何が本質的に信仰か、何が信仰をつくる純粋な真理か、知ることを欲しますか?
彼らは本を書き、信仰と呼ぶものだけを確信します。またその時、列挙したそれらすべてのものは、その信仰に内在する、と言います。
これらから、みことばの霊的な意味が前に明らかにされたなら、「マタイ福音書」主のことばどおりのことが生じたであろうことが明らかです、
もし、あなたの目が悪かったなら、全身が暗くされたでしょう。それゆえ、もし、あなたの中にある光が暗やみを生じるなら、その暗やみはどれほどのものでしょう(6:23)。
みことばの中の「目」によって霊的な意味で理解力が意味されます。
[4]第二――みことばの霊的な意味が含まれる純粋な真理が主により啓示され、「聖なるエルサレム」によって意味される新しい教会が主により設立される以前でもないからである
主により「黙示録」の中に、最後の審判の後に、純粋な真理が明らかにされ、新しい教会が設立され、霊的な意味が明らかにされることがなし遂げられたことが予言されています。
最後の審判がなし遂げられたことは、小著『最後の審判について』とその後の『続き』の中に示されています。またそのことが「黙示録」の中に「過ぎ去る天と地」によって意味されています(21:1)。
その時、純粋な真理が明らかにされることは、「黙示録」の次の言葉によって予言されています――
王座に座られている方が言われた。「見よ、わたしはすべてのものを新しくする」(5節, なおまた19:17, 18, 21:18-21, 22:1, 2)。
その時、みことばの霊的な意味が啓示されます(19:11-16)――このことが「白い馬」によって意味され、その上に座られる方は「神のみことば」と呼ばれ、またその者は主の主、また王の王でした(その事柄については小著『白い馬について』に見られます)。
「聖なるエルサレム」によって新しい教会が意味され、それはその時、主により設立されることが、『新しいエルサレムの教え 主について』の中に見られ、そこにそのことが示されています(62-65番)。
[5]これらから今や、主だけを認め、礼拝し、その方のみことばに聖なるものがあり、神的な真理を愛し、仁愛から分離した信仰を退ける新しい教会のために、みことばの霊的な意味が啓示されることが明らかです。
しかし、みことばのこの意味について多くのものが『新しいエルサレムの教え 聖書について』の中に見られます(5-26番、またそれ以降)。
そこには、例えば、何が霊的な意味か(5-26番)。
霊的な意味が、みことばのすべてと個々のものの中にあること(9-17番)。
霊的な意味から、みことばは神的な霊感を与えられたものであること、またすべての言葉の中に聖なるものがあること(18, 19番)。
霊的な真理はこれまで知られなかったこと、またなぜ前に啓示されなかったか(20-25番)。
霊的な意味は、主からの純粋な真理のいる者でないなら、この後、与えられないこと(26番)があります。
[6]これらから今や、神的な摂理から、霊的な意味はこの時代まで世の前に隠れていたこと、そしてその間、天界の中の天使のもとに保存されていて、天使はここから自分の知恵を汲み取っていたことを明らかにすることができます。
この意味は、モーセの前に生きた古代人のもとで知られ、そしてまた発達しました。しかし、彼らの子孫は、対応だけから成り立っていた彼らのみことばを、ここから宗教がありましたが、その対応をいろいろな偶像崇拝へ、そしてエジプト人は魔法へ変え、それは神的な摂理から隠されました。最初にイスラエル民族のもとで、その後、キリスト教徒のもとで、前に述べた理由のために隠されましたが、今や、初めて主の新しい教会のために、開かれたのです。