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白い馬について

まえがき◀︎目次▶︎002

「黙示録」第19章の白い馬について

1 ヨハネによる「黙示録」の中に、みことばが、霊的な意味、すなわち、内意について次のように述べられています。

私は開かれた天を見た。すると見よ、「白い馬」。その上に乗っている方は忠実また真実と呼ばれ、義をもってさばき、戦われる。その方の目は火の炎。またその方の頭の上に多くの王冠。名前が書かれており、それはその方以外にだれも知らなかった。血に染まった衣を着ており、その方の名前は「神のみことば」と呼ばれる。また天にある軍勢が、白い馬の上に〔乗り〕、白い清潔な亜麻布を着て、その方に従った。衣服の上に、またももの上に、「王の王、主の主」の名前が書かれていた(19・11, 12, 13, 14, 16)。

これらの個々のものが何を含むかは、内意からでなければ、だれも知ることができません。それぞれの表現に、何らかの表象的なものと表意的なものがあることは明らかです。すなわち、開かれた天、白い馬、それに乗っている方、義をもってさばき、戦うこと、その目は火の炎だったこと、頭の多くの王冠、その方以外にだれも知らない名前をもっていたこと、血に染まった衣を着ていたこと、天の軍勢は白い清潔な亜麻布を着て、白い馬に乗ってその方に従ったこと、それと衣の上とももの上に名前が記されていたことです。その方はみことばであり、主がみことばであると明らかに言われています。なぜなら、「その方の名前は『神のみことば』と呼ばれる」、またその後、「衣の上とももの上に、『王の王、主の主』の名前が書かれていた」と言われているからです。
個々の言葉の解釈から、ここに霊的な意味、すなわち、内意に関するみことばが述べられていることが明らかです。天が開かれることは、みことばの内意が天界で見られ、ここから、世にいる者に天界が開かれたことを表象し、意味します。白い馬は、みことばの内的なものに関する理解力を表象し、意味します。白い馬がそれを意味することは、続くものの中で明らかにします。
それに乗る方が、みことばに関する主、したがって、みことばであることは明らかです。なぜなら、「その方の名前は神のみことばと呼ばれる」と言われているからです。善から「忠実で義をもってさばかれる方」と呼ばれ、また真理から「真理と義をもって戦う方」と呼ばれるのは、主ご自身が義であられるからです。その目が火の炎であることは、その方の神的な愛の神的な善からの神的な真理を意味します。その方の頭の上の多くの王冠は、信仰のすべての善と真理を意味します。その方を除いてだれも知らない名前が書かれていることは、その方とその方に啓示される者以外に、内意におけるみことばの性を、だれも知らないことを意味します。血に浸された衣を着ていることは、暴力が加えられた文字通りの意味におけるみことばを意味します。白い馬に乗ってその方に従う天の軍勢は、内的なものに関して、みことばの理解の中にいる者を意味します。白い清潔な亜麻布を着ていることは、善からの真理の中にいる者を意味します。衣の上とももの上に、その方の名前が書かれていることは、真理と善、それとその性を意味します。これらから、また本章に先行することと後に続くことから、そこに教会の最後の時の頃、みことばの霊的な意味、すなわち、内意が開かれる、と預言されていることが明らかです。しかし、その時、何が起こるか、そのこともまた、そこに述べられています(17, 18, 19, 20, 21節)。これらの言葉によって意味されることを、ここで示す必要はないでしょう。なぜなら、『天界の秘義』の中に個々のものが示されているからです。

例えば、主は神的な真理であるので、みことばである(2533, 2803, 2894, 5272, 7835番)。
みことばは神的な真理である(4692, 5075, 9987番)。
「馬に乗る方」は義をもってさばき、戦う、と言われる。なぜなら、主は公正であられるから。 主が「公正」と言われるのは、ご自分のプロプリウムの力から人類を救われたから(1813, 2025, 2026, 2027, 9715, 9809, 10019, 10152番)。
また「義」は主おひとりの「功績」である(9715, 9979番)。
「火の炎の目」は、神的な愛の神的な善からの神的な真理を意味する。なぜなら、「目」は理解力と信仰の真理を意味するから(2701, 4403-4421, 4523-4534, 6923, 9051, 10569番)。
また、火の炎は愛の善である(934, 4906, 5215, 6314, 6832番)。
頭の上の王冠は、信仰のすべての善と真理を意味する(114, 3858, 6335, 6640, 9863, 9865, 9868, 9873, 9905番)。
その方以外にだれも知らない名前が書かれていることは、内意におけるみことばの性はその方と、その方に啓示される者以外に、だれも知らないことを意味する。「名前」は物事の性を意味するから(144, 145, 1754, 1896, 2009, 2724, 3006, 3237, 3421, 6674, 9310番)。
血に染まった衣を身に付けていることは、暴力が加えられた文字通りの意味における、みことばを意味する。なぜなら、「衣」が真理を意味し、真理は善を着るから(1073, 2576, 5248, 5319, 5954, 9212, 9216, 9952, 10536番)。
特に、最終的なものにおける真理を、こうして文字通りの意味における真理を意味する(5248, 6918, 9158, 9212番)。
なぜなら、血は虚偽から真理に加えられた暴力を意味するから(374, 1005, 4735, 5476, 9127番)。
天の軍勢が白い馬に乗って、その方に従ったことは、内的なものに関してみことばの理解力の中にいる者を意味する。なぜなら、「軍勢」は天界と教会との真理と善の中にいる者を意味するから(3448, 7236, 7988, 8019番)。
また、「馬」は理解力を意味する(3217, 5321, 6125, 6400, 6521, 6534, 7024, 8146, 8381番)。
また、白は、天界の光の中の真理、したがって内的な真理である(3301, 3993, 4007, 5319番)。
白い亜麻布の衣を身に付けている者は、善からの真理にいる者を意味する。なぜなら、亜麻布または亜麻の衣は天界の起源からの真理を意味し、それは善からの真理であるから(5319, 9469番)。
衣の上とももの上に名前が書かれていたことは、真理と善を、またその性を意味する。なぜなら、衣は真理を、また前に述べたように、名前は性を、ももは愛の善を意味するから(3021, 4277, 4280, 9961, 10488番)。
王の王と主の主は、神的な真理に関する、また神的な善に関する主である。主は神的な真理から王と呼ばれる(3009, 5068, 6148番)。
また、主は神的な善から主と呼ばれる(4973, 9167, 9194番)。

ここから、霊的な、あるいは内的な意味でのみことばがどんなものか、またそこに何らかの霊的なものを、すなわち、天界と教会に属するものを意味しない表現は、何も存在しないことが明らかです。

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001◀︎目次▶︎003

2  みことばの預言の中にしばしば「馬」の名前が挙げられています。しかし、これまで「馬」が理解力を、また「騎手」が理解力のある者を意味することはだれにも知られていませんでした。おそらくこのことは、馬によって、霊的な意味で、またここから、みことばでこのようなことが意味されることが、異で不思議に見えるからです。しかしそれでも、そうしたものであることは、そこの多くの個所から明らかにすることができます。私はそこからいくつかだけをここに引用します。
ダンについてイスラエルの預言の中に、

ダンは道の上の蛇、小道の上の投げ槍のような蛇、馬のかかとをかむと、その騎手は後ろへ倒れる(創世記 49:7, 18)。

イスラエルの一部族についてのこの預言が何を意味するかは、蛇が何を、さらに「馬」と「騎手」が何を意味するか知らないなら、だれも理解できません。含まれているものが霊的なものであることを、だれも知りません。それで、個々のものが何を意味するかは、『天界の秘義』6398, 6399, 6400, 6401番を見てください。そこにはこの預言が説明されています。
「ハバクク書」に、

神よ、あなたは、あなたの馬に乗られる。あなたの戦車は救い。あなたは、あなたの馬で海を踏みつけられる(3:8, 15)。

ここの「馬」が霊的なものを意味することは、これらは神について言われているので明らかです。そうでなければ、神がご自分の馬に乗られ、ご自分の馬で海を踏みつけられることは、何でしょうか。
「ゼカリヤ書」にも同様に、

その日に、馬の鈴の上に、エホバの聖なるものがある(14:20)。

同書に、

その日に、エホバは言われる。わたしはすべての馬を驚きで打ち、騎手を狂わせる。ユダの家の上にわたしの眼を開く。そして民らのすべての馬を打って盲目にする(12:4)。

ここに教会の荒廃について扱われており、そのことは、もはやどんな真理も理解されない時に起こります。このことが「馬」と「騎手」によって述べられています。「すべての馬を驚きで打つ」ことや「民らの馬を打って盲目にする」ことはこれ以外の何でしょうか、そうでないとしたら、これは教会にとって何でしょうか。
「ヨブ記」に、

神はこれに知恵を忘れさせ、知性をこれに授けなかった。それが高くとびはねる時、馬とその騎手をあざ笑う(39:17, 18, 19以降)――

ここには「馬」によって「理解力」が意味されることが、はっきりと明らかです。

同様に「ダビデ」に、そこに〔神は〕「真理のことばの上に(馬に)乗る」(詩篇45:4)と言われています。これ以外にも他に多くの個所があります。
さらに、もし「戦車」と「騎手」が何を意味するのか、またエリヤとエリシャが何を表象するのか知られないなら、エリヤとエリシャが「イスラエルの戦車、その騎手」と言われたことがどこからか、だれが知るのでしょうか。また、エリシャのしもべが、「山が火の馬と火の戦車で満ちていた」のを、なぜ見たのでしょうか。
なぜなら、エリシャはエリヤに、

わが父、わが父、イスラエルの戦車と騎兵たち(列王記Ⅱ2:11, 12)、

またヨアシュ王はエリシャに、

わが父、わが父、イスラエルの戦車と騎兵たち(列王記Ⅱ13:14)と言ったからです。

またエリシャの若者〔しもべ〕については、

エホバがエリシャの若者〔しもべ〕の目を開かれた、それで見た、見よ、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた(列王記Ⅱ6:17)。

エリヤとエリシャが「イスラエルの戦車とその騎手」と言われたことは、両者とも、みことばに関する主を表象するからです。また戦車によって、みことばからの教えが、馬によって知性が意味されるからです。エリヤとエリシャがみことばに関する主を表象することは、『天界の秘義』の5247, 7643, 8029, 9327番を、また「戦車」がみことばからの「教え」を意味することは同書の5321, 8215番を見てください。

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3 「馬」が「理解力」を意味することは、霊界での表象以外のどこからでもありません。霊界では、たびたび、馬、馬に座っている者、さらにまた戦車が見られ、そこではすべての者はそれらが知的なものと教えの事柄を意味すると知っています。私がしばしば見たことですが、そこのだれかが自分の理解力から考えているとき、その者が馬に乗っているかのように見られました。彼らの瞑想は、彼ら自身に知られないまま、他の者の前に、このように表象されます。霊界には、教えの真理について理解力から考えて語る、多くの者が集まる場所があり、他の者たちがそこへ来るとき、そこの全部の広場が戦車と馬とであふれているのを見ます。新しく来た者たちが、これらはどうしたことなのかと驚いていると、それらの外観はそこに集った者たちの知的な思考からであると教えられます。その場所は、「知性と知恵の集会」と呼ばれます。
さらにまた私は、だれかが天界に上げられたとき、光り輝く馬と火の戦車を見ました。それはそのとき、その者が天界の教えの真理を教えられ、知的になり、こうして上げられたしるしでした。その光景から、エリヤが天界に上げられた火の戦車と火の馬によって何が、また、エリシャの若者〔しもべ〕の目が開かれたとき彼が見た火の馬と戦車によって何が意味されるか、そのことが私の心にやって来ました。

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4 「戦車」や「馬」がこのようなものを意味したことは、古代教会の中で極めてよく知られていました。その教会は表象的な教会であり、その教会の者たちに、「対応」と「表象」の知識は主要な知識であったからです。これらの教会から、馬の意味は、それは理解力であり、周辺の賢者へ、さらにまたギリシアにまで伝えられました。ここから、太陽を描くとき、そこに彼らの知恵と知性の神を置いて、それに戦車と四頭の火の馬を与えるようになりました。また「海の神」を描いたとき、「海」によって理解力からの知識が意味されるので、彼らはまた「馬」も与えました。また「理解力からの知識」の源を述べたとき、彼らは翼のある馬を案出しました。その馬はひづめで泉を破り開け、そこには知識である九人の処女がいました。なぜなら、古代教会から、馬によって理解力が、翼によって霊的な真理が、ひづめによって理解力からの知識が、また泉によって教えが意味され、そこから知識を得ることが知られていたからです。「トロイアの馬」によって、城壁を破壊するための彼らの理解力からの「人為的なもの」以外の他のものは意味されません。
今日、確かに、古代人に受け入れられた彼らの様式から、飛ぶ馬、すなわち、ペーガソスによって理解力が述べられ、泉によって教えが、また処女によって知識が述べられる習慣です、しかし、馬が神秘的な意味で理解力を意味することを知っている者はほとんどいませんし、これらの表意的なものが古代の表象的教会から異邦人に伝えられたことを知っている者はさらにいません。

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5 「白い馬」によってみことばの霊的または内的な意味についての理解力を意味されるので、今や、みことばについてまたその意味について『天界の秘義』の中で示されていることを続けましょう。なぜなら、「創世記」と「出エジプト記」に含まれているそこのすべてが、みことばの霊的なまたは内的な意味にしたがって説明されているからです。

 

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『天界の秘義』から、みことばとその霊的または内的な意味について

6  みことばの必要性と優越性について
自然の光からは、主、天界と地獄、死後の人間のいのち(生活)について、それによって人間に霊的で永遠のいのちがある神的な真理について、何も知られない(8944, 10318, 10320番)。
そのことはこれから知ることができる――多くの者は、彼らの間で学問のある者は、たとえ、みことばのあるところに生まれ、みことばによってそれら〔神的な真理〕について教えられていても、それらを信じていない(10319番)。
それゆえ、天界から何らかの啓示が存在することが必要であった、なぜなら、人間は天界へと生まれているから(1775番)。
それゆえ、すべての時に啓示があった(2895番)。
この地上に継続的に存在したいろいろな種類の啓示について(10355, 10632番)。
洪水以前の最古代の人々には、彼らの時は黄金時代と呼ばれ、直接の啓示が存在し、ここから神的な真理は彼らの心に刻まれた(2896番)。
洪水以後に存在した古代教会の中に、歴史的なみことばと同じく預言的なみことばがあった(2686, 2897番。その教会については『新しいエルサレムとその天界の教え』247番参照)。
その歴史的なものは「エホバの戦い」、その預言的なものは「宣言」と呼ばれた(2897番)。 そのみことばは霊感に関して私たちのみことばに似ていたが、しかし彼らの教会に適していた(2897番)。
それはモーセにより記された(2686, 2897番)。
しかし、そのみことばは失われた(2897番)。
バラムの預言から明らかなように、他の者のもとにもまた預言的な啓示があった(2898番)。

みことばはそのすべてと個々のものの中に神性がある(639, 680, 10321, 10637番)。
みことばは一点一画のすべてに関して神的であり、聖なるものである(経験から、9349番)。
今日、みことばがすべての一点に関して霊感を受けていることは、どのように説明されるか(1886番)。

教会は、みことばが存在し、それによって主が知られ、神的な真理が啓示されているところに特に存在する(3857, 10761番)。
しかし、みことばが存在して、主がそのみことばにより知られているところに生まれた者〔が教会に属するの〕ではなく、みことばからの真理によって主により再生する者が教会に属する。その者はその中にある真理にしたがって生きる者、したがって愛と信仰の生活に生きる者である(6637, 10143, 10153, 10578, 10645, 10829番)。

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7  みことばは照らされている者以外には理解されない
人間の理性は、主によって照らされないなら、神的なものを、霊的なものでさえ理解することができない(2196, 2203, 2209, 2654番)。
このように照らされている者だけが、みことばを理解する(10323番)。
主は照らされている者に真理を理解させ、そしてみことばの中で互いに矛盾しているように見えるものを区別するようにさせられる(9382, 10659番)。
みことばは、文字通りの意味ではそれ自体と似ないで、ときどき互いに矛盾するように見える(9025番)。
それゆえ、〔文字通りの意味は〕照らされていない者により、どんな見解や異端でも確信されるまでに、またどんなものでも世と身体への愛を支持するまでに、説明され、ゆがめられることができる(4783, 10330, 10400番)。
真理と善への愛からみことばを読む者は、それ〔みことば〕から照らされる。けれども、しかし名声、利益、名誉から、このように自己への愛から〔読む者〕は〔照らされ〕ない(9382, 10548, 10549, 10551番)。
生活の善の中にいて、ここから真理への情愛の中にいる者は照らされる(8694番)。
内なるものが開かれている者は照らされる、そのようにその内なる人は天界の光の中へ高揚されることができる(10400, 10402, 10691, 10694番)。
照らされることは実際に開くことであり、そしてまた天界の光の中への高揚である(10330番)。
内なるものから、すなわち、内なるものを通して主から、聖なるものが、みことばを聖なるものとする者のもとに流入する、彼らは〔そのことを〕知らない(6789番)。
主により導かれる者は照らされ、みことばの中に真理を見る。けれども、自分自身により導かれる者は〔そうでは〕ない(10638番)。
真理を真理であるので愛する者は主により導かれる、彼らは神的な真理にしたがって生きることを愛する者である(10578, 10645, 10829番)。
みことばは人間のもとで彼の愛と真理の生活にしたがって生かされる(1776番)。
〔人間の〕プロプリウムの知性からのものは、人間にプロプリウムからは何も善がないので、それ自体の中にいのちをもたない(8941, 8944番)。
誤った教えを大いに確信した者は照らされることができない(10640番)。

照らされるものは理解力である(6608, 9300番)。
理解力は真理を受けるものである(6240, 6608, 10659番)。
教会のすべての教えについて、いろいろな観念(考え)があり、それら〔観念〕にしたがって物事が理解される(3310, 3825番)。
人間の観念は世に生きるかぎり自然的である。その時、自然的なものの中で考えるから。しかし、それでも真理のために真理の情愛の中にいる者たちのもとには霊的な観念がそれらの中に隠されている。また人間は、死後、その中にやって来る(3310, 5510, 6201, 10236, 10240, 10551番)。
どんな物事についても、観念(考え)なしに、知覚はない(3825番)。
信仰の事柄について、観念は来世で開かれ、そこ[来世]でどんなものであるか天使により見られる。また人間はその時、愛に属する情愛から発出かぎり、それらにしたがって、他の者と結ばれる(1869, 3310, 5510, 6200, 8885番)。
それゆえ、みことばは理性的な人間による以外には理解されない。なぜなら、何かをその事柄の観念なしに、また理性的な熟考もなしに信じることは、単に言葉を記憶から保持することであって、知覚と情愛とのすべてのいのちを奪われており、信じることではないから(2553番)。
照らされるものは、みことばの文字通りの意味である(3436, 9824, 9905, 10548番)。

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8  みことばは、みことばからの教えによらないなら、理解されない
教会の教えは、みことばからのものでなくてはならない(3464, 5402, 6832, 10763, 10765番)。
教えなしに、みことばは理解されない(9025, 9409, 9424, 9430, 10324, 10431, 10582番)。
真の教えは、みことばを読む者には明かりである(10400番)。
純粋な教えは主により照らされている者により存在し〔形作られ〕なくてはならない(2510, 2516, 2519, 9424, 10105番)。
みことばは、照らされた者によりつくられた教えによって理解される(10324番)。
照らしの中にいる者は、みことばから自分に教えをつくる(9382, 10659番)。
教会の教えから教え、学ぶ者と、文字通りの意味だけから教え、学ぶ者との間の相違。彼らがどんなものか(9025番)。
教えなしに、みことばの文字通りの意味の中にいる者は、神的な真理について決して理解するようにはならない(9409, 9410, 10582番)。
彼らは多くの誤りに陥る(10431番)。
真理のために真理の情愛の中にいる者は、成人になって、自分自身の理解力から見ることができるとき、単に自分自身の教会の教えの中にとどまるだけでなく、それらが真であるかどうか、みことばから調べる(5402, 5432, 6047番)。
そうでなければ、それぞれの者の真理は、その者がユダヤ人、またはギリシア人として生まれたにしても、他の者たちから、またその者の生まれた地のものとなるであろう(6047番)。
それでも、みことばの文字通りの意味から信仰のものとなったものは、十分な熟考の後でないなら、消されてはならない(9039番)。
教会の真の教えは仁愛と信仰の教えである(2417, 4766, 10763, 10764番)。
信仰の教えではなく、仁愛である信仰の生活が教会をつくる(809, 1798, 1799, 1834, 4468, 4672, 4766, 5826, 6637番)。
教えは、それにしたがって生きないなら無意味であり、教えは生活のためのものであり、記憶とそこからの何らかの思考のものではないことをだれでも見ることができる(1515, 2049, 2116番)。
今日、教会の中には信仰の教えがあって、仁愛の教えはない、そして仁愛の教えは「倫理神学」と呼ばれる知識の中に捨てられている(2417番)。
もし生活から、したがって仁愛から教会の人間として認められるなら、教会は一つとなるであろう(1285, 1316, 2982, 3267, 3445, 3451, 3452番)。
仁愛の教えは仁愛から分離した信仰の教えよりもどれほど力があることか(4844番)。
仁愛について何も知らない者は、天界について無知の中にいる(2435番)。
信仰の教えを持つと同時に仁愛の教えを持たない者は、どれほど多くの誤りに陥るか(2338, 2417, 3146, 3325, 3412, 3413, 3416, 3773, 4672, 4730, 4783, 4925, 5351, 7623~7627, 7752-7762, 7790, 8094, 8313, 8530, 8765, 9186, 9224, 10555番)。
信仰の教えの中だけにいて、仁愛である信仰の生活の中にいない者は、古くは、無割礼の者またはペリシテ人と呼ばれた(3412, 3413, 3463, 8093, 8313, 9340番)。
古代人には主への愛と隣人に対する仁愛との教えが存在し、信仰の教えはそれに仕えた(2417, 3419, 4844, 4955番)。

照らされた者によってつくられた教えは、後に理性的なものによって確信されることができる。こうして十分に理解され、強くされる(2553, 2719, 2720, 3052, 3310, 6047番。この事柄についてより多くは『新しいエルサレムとその天界の教え』51番参照)。
仁愛から分離した信仰の中にいる者は、教会の教えが何らかの理性的な熟考なしに単純に信じられることを欲する(3394番)。

教義を確信することは賢明な者に属さない、しかし確信する前に真理であるかどうかを見ること〔は賢明な者に属する〕。これらは照らしの中にいる者に生ずる(1017, 4741, 7012, 7680, 7950番)。
確信の光は自然的であって、霊的ではなく、悪い者のもとにもまた〔存在〕可能である(8780番)。
すべてのものは、虚偽もまた、真理として見えるようにまでも、確信されることができる(2480, 2490, 5033, 6865, 8521番)。

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9  みことばには内意と呼ばれる霊的な意味がある
だれも対応が何かを知らないなら、みことばの霊的な意味、すなわち、内意が何かを知ることはできない(2895, 4322番)。
自然界に存在するすべてと個々のものは、その最小のものまでも、霊的なものに対応し、そこから霊的なものを意味する(1886-1889, 2987-3003, 3213-3227番)。
自然的なものが対応している霊的なものは、自然的なものの中で、区別されないような、他の外観の下に見られる(1887, 2395, 8920番)。
今日、ほとんどだれも、みことばの神的なものはどこにあるか知らない、しかしそれでもその内意または霊的な意味の中にあり、それは知られていない(2899, 4989番)。
みことばの神秘的なものは、その内意または霊的な意味に含まれているもの以外の何ものでもなく、その中に、主について、その方の王国について、教会について扱われ、世の中の自然的なものについては扱われていない(4923番)。
〔みことばの〕預言は多くの個所で理解されず、このように内意がなくては決して役に立たない(例から、2608, 8020, 8398番)。
例えば「黙示録」の「白い馬」によって何が意味されるか(2760番以降)。
ペテロに与えられた「天の御国のかぎ」によって何が〔意味されるか〕(「創世記」第22章への序言。9410番)。
聖餐の「肉」「血」「パン」「ぶどう酒」によって何が〔意味されるか〕(8682番)。
自分の息子たちについてのヤコブの預言によって何が〔意味されるか〕(「創世記」第49章、12639-6465番)。
ユダとイスラエルについての多くの預言によって何が〔意味されるか〕。それらの多くはその民族に適合しないし、文字通りの意味にしたがって一致もしない(6333, 6361, 6415, 6438, 6444番)。
これ以外に他の無数の例(2608番)。
さらに、対応とは何かについて、著作『天界と地獄』参照(87-102, 103-115, また303-310番)。

みことばの霊的な、または内なる意味について、要約した形で(1767-1777, 1869-1879番)。
みことばのすべてと個々のものの中に内意が存在する(1143, 1984, 2135, 2333, 2395, 2495, 2619番)。
こうしたものは文字通りの意味には見られないが、それでもその中に内部に存在する(4442番)。

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009◀︎目次▶︎011

10 みことばの内意は特に天使のためのもの、また人間のためのものでもある
内意とは何か、それがどんなものか、またどこからかを知るために、ここに簡単に述べておこう。天界では世と異なって考え、話す。天界では霊的に、世では自然的に考え、話す。それゆえ、人間がみことばを読むとき、人間のもとにいる天使は、人間がそれを自然的に知覚するとき、それを霊的に知覚する。ここから天使は内意の中にいるが、そのとき人間は外なる意味の中にいる。それでも〔その二つの意味は〕対応によって一つとなっている。天使は霊的に考えるだけでなく、霊的にもまた話す。その時、彼らは人間のもとにいる。みことばによる天使との結合については著作『天界と地獄』参照。そこに「天界の天使の知恵について」(265~275番)、「彼らの話し方について」(234~245番)、「人間と彼らの結合について」(291~302番)、「みことばによる結合について」(303~310番)扱われている。

天界の天使は、みことばを地上の人間とは異なって理解する。天使には内なるまたは霊的な意味がある、けれども、人間には外なるまたは自然的な意味がある(1887, 2395番)。
天使は、みことばの内意を知覚し、その外なる意味は知覚しない。私がみことばを読んでいたとき、天界から私とともに語った者たちとの経験から(1769~1772番)。
天使の観念と言葉は霊的である、けれども人間の観念と言葉は自然的である。それゆえ、天使のために存在する霊的な内意がある(経験からの説明、2333番)。
それでも、みことばの文字通りの意味は、天使の霊的な観念の手段として役立つ。比較すれば人間のもとで言葉が事柄の意味〔を伝える手段〕を与えるように(2143番)。
みことばの内意に属するものは天界の光のようなものへ、このように天使の知覚の中へ落ち込む(2618, 2619, 2629, 3086番)。
みことばから天使が知覚するものは、それゆえ、彼らに貴重である(2540, 2541, 2545, 2551番)。
天使は、みことばの文字通りの意味の一つの表現(言葉)も決して理解しない(64, 65, 1434, 1929番)。
彼らは、みことばの中の人物と場所の名前も知らない(1434, 1888, 4442, 4480番)。
名前は天界に入ることはできず、そこでは語られることもできない(1876, 1888番)。
みことばの中のすべての名前は事物を意味し、天界では事物の観念に変化する(768, 1888, 4310, 4442, 5225, 5287, 10329番)。
さらにまた、天使は人物から抽象して考える(6613, 8343, 8985, 9007番)。
みことばの内意はどれほど優雅なことか、たとえ名前だけあっても(みことばからの例から、1224, 1888, 2395番)。
連続する多くの名前もまた、内意では一つの事柄を表現する(5095番)。
みことばの中のすべての数字もまた事物を意味する(482, 487, 647, 648, 755, 813, 1963, 1988, 2075, 2252, 3252, 4264, 6175, 9488, 9659, 10217, 10253番)。
霊もまた、彼らの内なるものが天界の中へ開かれているに応じて、みことばを内意の中で知覚する(1771番)。
自然的なものであるみことばの文字通りの意味は、天使のもとで瞬間に霊的な意味に変えられる、対応が存在するからである(5648番)。
しかもこのことは〔天使が〕文字通りのまたは外なる意味を聞いたり、または知ったりすることがなくて〔生ずる〕(10215番)。
このように文字通りのまたは外なる意味は人間のもとにだけあって、〔それを〕越えて進まない(2015番)。

みことばには内意が、また最も内なるまたは最高の意味が存在する(そのことについて、9407, 10604, 10614, 10627番)。
霊的な天使、すなわち、主の霊的な王国の者は、みことばを内意で知覚し、天的な天使、すなわち、主の天的な王国の者は、みことばを最も内なる意味で知覚する(2157, 2275番)。

みことばは人間のために、また天使のために存在して、両者に適している(7381, 8862, 10322番)。
みことばは天と地を結合させるものである(2310, 2495, 9212, 9216, 9357番)。
人間と天界の結合は、みことばによって存在する(9396, 9400, 9401, 10452番)。
それゆえ、みことばは「契約」と呼ばれる(9396番)。
「契約」は結合を意味するからである(665, 666, 1023, 1038, 1864, 1996, 2003, 2021, 6804, 8767, 8778, 9396, 10632番)。
みことばは主から三つの天界を通って人間にまでも下ったので、みことばの中には内意がある(2310, 6597番)。
このようにそれは三つの天界の天使に、また人間にも〔適するようになった〕(7381, 8862番)。
ここから、みことばは神的なものである(2989, 4989番)。
聖なるものである(10276番)。
霊的なものである(4480番)。
みことばは神性により霊感を受けたものである(9094番)。
それは霊感である(9094番)。

再生した人間もまた、その内なる人は霊的な知覚を与えられ、開かれているので、実際にみことばの内意の中にいるが、それでも彼はそのことを知らない(10400番)。
しかし、みことばの霊的なものは自然的な観念の中に流入し、このように自然的に〔見える形で〕示されている。〔人間は〕世に生きている間は自然的なものの中で考えるからである(5614番)。
ここから照らされている者のもとで、真理の光は、その内なるものから、このように、内なるものを通して主からである(10691, 10694番)。
さらにまた、その方法によって聖なるものが、みことばに聖なるものを抱いている者のもとへ流入する(6789番)。
実際に再生した人間は、みことばの内意の中に、またその聖なるものの中にいるので、たとえそのことを知っていなくても、それゆえ死後、彼はその中へ入って、もはや文字通りの意味の中にはいない(3226, 3342, 3343番)。
人間の内なる観念は霊的である。しかし、人間は、世に生きているとき、霊的な観念に気づかない。彼の自然的な思考の中に内在しているからである。霊的な観念は自然的な思考に理性的な能力を与える(10236, 10240, 10551番)。
しかし、人間は死後、自分の霊的な観念の中に入って行く。その観念が彼の霊のプロプリウム(固有のもの)であるから。また、その時、それらから考えるだけでなく話す(2470, 2478, 2479, 10568, 10604番)。
ここから、再生した人間は、みことばの霊的な意味の中にいること、またそこから照らしの中にいることを知らない、と言われる。

白い馬について

010◀︎目次▶︎012

11  みことばの内的なまたは霊的な意味の中には無数のアルカナがある
みことばは内意の中に人間の把握を超える無数のものを含む(3085, 3086番)。
さらにまた、言葉にできないものと説明できないものを〔含む〕(1965番)。
それらは天使だけに示され、彼らにより理解される(167番)。
みことばの内意は天界のアルカナ(秘義)を含む、それは主と、天界と地上でのその方の王国とに関係する(1-4, 937番)。
そのアルカナは文字通りの意味には見られない(937, 1502, 2161番)。
預言者の書の中の多くのものは、ばらばらのように見えるが、内意では美しく連続的に結合している(7153, 9022番)。
その原語の中の一つの語も、一つの点〔一画〕でさえも、内意での中断なしに、みことばの文字通りの意味の中で欠くことはできない。それゆえ、主の神的な摂理から、みことばはすべての語までも、すべての一点までも、そのように完全に保たれた(7933番)。
みことばの個々のものに無数の事柄が内在する(6617, 8920番)。
またそれぞれの表現にも〔内在する〕(1869番)。
「主の祈り」の中に、またその個々のものの中に、無数のものが存在する(6619番)。
また十戒の戒めの中に〔存在する〕。それでもその外なる意味であるものは、啓示なしにどの民族にも知られているといったものである(8862, 8902番)。
原語では、みことばの文字の小さい角(一点)のそれぞれに聖なるものが存在することが、天界から示された。そのことは著作『天界と地獄』(260番)参照、そこに次の主のみことばが説明されている、

律法について、一画も小さな角も (一点一画)も滅びない(マタイ5:18)

みことばの中に、特にその預言者の書の中に、同じ事柄のような2つの表現がある。しかしその一つは善に、もう一つは真理に関係する(683, 707, 2516, 8339番)。
みことばの中の善と真理の中には驚くべき結合がある、その結合は内意を知っている者にだけ明らかである(10554番)。
このように、みことばの中に、またその個々のものに、神的な結婚と天界的な結婚が存在する(683, 793, 801, 2173, 2516, 2712, 5138, 7022番)。
神的な結婚は神的な善と神的な真理の結婚であり、このように主である、その中にだけ結婚が存在する(3004, 3005, 3009, 5138, 5194, 5502, 6343, 7945, 8339, 9263, 9314番)。
「イエス」によって神的な善が、「キリスト」によって神的な真理が、二つのものによって天界の中の神的な結婚が意味される。それは神的な善と神的な真理の結婚である(3004, 3005, 3009番)。
この結婚は、みことばの個々のものの中に、その内意の中にあり、このように主は神的な善と神的な真理に関して〔その中におられる〕(5502番)。
天界と教会の中には主からの善と真理の結婚があり、それは天界的な結婚と呼ばれる(2508, 2618, 2803, 3004, 3211, 3952, 6179番)。
このように、その観点からは、みことばはあたかも天界のようである(2173, 10126番)。
天界はその中の善と真理の結婚からみことばの中で結婚にたとえられる(2758, 3132, 4434, 4835番)。

内意は教会の純粋な教えそのものである(9025, 9430, 10400番)。
みことばを内意にしたがって理解する者は、教会の真の教えそのものを知る、内意はそれ〔教会の真の教え〕を含むから(9025, 9430, 10400番)。
みことばの内なるものはまた教会の内なるものである、礼拝の内なるものように(10460番)。
みことばは主への愛と隣人に対する仁愛の教えである(3419, 3420番)。

みことばは文字の中では雲のようなものであり、内意では栄光である(「創世記」第18章の序言、5922, 6343番。そこに「主は天の雲の中に栄光をもって来られる」ことが説明されている)。みことばの「雲」は文字通りの意味におけるみことばを、「栄光」は内意におけるみことばを意味する(「創世記」第18章の序言、4060, 4391, 5922, 6343, 6752, 8106, 8781, 9430, 10551, 10574番)。
文字通りの意味の中にあるものは、内意の中にあるものと比べるなら、磨かれた光学円筒の周りの粗雑な投影(映像)のようなものである。それでも、〔その投影の中心に〕その円筒が置かれると、その円柱〔面〕から人間の美しい映像が〔写し出される〕(1871番)。
来世では、みことばの文字通りの意味だけ欲し、認める者は、醜い老婆によって表象される。しかし〔文字通りの意味と〕同時に内意を〔認める者は〕美しく着飾った処女によって〔表象される〕(1774番)。
みことばは神的な真理であり、神的な真理は天界をつくるので、みことばはその全統一体として天界の映像である。また天界は一人の人間を表わすので、みことばはその観点からは人間の映像のようである(1871番)。
(天界は一つの統一体として一人の人間を表わすことは著作『天界と地獄』59~67番参照。主から発出する神的な真理は天界をつくることは、126-140, 200-212番)。
みことばは天使の前では美しくまた快く示される(1767, 1768番)。
文字通りの意味はあたかも身体のようであり、内意はあたかもその身体の霊魂のようである(8943番)。
ここから、みことばのいのちは内意からである(1405, 4857番)。
みことばは内意では純粋であるが、文字通りの意味ではそのように見えない(2362, 2395番)。
みことばの文字通りの意味の中にあるものは、内なるものからの聖なるものである(10126, 10728番)。

みことばの歴史的なものの中にもまた内意がある、しかしその内部に〔存在する〕(4989番)。
このように、みことばの歴史的ものはその預言的なものと等しく天界のアルカナ(秘義)を含む(755, 1659, 1709, 2310, 2333番)。
天使は歴史的なものを知覚しない、しかし霊的に〔知覚する〕(6884番)。
歴史的なものの中にある内的なアルカナは、預言的なものの中にあるものよりも人間に明らかではない、その理由(2176, 6597番)。

さらに、みことばの内意がどんなものか(1756, 1984, 2004, 2663, 3035, 7089, 10604, 10614番)。比較によって説明される(1873番)。

白い馬について

011◀︎目次▶︎013

12  みことばは対応によって、このように表象によって書かれている
みことばは文字通りの意味に関して対応そのものによって、そのようにこのようなものによって天界と教会に属する霊的なものを表象し、意味するものによって書かれている(1404, 1408, 1409, 1540, 1619, 1659, 1709, 1783, 2179, 2763, 2899番)。
このことは個々のものの中の内意のためになされた(2899番)。
このように天界のために〔なされた〕、天界にいる者はみことばを自然的なものであるその文字通りの意味にしたがって理解しないで、霊的なものであるその内意にしたがって理解するからである(2899番)。
主は神性から語られたので、対応、表象、表意によって語られた(9049, 9063, 9086, 10126, 10728番)。
このように主は世の前と天界の前で語られた(2533, 4807, 9049, 9063, 9086番)。
主の語られたものは全天界を行き渡った(4637番)。
みことばの歴史的なものは表象である。言葉は表意である(1540, 1659, 1709, 1783, 2686番)。
みことばは他の文体で書かれることはできなかった、それによって天界との伝達と結合が存在するためである(2899, 6943, 9481番)。
みことばを外見上の単純で粗野な文体のために軽蔑し、もし異なった文体で書かれていたなら、みことばが受け入れられると考える者は大いに誤っている(8783番)。
最古代の人々にもまた、表象と表意による書き方と文体があった(605, 1756, 9942番)。
古代の賢人は、みことばを、そこに表象的なものと表意的なものがあるので喜んだ(経験から、2592, 2593番)。
もし最古代教会の人間がみことばを読んだなら、彼は内意の中にあるものを明らかに見て、外なる意味の中にあるものはぼんやりと見たであろう(4493番)。
カナンの地のすべての場所は最古代から表象的なものとなっていたので、ヤコブの子孫はその地へ導かれた(1585, 3686, 4447, 5136, 6516番)。
このように、みことばがそこで書かれ、その中で〔それらの〕場所は内意のために名づけられなければならなかった(3686, 4447, 5136, 6516番)。
しかしそれでも、みことばは、その民族のために、その外なる意味に関して変化した、しかしその内意に関して変化しなかった(10453, 10461, 10603, 10604番)。
その民族について、みことばから引用した多くの個所があるが、それでも、それらは内意にしたがって、そのように、文字通りの意味にしたがうのとは異なって、理解されなければならない(7051番)。みことばがその民族にあり、彼らについて書かれ、彼らは教会を表象したので、それゆえ、神的で天的なものは、ルベン、シメオン、レビ、ユダ、エフライム、ヨセフ、その他のように、彼らの名前によって意味された――また、ユダによって、内意では、天的な愛に関する主とその方の天的な王国が意味される(3654, 3881, 5583, 5782, 6362-6381番)。
みことばの中の対応と何であるか、また表象とはどんなものであるか、その性を知るために、それゆえ、それらについてもまた何らかのことを述べよう。
対応するものはすべてまた表象するものでもあり、そこから表意するものであり、このように対応と表象とは1つである(2896, 2897, 2973, 2987, 2989, 2990, 3002, 3225番)。
対応と表象とは何か(経験からまた例から、2763, 2987-3002, 3213-3226, 3337-3352, 3472-3485, 4218-4228, 9280番)。
対応と表象の知識は古代人のもとで主要な知識であった(3021, 3419, 4280, 4748, 4844, 4964, 4966, 6004, 7729, 10252番)。
特に東洋人のもとで(5702, 6692, 7097, 7779, 9391, 10252, 10407番)。
エジプトでは他〔の国々〕にまさって(5702, 6692, 7097, 7779, 9391, 10407番)。
ギリシアやその他のところのように、異邦人のもとでもまた(2762, 7729番)。
しかし今日〔それは〕失われた知識の間にある、特にヨーロッパで(2894, 2895, 2995, 3630, 3632, 3747-3749, 4581, 4966, 10252番)。
それでもその知識は〔他の〕すべての知識にまさる、それなしでみことばは理解されず、またみことばの中のユダヤ教会の儀式はそれらについて何を意味するのかも、また天界の性も知られず、霊的なものが何かも、どのように自然的なものに霊的なものが流入するか、その他多くのことが知られないからである(4280番、それと前に引用した個所)。
天使と霊に見られるすべてのものは、愛と信仰とに属するといったものの対応にしたがった表象的なものである(1971, 3213-3226, 3449, 3475, 3485, 9481, 9574, 9576, 9577番)。
天界は表象で満ちている(1521, 1532, 1619番)。
表象は天界の内部ほど、それだけ美しく、また完全なものになっている(3475番)。
そこの表象は、神的な真理である天界の光からのものであるので、真の外観である――またこれは、すべてのものの存在の本そのものである(3485番)。

霊界の中に存在するすべてと個々のものが自然界に表象されている理由は、内なるものが適合する外なるものを着て、それによってそれ自体を目に見えて示し、見られるためである(6275, 6284, 6299番)。
このように目的は適当な着物を着て、低い領域の中で原因として存在し、そしてその後、さらに低い領域の中で結果として存在し、そして目的が原因によって結果となるとき、その時、それは目に見えるものとなるか、または目の前に見られる(5711番)。
このことは肉体への霊魂の流入によって説明される。すなわち、霊魂はそうしたものを肉体に着せ、それによって考え、欲するすべてのものを見られ、目に見えて示すことができる。それゆえ、思考は肉体に流れ下るとき、それに対応する態度と行動によって表象される(2988番)。
心に属する情愛は、容貌の変化によって明らかに顔の中に表象され、それほどにまでそこに見られる(4791-4805, 5695番)。
ここから自然界のすべてと個々のものの中に霊界からの内的な原因と目的が隠れていることが明らかである(3562, 5711番)。
自然界の中のものは、そこに先在的なものが内在する最後の結果であるから(4240, 4939, 5051, 6275, 6284, 6299, 9216番)。
内なるものは表象され、外なるものは表象する(4292番)。
さらに、何が対応と表象かは、著作『天界と地獄』参照。そこに天界のすべてのものと人間のすべてのものとの対応について扱われている(87-102番)。地のすべてのものと天界との対応について(103-115番)。また、天界の表象的なものと外観について(170-176番)

自然の中のすべてのものは、霊的なものと天的なものを表象しているので、それゆえ、古代に存在した教会の中では儀式である外なるもののすべてが表象であった。それゆえ、それらの教会は表象的教会と呼ばれた(519, 521, 2896番)。
イスラエルの子孫のもとに設立された教会は表象的教会であった(1003, 2179, 10149番)。
そこのすべての儀式は天界と教会の内なるものを表象する外なるものであった(4288, 4874番)。
主が世に来られたとき、教会と礼拝との表象はやんだ、なぜなら、主は教会の内なるものを開かれたからであり、またすべて教会の外なるものはその最高の意味で主に目を向けていたからである(4832番)。

白い馬について

012◀︎目次▶︎014

13  みことばの文字通りの意味、すなわち、外なる意味について
みことばの文字通りの意味は、世の外観にしたがっている(589, 926, 1408, 2719, 2720, 1832, 1874, 2242, 2520, 2533番)。
また、単純な者の把握にしたがっている(2533, 9048, 9063, 9086番)。
みことばはその文字通りの意味では自然的である(8783番)。
その理由は、自然的なものは最外部のものであり、その中に霊的なものと天的なものが終わり、また家がその土台の上にとどまるようなものであるからである。そうでなければ、外なる意味のない内意は、土台のない家のようになる(9360, 9430, 9433, 9824, 10044, 10436番)。
みことばは、このようなものなので、霊的な意味と天的な意味を包むものである(9407番)。
このようなので、そこのすべてと個々のものに関して、それぞれの一点までも、その文字通りの意味は聖なる神的なものである(639, 680, 1869, 1870, 9198, 10321, 10637番)。
イスラエルの子孫のために結ばれた律法は、たとえ廃止されても、その中の内意のために、やはり聖なるみことばである(9211, 9259, 9349番)。
表象的教会であったイスラエルとユダヤ教会のための律法、判決、法令は、その外なる、また内なる両方の意味において、今なお有効であるものがあり、その外なる意味にしたがって必ず守られなくてはならないものがあり、もし〔守ろうという〕気になるなら、役に立つことのできるものがあり、また完全に廃止されたものがある(9349番)。
みことばはその廃止されたものに関しても神的である(10637番)。

もし内意に関して同時に、すなわち、同じことであるが、みことばからの真の教えにしたがって理解されないなら、〔そのときの〕みことばの文字通りの意味はどんなものであるか(10402番)。
内意のない、すなわち、みことばからの純粋な教えのない文字通りの意味から、莫大な数の異端がわき出る(10400番)。
内なるもののない外なるものの中にいる者は、みことばの内的なものに耐えられない(10694番)。
ユダヤ人はこうしたものであった、また今日もそうである(301-303, 3479, 4429, 4433, 4680, 4844, 4847, 10396, 10401, 10407, 10694, 10701, 10707番)。

白い馬について

013◀︎目次▶︎015

14 主は、みことばであられる
みことばの最も内なる意味では主おひとりが扱われており、その方の人間性の栄化の、すなわち、〔人間性と〕神性そのものとの結合のすべての状態が、そして地獄の征服と、そこの、また天界のすべてのものの秩序のすべての状態が述べられている(2249, 7014番)。
このようにその意味の中に世における主の全生涯が述べられており、そのことによって絶えず天使のもとに主の臨在がある(2523番)。
したがって、みことばの最も内なるものの中には主おひとりがおられる。ここから、みことばの神性と聖なるものが存在する(1873, 9357番)。
ご自分について聖書は成就した、と主が言われたことは、その最も内なる意味の中のすべて〔が成就したこと〕を意味する(7933番)。

みことばは、神的な真理を意味する(4692, 5075, 9987番)。
主は神的な真理であられるので、みことばであられる(2533番)。
みことばは主から発するので、また主について〔扱っているので〕、みことばもまた主である(2859番)。
そして、みことばはその最も内なる意味では主おひとりについて〔扱っており〕、したがって主ご自身がそこに〔おられる〕(1873, 9357番)。
また、みことばのすべてと個々のもの中には神的な善と神的な真理の結婚があるので、結婚は主おひとりの中にある(3004, 3005, 3009, 4137, 5194, 5502, 6343, 7945, 8339, 9263, 9314番)。
神的な真理が唯一の実在であり、その中にそれ〔神的な真理〕が存在し、神性からのものが唯一の実体的なものである(5272, 6880, 7004, 8200番)。
そして主から発出する神的な真理が天界の中の光であり、神的な善が天界の中の熱であるので、またそこ〔天界〕のすべてのものはそれら〔神的な善と神的な真理〕から存在するので、自然界は天界または霊界を通して存在するので、「ヨハネ福音書」の言葉にしたがって、創造されたすべてのものは、神的な真理から、このようにみことばから創造されたことが明らかである――

初めにみことばがあった。みことばは神とともにあった。神はみことばであった。……造られたものはその方によりすべて造られた。……みことばは肉となった〔1:1, 3, 14〕(2803, 2894, 5272, 6880番)。

(さらに神的な真理による、したがって主によるすべてのものの創造については著作『天界と地獄』137番参照。またそこの二つの章116~125番126~140番から豊かに)。
みことばを通し、内意を手段として、主と人間の結合がある(10375番)。
みことばのすべてと個々のものによって結合がある、そこから、みことばはすべての文書にもまさって驚くべきものである(10632~10634番)。
みことばが書かれた後、主はそれによって人間に話しかけられる(10290番)。
加えて、みことばによる天界と人間との結合については、著作『天界と地獄』の中の引用参照(303~310番)

白い馬について

014◀︎目次▶︎016

15 みことばに反対する者について
みことばを軽蔑し、冒涜し、汚す者について(1878番)。
来世で彼らはどんなものか(1761, 9222番)。
彼らは血液の粘り気に関係がある(5719番)。
みことばを汚すことからどれほどの危険が〔生ずるか〕(571-582番)。
もし偽りの原理が、特に自己と世への愛を賛同する原理が、みことばによって確信されるなら、それはどれほど害になるか(589番)。
真理のために真理への情愛が何もない中にいる者は、みことばの内意をまったく拒否し、またそれに嫌気を催す(経験から、5702番)。
みことばの内的なものを拒否した者について、来世で推理力を奪われたこと(1879番)。

白い馬について

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16 どれが、みことばの書か
みことばの書は内意をもつすべてのものである。けれども〔内意を〕もたないものは、みことばではない。旧約聖書でみことばの書は、「モーセの五書」、「ヨシュア記」、「士師記」、二つの「サムエル記」、二つの「列王記」、「ダビデの詩篇」、預言者「イザヤ」、「エレミヤ」、「哀歌」、「エゼキエル」、「ダニエル」、「ホセア」、「ヨエル」、「アモス」、「オバデヤ」、「ヨナ」、「ミカ」、「ナホム」、「ハバクク」、「ゼパニヤ」、「ハガイ」、「ゼカリヤ」、「マラキ」である。また新約聖書では、四つの福音書「マタイ」、「マルコ」、「ルカ」、「ヨハネ」と「黙示録」である。残りは内意をもっていない(10325番)。

「ヨブ記」は古代の書であり、その中に内意がある、しかし、連続していない(3540, 9942番)。

白い馬について

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17  みことばについてさらに多く
ヘブル語で「ことば」は、いろいろなことを意味する。すなわち、談話、心の考え、実際に存在するすべてのもの、なおまた何らかのものである(9987番)。
「みことば」は、神的な真理と主を意味する(4692, 5075, 9987番)。
「ことば」は、真理を意味する(4692, 5075番)。
それらは教えを意味する(1288番)。
「十のことば」は、すべての神的な真理を意味する(10688番)。

みことばの中に、特に預言の中に同じ一つの事柄に二つの表現がある。一つは善に、もう一つは真理に関係しており、このようにそれらは結合している(683, 707, 2516, 8339番)。
みことばの内意からでなくては、どの表現が善に、どの表現が真理に関係するか知ることができない。善に属するものを表現するのに固有の言葉と真理に属するものに固有の言葉があるからである(793, 801番)。
またこのことは、善について扱われているか、または真理について扱われているか、言葉の属性だけから知られるほどである(2722番)。
またときどき、一つの表現は全般的なもの(共通のもの)を、もう一つの表現はその全般的なものから定められるものを含む(2212番)。
みことばには相互性の姿(種類)がある(それについては2240番)。
さらにまた、みことばの大部分のものには対立した意味がある(4816番)。
内意は叙述に関連してその主題にしたがって続く(4502番)。

みことばを喜んだ者は、来世で、愛からの喜びのと量とにしたがって、天的な愛が内在する天界の熱を受ける(1773番)。
終わり