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生活の教え

まえがき◀︎目次▶︎002

(1)すべての宗教は生活のものであり、その生活は善を行なうことである

1 宗教をもつすべての人間は、善く生きる者が救われ、悪く生きる者が断罪されることを知り、認めています――というのは、善く生きる者は、神だけでなく、隣人についてもまた善く生き、善く考えること、けれども、悪く生きる者はそうではないことを知り、認めているからです。
人間の生活(いのち)とは、その者の愛です。人間は愛するものを喜んで行なうだけでなく、喜んで考えます。
そこで、「生活とは善を行なうことである」と言われるのは、善を行なうことと善を考えることは一つとして働くからです。それらは、人間のもとで一つとして働かないなら、生活のものとなりません。しかしこれらのことは続きの中で示します。

生活の教え

001◀︎目次▶︎003

2 宗教は生活のものであること、また生活は善を行なうことであることは、みことばを読むすべての者が知り、読んでいるときに認めます。
みことばに、次のものがあります――

だれでも……これらの戒めの最小のものを破り、そのように人に教える者は、天の御国で最小の者と呼ばれます。しかし、行ない、教える者は、天の御国で偉大な者と呼ばれます。わたしは……あなたがたに言います、もしあなたがたの義が律法学者やパリサイ人よりも多くなかったなら、あなたがたは天の御国にはいりません(マタイ5・19、20)。
善い実を結ばない木はすべて、切り倒され、火に投げ込まれます。それゆえ、あなたがたは、実から、彼らを知ります(マタイ7・19、20)。
わたしに、「主よ、主よ」と言う者がすべて、天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいります(マタイ7・21)。
その日には、多くの者がわたしに言います。「主よ、主よ、あなたの名前によって私たちは預言したではありませんか……そしてあなたの名前において多くの力あるわざをしたではありませんか?」 しかし、その時、わたしは彼らに宣言します。「不法を行なう者ども、わたしから去れ」(マタイ7・22、23)。
わたしのことばを聞き、そしてそれを行なうすべての者を、わたしは、自分の家を岩の上に建てた賢い人に比べます。しかし、わたしのことばを聞いてそれを行なわないすべての者は、自分の家を砂の上に建てた愚かな人に比べられます(マタイ7・24、26)。
イエスは言われました、
種を蒔く者が種蒔きに出かけた。……ある種は固い道の上に……あるものは岩地の中に……あるものはいばらの中に……そしてあるものは善い地の中に落ちた。……善い地の中に蒔かれた者は、みことばを聞き、それに注意する者である。ここから、ある者は……百倍、ある者は……六十倍、そしてある者は……三十倍の実をもたらし、つくる。
イエスはこれらのことを言われたとき、「聞く耳を持つ者は聞け」と言って、叫ばれました(マタイ13・3―9、23)。
人の子はご自分の父の栄光として来ようとしています……その時、それぞれの者にその行為にしたがって報います(マタイ16・27)。
神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます(マタイ21・43)。
人の子がご自分の栄光として……やって来る時、栄光の王座の上に座ります。また右側の羊たちに言います、「来なさい、祝福された者たち……そして世の創造からあなたがたに備えられた御国を相続しなさい。なぜなら、あなたがたは、わたしが飢えたとき、わたしに食べるものを与え、わたしが渇いたとき、わたしに飲ませ、わたしがよそ者であったとき、わたしを迎え入れ、わたしが裸であったとき、わたしに着せ、わたしが病気であったとき、わたしを訪れ、わたしが牢にいたとき、わたしのところに来てくれたから」。その時、正しい者たちは答えました。「私たちは、いつ」このような「あなたを見ましたか?」……しかし、王は答えて、言います……「まことにあなたがたに言う、あなたがたが、わたしの兄弟の最も小さいひとりに行なったのは、わたしに行なったのである」。そして王は同じようなことを左にいる山羊に言います。彼らはこのようなことを行なわなかったので、王は言います、「のろわれた者よ、わたしから去れ、悪魔とその使いに用意された永遠の火の中へはいれ」(マタイ25・31―46)。
悔い改めにふさわしい実を結びなさい。……すでに……斧は木の根元に置かれています。それで、善い実を結ばない木はすべて、切り倒されて、火の中に投げ込まれます(ルカ3・8、9)。
イエスは言われました、
あなたがたは、わたしを、「主よ、主よ」と呼びながら、わたしの言うことを行なわないのは、何なのですか?わたしのところに来て、わたしの話を聞き、そしてそれを行なう者はすべて……岩の上に土台を据えて家を建てる人に似ています。……けれども、聞き、そして行なわない者は、土台のない土の上に家を建てる人に似ています(ルカ6・46―49)。
イエスは言われました、
わたしの母、わたしの兄弟とは、神のことばを聞き、それを行なう者です(ルカ8・21)。
その時、あなたがたは外に立ち、「主人さま……開けてください」と言って、戸をたたき始めるでしょう。しかし、(彼らに)答えて言うでしょう。「私はあなたがたを、あなたがたがどこからの者であるか知らない。……私から去りなさい、不法を行なうすべての者よ」(ルカ13・25―27)。
さばきとはこのことである。光が世に来た、しかし人々は光よりも暗やみを愛した、彼らの行ないが悪であったからである。悪を行なう者はすべて光を憎む……彼の行ないがあらわにされないように。けれども、真理を行なう者は、光にやって来る。彼の行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである(ヨハネ3・19―21)。

善を行なった者は、いのちへとよみがえり、悪を行なった者は、さばきへとよみがえります(ヨハネ5・29)。
私たちは……神が罪人の言うことは聞かれないで、だれかが神を礼拝し、そのみこころ行なうなら、その者の言うことを聞かれることを知っています(ヨハネ9・31)。

あなたがたがこれらのことを知り、それらを行なうなら、あなたがたは幸いです(ヨハネ13・17)。
わたしの戒めを持ち、それらを行なう者は、わたしを愛する者です。……わたしは彼を愛し、彼にわたし自身を現わします。(わたしは来て)彼のところに彼のもとに住まいをつくります。わたしを愛さない者は、わたしのことばを守りません(ヨハネ14・15、21―24)。
イエスは言われました、
わたしはぶどうの木……わたしの父はぶどう園の働き人です。わたしの中で実を結ばないすべての枝を、父は取り除きます。けれども、実を結ぶすべての枝は、もっと実を結ぶために刈り込まれます(ヨハネ 15・1、2)。
あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子とされることの中に、わたしの父の栄光があります(ヨハネ15・8)
わたしがあなたがたに命じることを何であれ、あなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。……わたしがあなたがたを選びました……あなたがたが実を結び、あなたがたの実が残るためです(ヨハネ15・14、16)。
主はヨハネに言われました、
エペソの教会の御使いに書け……「わたしはあなたの行ないを知っている……わたしはあなたに対して持っている、あなたが最初の仁愛から立ち去っていることである。……悔い改めよ、そして最初の行ないをなせ。けれどもそうでないなら……わたしはあなたの燭台をその場所から動かす」(黙示録2・1、2、4、5)。
スミルナの教会の御使いに書け……「わたしはあなたの行ないを知っている」(黙示録2・8、9)。
ペルガモの教会の御使いに書け、「わたしはあなたの行ないを知っている。悔い改めよ」(黙示録2・12、16)。
テアテラの教会の御使いに書け……「わたしはあなたの行ないと仁愛を……また、あなたの後の行ないが最初のものよりもさらに多いことを知っている」(黙示録2・18、19)。
サルデスの教会の御使いに書け……「わたしはあなたの行ないを知っている。あなたは生きているという名前を持つが、しかし死んでいる。……わたしはあなたの行ないが神の前に完全でないのを見た……悔い改めよ」(黙示録3・1―3)。
フィラデルフィアの教会の御使いに書け……「わたしはあなたの行ないを知っている」(黙示録3・7、8)。
ラオデキアの教会の御使いに書け……「わたしはあなたの行ないを知っている……悔い改めよ」(黙示録3・14、15、19)。
私は天から下る声を聞いた。「書け、『今から主にあって死ぬ死者は幸いである』」。……御霊は言った。「彼らはその労苦から休む、彼らの行ないは彼らについて行く」(黙示録14・13)。
書物が開かれた、それはいのちの書である。死者は、その書物に書かれたことにしたがって、彼らの行ないにしたがって、さばかれた(黙示録20・12、13)。
見よ、わたしはすぐに来る。それぞれの者に、その行ないにしたがって与えるために、わたしの報酬はわたしとともにある(黙示録22・12)。

同様に旧約聖書の中に――

彼らにその行ないにしたがって、その手の行為にしたがって報いよ(エレミヤ25・14)。
エホバ、「その目は人間のすべての道の上に開かれている。人それぞれにその道にしたがって、その行ないの実にしたがって与えるために」(エレミヤ32・19)。
わたしは彼らの道を訪れ、彼らの行ないにしたがって、わたしは報いる(ホセア4・9)。
エホバは……私たちの道と行ないにしたがって、私たちに行なわれる(ゼカリヤ1・6)。

そして、法令・命令・律法が行なわれなければならないとする多くの箇所に。例えば、

あなたがたはわたしの法令(おきて)を守らなければならない。人がそれを行なうなら、それによって生きる(レビ記18・5)。
あなたがたは、わたしのすべての法令(おきて)と、わたしの判決を守り、それらを行なわなければならない(レビ記19・37、20・8、22・31)。
戒めを行なうなら祝福があり、行なわないなら、呪いがある(レビ記26・4―46)。
イスラエルの子らは、自分の着物のすその上にふさ飾りをつけるよう命じられた。エホバのすべての戒めを思い出し、それらを行なうためである(民数記15・38、39)。

また他の多くの箇所に。
行ないが教会の人間をつくるものであり、それにしたがって救われることは、主はたとえの中でもまた教えられています。それらの多くのものは、善を行なう者が受け入れられ、悪を行なう者が拒絶されることを意味しています。
例えば、たとえの中に

ブドウ園の農夫(マタイ21・33―44)。
実を与えなかったイチジクの木(ルカ13・6―9)。
商売のもとでであったタラントとミナ(マタイ25・14―31、ルカ19・13―25)。
強盗により傷つけられた者の傷にほうたいをしたサマリア人(ルカ10・30―37)。
富んでいる者とラザロ(ルカ16・19―31)。
十人の娘(マタイ25・1―12)。

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002◀︎目次▶︎004

3 宗教をもつすべての者は、善く生きる者は救われ、悪く生きる者は断罪されることを知り、認めていますが、それは、みことばから、神がおられ、天界と地獄があり、また死後の生活があることを知っている人間と天界との結合からです――ここから、その全般的な知覚があります。
それゆえ、キリスト教界の中で広く受け入れられた三一性に関するアタナシウスの信仰の教えの中に、その最後に言われている次のこともまた、普遍的に受け入れられています――すなわち、

私たちの救いのために苦しまれたイエス・キリストは、天に上り、全能の父の右に座られた。そこから、生きている者と死んでいる者を裁くためにやって来られ、その時、善を行なった者は永遠のいのちに、悪を行なった者は永遠の火に入る。

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003◀︎目次▶︎005

4 それでも、キリスト教会の中で多くの者が、「信仰のみが救い、何らかの生活の善または善の働きは救わない」と教えています。これらの者は、「信仰のみによって義とされる者は神の中にまた恵みの中にいるので、生活の悪または悪の働きによっては断罪されない」と付け加えます。
しかし奇妙なことに、それでも彼らが善く生きる者は救われ、悪く生きる者は断罪されるというようなことを教え、認めています。このことは天界からの全般的な知覚から生じています。
それでも認めることは、イギリスと同様に、ドイツ・スウェーデン・デンマークでも、教会の中で、聖餐に臨む会衆の前で読まれる祈りから明らかです。
信仰のみを教える者がそれらの国々の中にいることは、よく知られています。
イギリスで、聖餐に臨む会衆の前で読まれる祈りは、次のものです――

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004◀︎目次▶︎006

5 “The way and means to be received as worthy partakers of that Holy Table, is, first, to examine your lives and conversations by the rule of God’s commandments, and whereinsoever ye shall perceive yourselves to have offended, either by will, word or deed, there to bewail your own sinfulness, and to confess yourselves to Almighty God, with full purpose of amendment of life; and if ye shall perceive your offences to be such as are not only against God, but also against your neighbors, then ye shall reconcile yourselves unto them, being ready to make restitution and satisfaction according to the utmost of your powers, for all injuries and wrongs done by you to any other, and being likewise ready to forgive others that have offended you, as ye would have forgiveness of your offences at God’s hand, for otherwise the receiving of the Holy Communion doth nothing else but increase your damnation. Therefore if any of you be a blasphemer of God, a hinderer or slanderer of His Word, an adulterer, or be in malice or envy, or in any other grievous crime, repent you of your sins, or else come not to that Holy Table; lest after the taking of that Holy Sacrament the Devil enter into you, as he entered into Judas, and fill you full of all iniquities, and bring you to destruction both of body and soul.”

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005◀︎目次▶︎007

6 これらはラテン語で次のものです――

聖餐をあずかるのにふさわしい者となるための方法であり、手段であるものは――
最初のものは、神の戒めを基準として、自分の生活の行為と交際を調べることである。意志または話しあるいは行動のどんなものの中であれ、違反していることに気づくなら、その時、自分の性質の欠点を悔やんで、生活を改善しようとする十分な意図とともに、それを全能の神の前に告白をしなければならない。
また、神に反しているだけでなく、隣人にもまた反しているような罪に気づいたなら、その時、彼と和解し、自分の力のかぎり、すぐにも他の者に行なった損害と悪のためのつぐないと謝罪をしなくてはならない。同様に、自分の罪が神から赦されることを望むように、すぐにも他の者に罪を赦すようにしなければならない――さもないと、聖餐を受けることは断罪を重くすることにしかならない。
それゆえ、もしあなたがたのだれかが神を冒涜する、その方のみことばをそしるか侮辱する、または姦淫する、あるいは悪意またはねたみの中に、または何らかの他の憎むべき罪悪の中にいるなら、罪からの悔い改めを行なえ。そうしないなら、聖餐に近づいてはならない。さもないと、聖餐を受けた後、悪魔がユダに入ったように、あなたの中に入ってきて、あなたをすべての不法で満たし、身体と霊魂を滅ぼすであろう。

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006◀︎目次▶︎008

7 これは霊界で行なわれたことですが、信仰のみを言明し、説教したイギリスのある聖職者たちに、「教会でそれらの祈りが朗読される時、その中に信仰の言葉は出てこないが、そのようであると信じたのかどうか」と質問することが与えられました。例えば、もし悪を行ない、悔い改めを行わないなら、悪魔がユダの中に入ったように、彼の中に入り、彼の身体と霊魂を滅ぼすことです。
彼らは、「祈りが朗読されたとき、それらは宗教そのものであるとしか知らず、他に考えることもない状態の中にいた。しかし自分の説教あるいは教えを作り、それを仕上げているとき、信仰が救いの唯一の手段であり、生活の善は公共の善のための付加的な道徳であると考えたので、同じようには考えなかった」と言いました。
しかしそれでも、彼らにもまた、善く生きた者は救われ、悪く生きた者は断罪されるという共通の知覚があり、そして彼らにこの知覚があるのは、彼らが自分自身のプロプリウムの中にいない時であることが確信されました。

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007◀︎目次▶︎009

8 すべての宗教が生活のものであることは、死後、だれもが自分自身の生活(いのち)であるからです。というのは、世でその者にあったのと同じ生活(いのち)にとどまり、変わらないからです。悪の生活が善い生活に、また善い生活が悪い生活に、変えられることは、対立しているのでできません、対立したものへ変化することは消滅であるからです――それゆえ、対立しているので、善い生活はいのち(生活)と呼ばれ、悪い生活は死と呼ばれます。
ここから、宗教は生活のものであり、そしてその生活は善を行なうことです。
死後、人間が世で彼の生活(いのち)があったように存在することは、著作『天界と地獄』の中に見られます(470―484番)。

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008◀︎目次▶︎010

9 善が自分自身から行なわれたものか、あるいは神から行なわれたものか、これまでほとんどだれも知らなかったことの理由は、教会が信仰を仁愛から分離してしまったからです。善は仁愛のものです。
人間は、貧しい者に与え、乏しい者を助け、礼拝所や〔巡礼や参拝者のための〕宿泊所に捧げものをし、教会・祖国・仲間を思いやり、まめに礼拝所を訪れ、その時、敬虔に聞き、祈り、みことばや信心書を読み、救いについて考えますが、それらを自分自身からあるいは神から行なっているのか、知りません。
同じことを、神から行なうことができ、自分自身から行なうことができます。それらが神から行なわれるなら、善です。自分自身から行なわれるなら、善ではありません。
それどころか、はっきりとした悪であるのに、自分自身からの善に似たものが存在します。例えば、偽善的な善であり、それは欺き、ごまかすものです。

 

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009◀︎目次▶︎011

10 神からの善と自分自身からの善は、金にたとえられることができます。
最内部からの金、混ぜ物のない金と呼ばれる金は、よい金です。銀を混ぜた金もまた金ですが、しかし混合〔の割合〕にしたがってよいものです。けれども、銅を混ぜた金はあまりよいものではありません。
しかし、模造の金は、色は金に似ていますが、よいものではありません。というのは、その中に金の物質がないからです。
さらにまた、金箔を被(かぶ)せた銀・銅・鉄・錫・鉛、さらに金箔を被せた木や金箔を被せた石のような金も存在し、それらは表面的に金のように見せることができます。しかし金ではないので、それらは技巧にしたがって、あるいは金箔を被せられたものの価値にしたがって、あるいは削り落とすことができる金の価値にしたがって、評価されます。
これらは、衣服が人間と異なるように、金そのもののよさと異なっています。
さらにまた、腐った木やかなくそ、それどころか、糞にも、金を着せることができます。この金が、パリサイ人の善にたとえられることのできるものです。

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010◀︎目次▶︎012

11 人間は、物質の中の金がよいものか、混ぜ物や偽物か、また装った物かどうか、知識から知ります。しかし行なわれる善が本質的に善であるか、知識からは知りません――ただ、神からの善は善であり、人間からの善は善でないことだけを知っています。
それゆえ、救われるために、行なわれる善が神からなのか、あるいは神からではないのか知ることは重要であるので、それゆえ、〔このことを〕示さなければなりません。しかし示す前に、善についていくらか述べておきます。

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011◀︎目次▶︎013

12 市民的な善・道徳的な善・霊的な善が存在します。
市民的な善は、人間が市民の法律から行なうものです。その善によって、またそれにしたがって、人間は自然界の中の市民です。
道徳的な善は、人間が理性的な法則から行なうものです。その善によって、またそれにしたがって、彼は人間です。
霊的な善は、人間は霊的な法から行なうものです。その善によって、またそれにしたがって、人間は霊界の市民です。
これらの善は次の順序で続いています――霊的な善が最も高いところに、道徳的な善が中間に、市民的な善が最も低いところにあります。

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012◀︎目次▶︎014

13 霊的な善がある人間は、道徳的な人であり、そしてまた市民的な人です。しかし、霊的な善がない人間は、道徳的で市民的な人のように見えますが、それでもそうではありません。
霊的な善がある人間が道徳的で市民的な人であるのは、霊的な善が、それ自体の中に善の本質をもち、道徳的で市民的な善は、この霊的な善からのものであるからです。
善の本質は、善そのものであられる方以外の他の源泉から存在することはできません。
思考をあらゆる方向へ広め、心を傾注し、そして善はどこから善であるのか捜し求めなさい。すると、あなたは、そのエッセ(存在)からであること、そして、本質的に善のエッセ(存在)を持つものが善であること、その結果として、善そのもの、そのように神からであるものが善であること、したがって、神からでなくて人間からの善は、善ではないことを知るでしょう。

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013◀︎目次▶︎015

14『聖書についての教え』(272838番)に述べられていることから、最も高いもの・中間のもの・最も低い(最後の)ものは、目的・原因・結果のように一つになっていること、そして一つとなっているので、目的そのものは最初の目的、原因は中間の目的、結果は最も低い(最後の)目的と呼ばれることを知ることができます。
ここから、霊的な善がある人間のもとでは、道徳的な善はその者の中間の霊的な善であり、市民的な善は最も低い(最後の)霊的な善であることが明らかとなります。
それでここから、霊的な善がある人間は、道徳的な人であり、市民的な人でもある、と言われます。霊的な善がない人間は、道徳的な人ではなく、市民的な人でもなく、ただそのように見えるだけです。
自分自身に、他の者にも〔そのように〕見えます。

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014◀︎目次▶︎016

15 霊的でない人間でも、霊的な人のように理性的に考え、ここから話すことができるのは、人間の理解力が真理である天界の光の中に高揚され、その光を見ることができるからです。しかし人間の意志は同じように愛である天界の熱の中へ高揚され、その熱から行なうことはできません。
ここから、霊的でないなら、人間のもとで真理と愛は一つとなりません。ここからまた、人間は話すことができます、このこともまた、人間と獣の間の違いを生んでいます。
人間が改心し、霊的になれることは、理解力が天界に高揚されることができることによっています、それでもその時、意志は高揚されません。意志もまた高揚される時に、初めて改心し、霊的になります。
意志の能力にまさる理解力の能力から、どんな種類の人間であれ、悪い者もまた、霊的であるかのように理性的に考え、ここから話すことができます。しかしそれでも理性的ではないのは、理解力が意志を導くのではなく、意志が理解力を導くからです。『聖書についての教え』(115番)に述べられているように、理解力は道を教え、示すだけです。意志が理解力と天界の中で一つとならないかぎり、人間は霊的ではなく、ここから理性的でもありません。なぜなら、自分自身の意志あるいは自分自身の愛に残される時、神・天界・永遠のいのち(生活)について自分自身の理解力からの理性的なものを投げ出し、それらに代わって、自分の意志からの愛に一致するようなものを取り入れ、それらを理性的なものと呼ぶからです。
しかしこれらは『天使の知恵』についての論文の中で見られるでしょう。

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015◀︎目次▶︎017

16 続きの中で、自分自身から善を行なう者は自然的な人と言われます。彼らのもとの道徳的なものと市民的なものは、本質的に自然的であるからです――しかし、神から善を行なう者は霊的な人と言われます。彼らのもとの道徳的なものと市民的なものは、本質的に霊的であるからです。

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016◀︎目次▶︎018

17 何らかの善である善を、だれも自分自身からは行なうことができないことを、主は「ヨハネ福音書」で教えられています――

人は天から与えられるのでなければ、何も受け取ることができません(3・27)。

また同書に、

わたしの中にとどまり、わたしもその人の中にとどまる者は、多くの実を結びます。わたしなしにあなたがたは何もすることができないからです(15・5)。

「わたしの中にとどまり、わたしもその人の中にとどまる者は、多くの実を結ぶ」は、すべての善は主からのものであることです。「実」は善です――「わたしなしにあなたがたは何もすることができない」は、だれもそれを自分自身から行なうことができないことです。

主を信じ、その方から善を行なう者は、〔次のように〕呼ばれています、
光の子たち(ヨハネ12・36、ルカ16・8)、
婚礼の子たち(マルコ2・19)
復活の子たち(ルカ20・36)、
神の子たち(ルカ20・36。ヨハネ1・2)、
神から生まれた(ヨハネ1・3)。
彼らは神を見る(マタイ5・8)、
主は彼らのもとに住まいをつくられる(ヨハネ14・23)、
神の信仰を持つ(マルコ11・22)、
彼らの行ないは神からなされる(ヨハネ3・21)。

これらのことは、次のことばの中に要約されています――

イエスは、「その方の名を信じて受け入れたと同数の者に神の子となる力を与えられた。その者は、血からでもなく、肉の意志からでもなく、人の意志からでもなく、神から生まれたのである」(ヨハネ1・12、13)
「神の子の名を信じること」は、みことばを信じ、それにしたがって生きることです。「肉の意志」は、人間の意志のプロプリウムであり、それは本質的に悪です。「血の意志」は、その理解力のプロプリウムであり、それは本質的に悪からの虚偽です。「それらから生まれた」者は、プロプリウムから意志し、行ない、そして考え、話す者です。「神から生まれた」者は、主からそれらを行なう者です――要するに、人間からのものは善ではなく、善であるものは主からのものです。

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017◀︎目次▶︎019

3)人間は悪を罪として避ければ避けるほど、それだけ自分自身からでなく、主から善を行なう

18 主が人間に入って来ることができないように、悪が妨害することを、だれが知りませんか、知ることができませんか?
というのは、悪は地獄であり、主は天界であって、地獄と天界は対立しているからです。それで、人間は一方にいればいるほど、それだけもう一方にいることはできません。というのは、一方はもう一方に対立して働き、破壊するからです。

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018◀︎目次▶︎020

19 人間は、世にいるかぎり、地獄と天界の間の真ん中にいます。下に地獄があり、上に天界があり、その時、地獄または天界へ向かう自由の中に保たれています――地獄に向かうなら、天界から背きます。けれども、天界に向かうなら、地獄から背きます。
または同じことですが、人間は、世にいるかぎり、主と悪魔の間の真ん中に立ち、そして自分自身を一方に、あるいはもう一方に向ける自由の中に保たれています――悪魔に向けるなら、主から背きます。けれども、主に向けるなら、悪魔から背きます。
または同じことですが、人間は、世にいるかぎり、悪と善の間の真ん中にいて、自分自身を一方に、あるいはもう一方に向ける自由の中に保たれています――悪に向けるなら、善から背きます。けれども、善に向けるなら、悪から背きます。

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019◀︎目次▶︎021

20 人間は自分自身をここへそこへと向ける自由の中に保たれている、と述べました。この自由は、それぞれの人間に、自分自身からあるのではなく、主からあります。それゆえ、その中に保たれる、と述べたのです。
天界と地獄の間の均衡について、人間はその中にいること、そこから自由の中にいることについては、著作『天界と地獄』の中に見られます(589―596番、597―603番)。
それぞれの人間は自由の中に保たれること、そのことはだれからも取り去られないことが、その箇所に見られます。

生活の教え

020◀︎目次▶︎022

21 これらから、人間が悪を避ければ避けるほど、それだけ主のもとに、主の中にいること、また主の中にいればいるほど、それだけ自分自身からでなく、主から善を行なうことがはっきりと明らかです。
ここから、この全般的な法則が結果として生じています――だれかが悪を避ければ避けるほど、それだけ善を行なう。

生活の教え

021◀︎目次▶︎023

22 しかし二つのものが要求されます――一つは、人間は悪を、罪であるので、すなわち、地獄のものであり悪魔のものであるので、したがって主に反し、神の律法に反するので、避けなくてはならないこと――もう一つは、人間は悪を罪として自分自身からかのように避けなくてはなりません、しかし主からであることを知り、信じなくてはならないことです。
しかし要求されるこれらのものについては、続きの章の中で述べます。

生活の教え

022◀︎目次▶︎024

23 これらから、次の三つのことが帰結されます――

(1)人間が善を意志し、行なっても、悪を罪として避ける前なら、その善は善ではない。
(2)人間が敬虔なことを考え、話しても、悪を罪として避けないなら、その敬虔は敬虔ではない。
(3)人間が多くのことを知り、賢明であっても、悪を罪として避けないなら、やはり賢明ではない。

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023◀︎目次▶︎025

24(1)人間が善を意志し、行なっても、悪を罪として避ける前なら、その善は善ではない
このことは、前に述べたように、前もって主の中にいないからです――例えば、貧しい者に与え、乏しい者に助けを行ない、礼拝所や収容所にささげ物をし、教会や祖国や市民に善を行ない、福音を教え、回心させ、裁判では公正に、取り引きでは誠実に、仕事では正直に行なっても、それでも、欺瞞・姦淫・憎悪・冒涜、また他の似たようなものを、罪としての悪は何もないとするなら、その時、内部では悪である善しか行なうことができません。というのは、それらを主から行なうのではなく、自分自身から行なうからです。そのように、それらの中に自分自身がいて、主はいません。人間自身がその中にいる善は、すべて彼の悪で汚されていて、自分自身と世を眺めています。
しかし、前に列挙されているその同じ行為を、欺瞞・姦淫・憎悪・冒涜、また他の似たようなものを、人間が〔それらの〕悪を罪として避けるなら、内的に善です――というのは、主からそれらを行ない、それらは「神において行なわれた」(ヨハネ3・19―21)と言われるからです。

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024◀︎目次▶︎026

25(2)人間が敬虔なことを考え、話しても、悪を罪として避けないなら、その敬虔は敬虔ではない
このことは、主の中にいないからです。
例えば、礼拝所をしばしば訪れ、信心深く説教を聞き、みことばや信心書を読み、聖餐の典礼に臨み、毎日、祈りを唱え、それどころか、神について、救いについて、多くのことを考えるにしても、それでも罪である悪(例えば、欺瞞・姦淫・憎悪・冒涜、また他の似たようなもの)を〔罪が〕何もないとするなら、その時、内部では敬虔でないような敬虔なものを考え、話すことしかできません。なぜなら、人間自身が自分の悪とともにそれらの中にいるからです。
確かに、その時、それらの者は知りません、しかしそれでも、その敬虔なことの内部にあり、彼の前では隠れています。というのは、水が出口から不潔である泉のようなものであるから。
彼の実践する敬虔さは、習慣からの単なる儀式、あるいは功績または偽善です――確かに、天界に向かって上ります、しかし大気中の煙のように、途中で向きを変えて、下ってしまいます。

生活の教え

025◀︎目次▶︎027

26 自分の善の働きと敬虔なことの実践を数え上げた多くの者を、死後に見、聞くことが与えられました。その数え上げたものは、ここに記されたもの(24、25番)、またさらに多くのものです。
私は、彼らの中に、油のない明かりを持っている者もまた見ました。
しかし、彼らは悪を罪として避けたかどうか質問され、避けなかったことがわかりました。それゆえ、悪い者である、と言われました。
その後、さらにまた、私は、彼らが似たような悪い者がいる洞穴に入って行くのを見ました。

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026◀︎目次▶︎028

27(3)人間が多くのことを知り、賢明であっても、悪を罪として避けないなら、やはり賢明ではない
このことは、前のものと同様に、自分自身から賢明であり、主から賢明ではないという理由からです。
例えば、自分の教会の教えを、そのすべてを正確に知っても、それらをみことばによって、また推論によって確信することを知っても、数世紀にわたる教会のすべての教えを、それとともに教会会議のすべての布告を知っても、それどころか、真理を知り、さらにまたそれらを認め、理解しても、例えば、信仰とは何か、仁愛・敬虔・悔い改めと罪の許し・再生・洗礼と聖餐・主、そしてあがないと救いとは何かを知っても、それでも、その者は、悪を罪として避けないなら、賢明ではありません――というのは、生活なしの思考であり、単なる理解力のものであって、同時に意志のものではないからです。それらは、前に述べた理由から(15番)、時が経つにつれて滅びるようなものです。死後、その人間自身もまた、彼の意志の愛に一致しないので、それらを追い払います。
しかしそれでも、それらの認識は、人間がどのように行なうべきか教えるので、最も必要なものです。それらを行なうとき、彼のもとで生きたものとなり、それ以前ではありません。

生活の教え

027◀︎目次▶︎029

28 これまで述べられたすべてのことは、みことばの多くの箇所で教えられています。それらから次のものだけを示します。
みことばには、だれも善の中にいると同時に悪の中にいることができないこと、または同じことですが、だれも霊魂に関して天界の中にいると同時に地獄の中にいることができないことが教えられています。
このことが次のものの中で教えられています――

だれもふたりの主人に仕えることはできません。なぜなら、一方に憎しみを抱き、もう一方を愛するか、または一方に結びつき、もう一方を侮るからです。あなたがたは神とマモン(富)に仕えることはできません(マタイ6・24)。
悪い者であるのに、どのようにしてあなたがたは善いことを話すことができるのですか?……心に満ちるものから、口で話します。善い人は心の善い宝庫から善いものを出し、悪い人は悪い宝庫から悪いものを出します(マタイ12・34、35)。
善い木は悪い実を結びません、悪い木も善い実を結びません。すべての木はそれ自体の実から知られます。なぜなら、いばらからいちじくを集めませんし、いばらのやぶからもぶどうを収穫しないからです(ルカ6・43、44)。

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028◀︎目次▶︎030

29 みことばには、だれも自分自身からは善を行なうことができず、主からであることが教えられています。
イエスは言われました、

わたしは……ぶどうの木であり、わたしの父はぶどう園の働き人です。わたしの中で実を結ばないすべての枝を、彼はそれを取り除きます。けれども、実を結ぶすべて〔の枝〕を、もっと多くの実を結ぶように、それを剪定します。わたしにとどまりなさい、わたしもまたあなたがたの中にとどまります。ぶどうの木にとどまらないなら、枝がそれ自体から実を結ぶことができないように、あなたがたがわたしにとどまらないなら、あなたがたもそのようです。わたしはぶどうの木であり、あなたがたは枝です。わたしにとどまる者は、わたしもその人の中にとどまり、この者は多くの実を結びます。わたしなしに、あなたがたは何もすることができないからです。だれかがわたしにとどまらないなら、枝のように外へ投げ出され、枯れ、〔人々は〕それを集め、火の中へ投げ入れ、〔それは〕焼かれます(ヨハネ15・1―6)。

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029◀︎目次▶︎031

30 みことばには、人間は悪から清められていないかぎり、その善は善ではなく、その敬虔も敬虔ではなく、賢明でもなく、その逆も教えられています。これらの中に――

あなたがたにわざわいあれ、律法学者たちとパリサイ人たち、偽善者たちよ。あなたがたは自分たちを白く塗りたてる墓に似せるからです。それは確かに外側では白く見えます、けれども、内部は死人の骨とあらゆる不潔でいっぱいです――あなたがたもまた外側では確かに正しい者に見えます、けれども、内部は偽善と不法でいっぱいです。あなたがたにわざわいあれ……あなたがたは杯と皿の外側をきよめます、けれども、内側は強奪と不摂生でいっぱいです。パリサイ人よ、盲目の者よ。最初に杯と皿の内側をきよめなさい、外側もまた清潔になるために(マタイ23・25―28)。

なおまた「イザヤ書」の次のものから、

エホバのことばを聞け、ソドムの首領たち。私たちの神の律法に耳を傾けよ、ゴモラの民。あなたがたのいけにえの多くは、わたしにとって何なのか?……むなしい穀物のささげ物を携え加えるな。香をたくことは、わたしに忌まわしいものである、新月の祭りと安息日も……わたしは不法……に耐えることができない。新月の祭り……とあなたがたの例祭を、わたしの心は憎む……。そこで、あなたがたが手を伸ばす時、わたしの目をあなたがたから隠す。そしてまた、あなたがたが祈りを増し加えても、わたしは聞くことがない。あなたがたの手は血でいっぱいである。あなたがたを洗え、あなたがたをきよめよ、わたしの目の前からあなたがたの働きの悪を取り除け。悪を行なうことをやめよ。……たとい、あなたがたの罪が緋色のようでも、雪のように白くなる。たとい赤くても……羊毛のようになる(イザヤ1・10―18)。

これらを要約すると、人間が悪を避けないなら、すべての彼の礼拝は、同様にすべての彼の働きも善ではないということです。なぜなら、「わたしは不法に耐えることができない」「あなたがたをきよめよ、あなたがたの働きの悪を取り除け、悪を行なうことをやめよ」と言われているからです。
「エレミヤ書」には、「それぞれの者は自分の悪の道から立ち返れ、あなたがたの働きを善へと戻せ」(35・15)とあります。

[3]その者が賢明でもないことは――「イザヤ書」に、

自分自身の目に賢明な者に、自分自身の顔の前に知性のある者に、わざわいあれ(5・21)。

同書に、

知恵ある者の知恵は……知性ある者の知性は滅びる。深く賢明である者に、わざわいあれ……彼は働きを暗やみの中で行なう(29・14、15)。

また同書の他の箇所に、

助けのためにエジプトに下る者に、わざわいあれ。彼らは馬にたより、戦車が多いことに、強い騎手に信頼する……しかしイスラエルの聖なる方に目を向けず、エホバを求めない。しかし主は、悪意のある家に対して、不法の行ないの助けに対して起き上がられる。なぜなら、エジプトは〔人間であって〕神ではなく、その馬は肉であって霊ではないから(31・1―3)。

このようにプロプリウムからの知性が記述されています。
「エジプト」は知識です。「馬」はそこからの理解力です。「戦車」はそこからの教えです。「騎手」はそこからの知性です。それらについては、「彼らにわざわいあれ。イスラエルの聖なる方に目を向けず、エホバを求めない者」と言われています――悪によって彼らが滅ぼされることは、「主は、悪意のある家に対して、そして不法の行ないの助けに対して起き上がられる」によって意味されます――これらはプロプリウムからであり、それゆえ、それらの中に、いのちがないことは、「エジプトは人間であって神ではない」こと、それと「その馬は肉であって霊ではない」ことによって意味されます。「人間」「肉」は人間のプロプリウムであり、「神」「霊」は神からのいのちであり、「エジプトの馬」はプロプリウムからの知性です。
みことばの中には、自分自身からの知性について、主からの知性についてといったようなものが多くありますが、それらは霊的な意味によってだけ明らかとなります。
[3]自分自身からの善によっては、それは善ではないので、だれも救われないことが次のことから明らかです――

わたしに、「主よ、主よ」と言う者がすべて天の御国に入るのではなく……わたしの父の意志を行なう者が入ります。その日には、多くの者がわたしに言います。「主よ、主よ、私たちはあなたの名前によって預言しました。またあなたの名前によって悪霊を追い出しました。またあなたの名前の中に多くの力あるわざを行なったではありませんか?」 しかしその時、わたしは彼らに宣言します。「わたしはあなたがたを知らない。わたしから立ち去れ、不法を行なう者よ」(マタイ7・21―23)。

また、他の箇所に、

その時、あなたがたは外に立ち、戸をたたき始めます。「主よ……私たちに、開けてください」と言って。……言い始めます。「私たちはあなたの前で食べ、飲み、そして私たちの街路であなたは教えてくださった」。しかし言います。「わたしはあなたがたに言う。わたしはあなたがたがどこからであるのか知らない。わたしから立ち去れ、不法を行なうすべての者よ」(ルカ13・25―27)。

というのは、次のパリサイ人に似ているからです、

その者は神殿に立ち、祈って、「私は他の人間のように、強奪する者、不正な者、姦淫する者ではなく、週に二度断食し、また所有したすべてのものの十分の一を与えました」と言いました(ルカ18・11―14)。

さらにまた彼らは、「役に立たないしもべ」(ルカ17・10)と呼ばれている者です。

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030◀︎目次▶︎032

31 人間は自分自身からでは〔真に〕善である善を行なうことが決してできません、これが真理です――しかしその真理によって、悪を罪として避ける者が行なう仁愛のすべての善を破壊してしまうことは憎むべきものです。というのは、人間が行なわなくてはならないと命じているみことばと正反対のものであり、神への愛と隣人に対する愛の戒めに反していて、律法と預言者はそれらの戒めの命令〔を守ること〕によっていますが、宗教のすべてを侮辱し、追い出すものであるからです。というのは、だれもが、宗教は善を行なうこと、そしてそれぞれの者が行為にしたがって裁かれることを知っているから。
すべての人間は、主に力を切願するなら、その力により悪を自分自身からかのように避けることができるような者です。その後に行なうものは、主からの善です。

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031◀︎目次▶︎033

(4)だれかが悪を罪として避ければ避けるほど、それだけ真理を愛する

32 主から発出する二つの普遍的なもの、神的善と神的真理があります。神的善はその方の神的愛からのものであり、神的真理はその方の神的知恵からのものです。
これら二つのものは主の中で一つであり、それでその方から一つのものとして発出します。しかし天界の天使また地上の人間によっては、一つのものとして受け入れられません。
神的善よりも神的真理から多く受け入れる天使と人間たちがいます、また神的真理よりも神的善から多く受け入れる天使と人間たちがいます。
ここから、天界は二つの王国に区別されていて、その一つは天的な王国、もう一つは霊的な王国と呼ばれます――神的善から多く受け入れる天界は天的な王国を構成します。けれども、神的真理から多く受け入れる天界は霊的な王国を構成します。
天界がこれら二つの王国に分けられていることついては、著作『天界と地獄』に見られます(20―28番)。
しかしそれでも、すべての天界の天使は彼らのもとで善が真理と一つになればなるほど、それだけ知恵と知性の中にいます。真理と一つとならない善は、彼らにとって善ではありません。また逆に、善と一つとならない真理は、彼らにとって真理ではありません。
ここから、真理と結合した善が、天使と人間たちのもとに愛と知恵をつくることが明らかです。また、天使は彼のもとの愛と知恵から天使であり、人間も同様であるので、真理と結合した善が天使を天界の天使であるようにすること、人間を教会の人間であるようにすることが明らかです。

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032◀︎目次▶︎034

33 善と真理は主の中で一つであり、そして一つのものとしてその方から発出するので、善は真理を愛し、真理は善を愛し、そして一つであることを欲することがいえます。
それらの反対のものも同様です。悪は虚偽を、虚偽は悪を愛し、そして一つであることを欲することです。
続きの中で、善と真理の結合は天界の結婚と呼ばれ、悪と虚偽の結合は地獄の結婚と呼ばれます。

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033◀︎目次▶︎035

34 だれかが悪を罪として避ければ避けるほど、それだけ真理を愛することは、これらの結果です。というのは、直前の章の中に示されたように、それだけ善の中にいるからです。
なおまた逆に、だれかが悪を罪として避けなければ避けないほど、それだけ善の中にいないので、それだけ真理を愛しません。

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034◀︎目次▶︎036

35 確かに、悪を罪として避けない人間も真理を愛することができます。しかし真理であるから愛するのではなく、名声に役立ち、名声から彼に名誉と利益があるので、真理を愛するのです。それゆえ、役立たないなら、愛しません。

生活の教え

035◀︎目次▶︎037

36 善は意志のものであり、真理は理解力のものです。
意志の中の善への愛から理解力の中の真理への愛が発出し、真理への愛から真理の知覚が、真理の知覚から真理への思考が発出しています。それらから真理の承認があり、それが本来の意味での信仰です。
これらが善への愛から信仰へ進むことであることは、『神的愛と神的知恵』についての論文の中で示されるでしょう。

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036◀︎目次▶︎038

37 すでに言われたように、善は真理と結合しないなら善ではないので、その結果として、善は〔その結合〕以前に存在しません。それでも絶えず存在することを欲し、それゆえ、存在するために真理を望み、獲得します。善は、真理から滋養物を得て、形成されます。
このことが、だれかが善の中にいればいるほど、したがって、だれかが悪を罪として避ければ避けるほど、それだけ真理を愛する理由です。なぜなら、それだけ善の中にいるからです。

生活の教え

037◀︎目次▶︎039

38 主は善と真理そのものであられるので、だれかが善の中にいて、善から真理を愛せば愛すほど、それだけ主を愛します――そこで、主は人間のもとの善と真理の中に存在されます。真理が善から愛されるなら、その時、主は愛され、そうでなければ愛されることはありません。
主はこのことを「ヨハネ福音書」で教えられています、

わたしの戒めを保ち、行なう者は、わたしを愛する者です。……わたしを愛さない者は、わたしのことばを守りません(14・21、24)。

また、他の箇所に、

もし、あなたがたがわたしの戒め(命令)を守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまります(ヨハネ15・10)。

主の「戒め」「ことば」「命令」とは真理です。

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038◀︎目次▶︎040

39 善が真理を愛することは、祭司・兵士・商人・職人と比較することによって明らかにすることができます。
祭司の場合――彼が、霊魂の救いに供すること、天界への道を教えること、そして教えた者を導くことである祭司職の善の中にいるなら、その善の中にいるかぎり、愛とその願いから、教えるべき真理を、それによって導く真理を獲得します――けれども、祭司職の善の中にいないで、自己愛と世俗愛から自分の職務の楽しみの中にいて、そのことだけが〔自分にとって〕善である祭司もまた、愛とその願いから、彼の善である楽しさを吹き込まれるにしたがって、豊かに、自分自身に真理を獲得します。
兵士の場合――軍務の愛の中にいて〔祖国を〕護ることまたは名声に善を感じるなら、彼はその善から、またそれにしたがって、知識を、士官なら、知性を自分自身に獲得します――これらは彼の善である愛の楽しさが養われ、形成されるような真理です。
商人の場合――愛から商売に専心したなら、彼は快さとともにその愛を入れ、作り上げるすべてものを手段として吸収します――これらのものもまた商売が彼の善であるとき、真理のようです。
職人の場合――自分の働きに熱心に励み、それを自分の生活の善のように愛するなら、彼は道具を買い、またその知識のようなものによって、自分自身を理想へと近づけ、これらによって自分の働きを善であるようにします。
これらから、真理は愛の善が存在し、何らかのものになるための手段であること、したがって、善は〔それ自体が〕存在するようになるために真理を愛することが明らかです。
ここから、みことばの中で「真理を行なうこと」によって、善が存在するようになるために行なうことが意味されます。
このことが、
真理を行なうこと(ヨハネ3・21)、
主のことばを行なうこと(ルカ6・47)、
その方の戒めを行なうこと(ヨハネ14・24)、
その方のことばを行なうこと(マタイ7・24)、
神のことばを行なうこと(ルカ8・21)、
法令と審判を行なうこと(レビ記18・5)によって意味されます。

このこともまた「善」を行なうことと「実」を結ぶことです。なぜなら、善と実は存在するようになるものであるからです。

生活の教え

039◀︎目次▶︎041

40 善が真理を愛し、それと結合されることを欲することは、食物と水、またはパンとブドウ酒と比較することによってもまた明らかにすることができます――両方のものがなくてはなりません。食物またはパンだけでは、身体の中で何も滋養物となりません。水またはブドウ酒と一緒でなくてはなりません。それゆえ、一方はもう一方を欲し、望みます。
みことばの中でもまた、「食物」と「パン」によってその霊的な意味で、善が意味され、「水」と「ぶどう酒」によって真理が意味されます。

生活の教え

040◀︎目次▶︎042

41 述べられたことから、今や、悪を罪として避ける者は、真理を愛し、望むことを明らかにすることができます。そして多く避けるほど、ますます多くの善の中にいるので、ますます多く愛し、望みます。
ここから善と真理の結婚である天界の結婚の中にやって来ます。それはその中に天界が存在し、教会が存在しなくてはならないものです。

生活の教え

041◀︎目次▶︎043

(5)だれかが悪を罪として避ければ避けるほど、それだけ信仰を持ち、霊的である

42 信仰と生活は、考えることと行なうことのように、互いに区別されます。考えることは理解力のものであり、行なうことは意志のものあるので、信仰と生活の間には、理解力と意志の間のような区別があることがいえます――理解力と意志の区別を知る者は、信仰と生活の区別もまた知ります。そして理解力と意志の結合を知る者は、信仰と生活の結合もまた知ります。
それゆえ、理解力と意志について何らかのものを前もって述べておきます。

生活の教え

042◀︎目次▶︎044

43 人間に二つの能力があり、その一つは意志、もう一つは理解力と呼ばれます。
それらは互いに区別あるものですが、一つであるように創造されています。一つであるとき、心と呼ばれます。それゆえ、人間の心は意志と理解力であり、人間のすべてのいのち(生活)はそこにあります。
神的な秩序にしたがっている全世界の中のすべてのものは善と真理に関係するように、人間のもとのすべてのものは意志と理解力に関係します。なぜなら、人間のもとの善は意志に属し、人間のもとの真理は理解力に属すからです。というのは、これら二つの能力は善と真理の容器と主体であるから。意志は善のすべてのものの容器と主体であり、理解力は真理のすべてのものの容器と主体です。
人間のもとの善と真理は他のところに存在しません。そのように愛と信仰は他のところに存在しません、愛は善のもの、善は愛のものであり、そして信仰は真理のもの、真理は信仰のものであるからです。
[2]意志と理解力がどのように一つの心となっているか知ることよりも重要なものは何もありません。
善と真理が一つとなっているように一つの心となっています。というのは、善と真理の間にあるような結婚に似たものものが意志と理解力の間にもあるからです。
この結婚がどのようなものであるかは、前の章の中でいくらか言われています。このことに付け加えます、善がものごとのエッセ(存在)そのものであり、真理がそこからのものごとのエキシステレ(実在)であるように、人間のもとの意志はその生活のエッセ(存在)そのものであり、理解力はそこからの生活のエキシステレ(実在)であることです――なぜなら、意志のものである善は、それ自体を理解力の中で形成し、確定した方法でそれ自体を見えるようにするからです。

生活の教え

043◀︎目次▶︎045

44 人間は多くのことを知り、考え、理解することができても、賢明であることができないことは、前に示しました(27、28番)。そしてそのようであると知り、考え、さらに理解することは、信仰のものなので、人間は〔そのことで〕信仰を持っていると信じることができますが、それでも〔信仰を〕持っていません。
持っていない理由は、生活の悪の中にいるからです。そして生活の悪と信仰の真理は決して一つとして働くことができません。
生活の悪は信仰の真理を破壊します。生活の悪は意志のものであり、信仰の真理は理解力のものであり、意志は理解力を導き、それ自体と一つになって働くようにするからです。それゆえ、理解力の中に意志と一致しない何かがあるなら、人間が自分自身のままに残され、自分自身の悪とその愛から考える時、理解力の中にある真理は、追い出されるか、あるいは虚偽化されることによって一つのものとして考えられてしまいます。
生活の善の中にいる者のもとでは異なります。この者は自分自身のままに残されるとき、理解力の中にある真理を、善から考え、一致するので、愛します。
したがって、真理と善の結合のように、信仰と生活の結合が生じ、それら二つの結合は理解力と意志の結合のようです。

生活の教え

044◀︎目次▶︎046

45 そこで、これらから、人間が悪を罪として避けるかぎり信仰を持つことがいえます。前に示されたように、そのような善の中にいるからです。
このことはその正反対のことからもまた説明されます。それは悪を罪として避けない者は、悪の中にいて悪は内面的に真理を憎むので、信仰を持たないことです。確かに外面的には、〔真理の〕友として行動し、〔真理を〕理解力の中にあるものとして大目に見ること、それどころか愛することもできます。しかし、死後に起こることですが、外面的なものが取り去られた時、最初に、世で自分の友であった真理を追い出し、その後、真理であることを否定し、最後には憎みます。

生活の教え

045◀︎目次▶︎047

46 悪い人の信仰は知的な信仰であり、そこに意志からの善は何も存在しません――そのように、死んだ信仰であり、それは心臓からの魂がない肺の呼吸のようです。さらにまた、理解力は肺に、意志は心臓に対応します。
そしてまた、紫色と金色の服を着て、美しくても、内部は悪性の肺病でいっぱいな娼婦のようです。娼婦もまた真理の虚偽化に対応し、ここから、みことばの中ではそのことを意味します。
さらにまた、葉は茂っていても、実を与えない木のようであり、庭師はそれを切り倒します。「木」は人間を、その「葉」と「花」は信仰の真理を、「実」は愛の善を意味します。
けれども、理解力の中の信仰は別ものであって、それには意志からの善が内在します――この信仰は生きています。心臓からの魂がある(=生きいきとされた)肺の呼吸のようです。夫にとって貞節から愛らしく美しい妻のようです。実のなる木のようです。

生活の教え

046◀︎目次▶︎048

47 単に信仰のものであるように見える多くのものがあります。例えば、神が存在する、主はあがない主と救い主である神であられる、天界と地獄が存在する、死後の生活が存在することです。他にも多くのことがありますが、それらは行なうべきこととは言われません、しかし信じるべきこととされています。
これらの信仰もまた悪の中にいる人間のもとで死んでいますが、善の中にいる人間のもとで生きています。
その理由は、善の中にいる人間は意志から善く行動するだけでなく、理解力からもまた善く考え、世の前だけでなく、ひとりであるとき自分自身の前でもそうするからです――悪の中にいる者は異なります。

生活の教え

047◀︎目次▶︎049

48 単に信仰のものであるように見える、と言いました。しかし理解力の思考は、前に言われたように(43番)、それ自体のエキシステレ(実在)を理解力の中の思考のエッセ(存在)である意志の愛から得ています――というのは、何であれ愛から欲するものは、これを行ない、考え、理解し、話すことを欲するから。あるいは同じことですが、何であれ意志から愛するものは、これを行ない、考え、理解し、話すことを愛するからです。
このことに、人間は悪を罪として避ける時、前に示されたように、彼は主の中にいて、主がすべてのことを行なわれることを追加しておきます――それゆえ、主は、神の業を行なうために、何をしたらよいか質問する者に言われました、

あなたがたが、神が遣わされた方を信じること、これが神のわざです(ヨハネ6・28、29)。

「主を信じること」は、他のところで教えられているように、その方が存在する、と考えるだけではなく、その方のことばを行なうことです。

生活の教え

048◀︎目次▶︎050

49 悪の中にいる者は、どれほど自分自身は持っていると思っていても信仰を持たないことが、霊界の中のこのような者によって示されました――彼らは天界の社会の中へ導かれ、それで、そこへ導かれた者の信仰の内的なものの中へ天使の信仰の霊的なものが入りました。このことから、天使は、彼らに信仰の自然的なものまたは外なるものだけがあり、信仰の霊的なものまたは内なるものがないことを知覚しました――それゆえ、彼ら自身も、「まったく信仰を持っていない」ことを、また、「どんな理由からであっても、そのようであると考えることが信じることあるいは信仰を持つことである、と世で自分自身に確信した」ことを告白しました。
しかし悪の中にいなかった者の信仰はこれと異なって知覚されました。

生活の教え

049◀︎目次▶︎051

50 これらから何が霊的な信仰か、また何が霊的でない信仰か、知ることができます。霊的な信仰は罪を行なわない者のもとにあります。なぜなら、罪を行なわない者は自分自身からではなく主から善を行ない(前の18―21番に見られます)、信仰によって霊的になるからです――彼らのもとの信仰は真理です。
主は、このことを「ヨハネ福音書」で次のように教えられています――

これが審判である。光が世にやって来た、しかし人々は光よりも暗やみをもっと愛した、というのは、彼らの行ないが悪かったから。悪を行なうすべての者は光を憎み、光へ来ない、彼の行ないがあらわにされないためである。けれども、真理を行なう者は光へ来る、彼の行ないが神においてなされたので、明らかにされるためである(3・19―21)。

生活の教え

050◀︎目次▶︎052

51 これまで言われたことは、みことばの中の次のことから確認されます――

善い人は自分の心の善い宝庫から善いものを取り出します。しかし、悪い人は自分の心の悪い宝庫から悪いものを取り出します。なぜなら、口は心に満ちていることから話すからです(ルカ6・45、マタイ12・35)。

みことばの中の「」によって、人間の意志が意味されます。人間はここから考え、話すので、「口は心に満ちていることから話す」と言われます。

人を汚すものは口に入るものではありません。しかし、心から出て行くものが人を汚します(マタイ15・11)

」によって、ここでもまた意志が意味されます。

イエスは、ご自分の足を軟膏で洗った女について、「彼女の罪は赦されています、多く愛したからです」と言われ、その後、「あなたの信仰があなたを救いました」と言われました(ルカ7・46―50)

これらから、罪が許されるとき、したがって存在しないとき、信仰が救うことが明らかです。
自分の意志のプロプリウムの中にいない者、ここから自分の理解力のプロプリウムの中にいない者、すなわち、悪の中にいない者、またここから虚偽の中にいない者は、「神の子ども」や「神により生まれた」と言われること、主を信じる者とは彼らであることを、主は「ヨハネ福音書」第1章12、13節で教えられています。その箇所の説明は前に見られます(17番末尾)。

生活の教え

051◀︎目次▶︎053

52 これらから、人間のもとに真理の小さな種は、善が存在しないかぎり存在しないことが結論されます。そのように信仰の小さな種は、生活の中に存在しないかぎり存在しません。
理解力の中に、「そのようである」という思考が存在するかもしません、しかしそれは意志の同意が存在しないなら、信仰とは認められません。
そのように信仰と生活は足並みをそろえて歩きます。
そこで、これらから、悪を罪として避ければ避けるほど、それだけ信仰を持ち、霊的であることが明らかです。

生活の教え

052◀︎目次▶︎054

(6)十戒にはどんな悪が罪であるか教えられている

53 全世界の中で、どの国民が、盗み、姦淫し、殺し、偽りの証言をすることが悪であることを知らないでしょうか?
これらのことを知らず、まただれかがこのようなことをしないようにと法律によって守らなかったら、それらは行なわれたでしょう。なぜなら、社会・国家・王国は、それらの法律がなければ崩壊するからです。
「イスラエルの人々は、それらが悪であることに無知であった、このように他のすべて国民よりも愚かであった」とだれが思うでしょうか?
それゆえ、これらの律法は世界中にあまねく知られたことなのに、なぜエホバご自身によりシナイ山からあのように大きな奇跡とともに布告がされたのか不思議に思う者がいるかもしれません。
しかし聞きなさい――このような奇跡とともに布告がされたのは、それらの律法が単なる市民法や道徳法ではなく、霊的な法でもあることを知るためです。それらに反して行なうことは、単に同胞に反し、社会に反して悪を行なうことであるだけでなく、神に反して罪を犯すことでもあります――それゆえ、それらの律法は、エホバによりシナイ山からの布告を通して、宗教の律法とされました。というのは、神エホバが命じられることは何であれ、それは宗教のものであるために、そしてその方のために、また人間が救われるために、行なわなければならないと命じられていることが明らかであるからです。

生活の教え

053◀︎目次▶︎055

54 これらの律法は、みことばの始まりであり、ここからイスラエルの人々のもとに設立されなければならない主による教会の始まりであり、宗教のすべてのものの複合体としての簡潔な概要であって、それによって人間と主、主と人間との結合が存在したので、それゆえ、このように聖なるものは他に決してないほどに聖なるものでした。

生活の教え

054◀︎目次▶︎056

55 最も聖なるものであったことは、次のことから明らかにすることができます。
エホバご自身が、すなわち、主が、火の中に天使とともにシナイ山の上に降られ、そこからそれらを生きた声で布告された。人々は見るために、聞くために三日間の準備をした。その山は、だれかが近づいて、死なないように、垣根で囲まれた。祭司も長老も近づかないで、モーセだけが近づいた。その律法は二つの石板に神の指で書かれた。モーセがその板を三度目に山から運び降ろしたとき、その顔が輝いた。その後、箱の中にしまわれ、これは幕屋の中にしまわれ、その上に金からできたあがないのふたが置かれ、その上にケルビムが置かれた。これは彼らの教会の最も聖なるものとなり、至聖所と呼ばれた。内側に至聖所のある垂れ幕の外には、天界と教会の聖なるものを表象したものが置かれた。それらは金からできた七つのランプをもつ燭台、金からできた香の祭壇、供えのパンが上に置かれる金を被せた机、それと紫色と緋色の布からできた周囲に幕であった。
この幕屋全体の神聖さは、箱の中にあった律法以外の他のところからのものではありませんでした。
[2]箱の中の律法から幕屋は神聖であったので、イスラエルの民全体は、命令により、その周囲に、順に種族にしたがって野営し、順にその後ろを進みました。その時、その幕屋の上に昼は雲が、夜は火がありました。
その律法の神聖さのために、その中に主が臨在されるために、主はケルビムの間のあがないのふたの上でモーセと語られました。箱は「エホバはそこに」と呼ばれました――なおまた、アロンは、いけにえとともに香を焚かなければ、垂れ幕の内側に入ることが許されませんでした。
その律法は教会の神聖なものそのものであったので、それゆえ、箱はダビデによりシオンに導き入れられ、その後、エルサレムの神殿の真ん中に置かれ、その最も神聖な場所とされました。
[3]その律法の中に、またその周囲に、主が臨在されたので、奇跡もまた、その中に律法があった箱によって行なわれたのです――例えば、ヨルダン川の水が割れ、箱がその真ん中にとどまるかぎり、人々は乾いた地面を渡った。その箱を運びまわることによって、エリコの城壁は崩壊した。ペリシテ人の神ダゴンはその箱の前で倒れ、その後、頭から引き離されて神殿の入り口に横たわった。そのために、ベテ・シェメシュの住民が何千人も打たれた、等々。
これらすべては、十戒である主の十のみことばの中に、その方が臨在されることだけからの奇跡です。

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055◀︎目次▶︎057

56 さらにまた、その律法は宗教のすべてのものの総合体であったので、それほどに大きな力とそれほどの神聖さがそれに内在しました。というのは、二つの板から成っていて、その一つは神の側からのものであるすべてのものを含み、もう一つは人間の側からのものであるすべてのものを全体として含むからです。
それゆえ、その律法の戒めは「十のことば」と呼ばれます。このように呼ばれるのは、「十」はすべてを意味するからです。
しかしその律法がどのように宗教のすべてのものの複合体となっているかは、続く章の中に見られます。

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056◀︎目次▶︎058

57 その律法は、人間との主の結合であり、主との人間の結合であるので、契約と証しと呼ばれます。結合するので契約と呼ばれ、証言するので証しと呼ばれます。なぜなら、「契約」は結合を、そして「証し」はその証人となることを意味するからです。
それゆえ、その板は、一つは主のために、もう一つは人間のために、二つありました。
結合は主により行なわれます。しかしそれは人間がその板に書かれていることを行なう時です。
というのは、主は絶えず臨在され、働かれ、そして入ることを望まれていますが、人間は、主からのものである自分の自由から、開けなくてはならないからです。なぜなら〔次のように〕言われているからです、

見よ、わたしは戸に立ち、たたく。だれかが、わたしの声を聞き、戸を開けるなら、わたしは彼のところへ入り、彼とともに食事をし、彼もわたしと食事をする(黙示録3・20)。

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057◀︎目次▶︎059

58 人間のためのもう一つの板の中に、人間はあれこれの善を行なわなくてならない、とは書かれていません。しかしあれこれの悪を行なってはならない、と書かれています――「殺してはならない」「姦淫してはならない」「盗んではならない」「偽りの証言をしてはならない」「欲しがってはならない」のようにです。
その理由は、人間は自分自身から何も善を行なうことができないからです。しかし彼が悪を行なわない時、自分自身からでなく神から善を行ないます。
人間は、主の力から、その力を切願するなら、自分自身によるかのように悪を避けることができ、そのことが続きの中で見られます。

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058◀︎目次▶︎060

59 その律法の布告と神聖さと力について前に言われたこと(55番)は、みことばの次の箇所に見いだされます――

エホバが、火の中でシナイ山の上に降られ、その時、山は煙り、震えた――雷鳴・稲光・密雲・角笛の音があった(出エジプト記19・16、18。申命記4・11、5・22―26)。
民はエホバが降られる前に、三日の間、準備し、自分自身を清めた(出エジプト記19・10、11、15)。
山は、だれかがその最も低いところに近づかないように、死なないように、垣根で取り囲まれた。祭司も近づかず、 モーセだけが近づいた(出エジプト記19・12、13、20―23、24・1、2)。
律法はシナイ山から布告された(出エジプト記20・2―17。申命記5・6―21)。
その律法は二つの石板に神の指で書かれた(出エジプト記31・18、32・15、16。申命記9・10)。
モーセがその板を二度目に山から運び降ろしたとき、顔が輝いた(出エジプト記34・29―35)。
板は箱の中にしまわれた(出エジプト記25・16、40・20。申命記10・5。列王記Ⅰ8・9)。
箱の上にあがないのふたが置かれ、その上に金からできたケルビムが置かれた(出エジプト記25・17―21)。
箱は、あがないのふたとケルビムとともに、幕屋の最内部を構成した。金からできた燭台、金からできた香の祭壇、金を被せた机とその上の供えのパンは、幕屋の外的なものを、そして紫色と緋色の亜麻布からの十枚の幕は、その〔最も〕外部のものを構成した(出エジプト記25・1から終わりまで、26・1から終わりまで、40・17―28)。
箱がある場所は至聖所と呼ばれた(出エジプト記26・33)。
イスラエルの全会衆は、命令により、幕屋の周囲に、順に種族にしたがって野営し、順にその後ろを進んだ(民数記2・ 1から終わりまで)。
その時、幕屋の上に昼は雲が、夜は火があった(出エジプト記40・38。民数記9・15から終わりまで、14・14。申命記1・33)。
主はモーセと箱の上のケルビムの間から語られた(出エジプト記25・22。民数記7・89)。
箱は、その中にある律法から、「エホバはそこに」と言われた、というのは、モーセは、箱が出発するとき「立ち上がってください、エホバ」、またとどまるとき、「お帰りください、エホバ」と言ったから(民数記10・35、36。またさらにサムエル記Ⅱ6・2。詩篇132・7、8)。
その律法の神聖さのために、アロンは、いけにえと香を焚くこととともにでないなら垂れ幕の内に入ることが許されなかった(レビ記16・2―14、それ以降)。
箱はダビデによりシオンに、いけにえとともに、また歓呼とともに、導き入れられた(サムエル記Ⅱ6・1―19)。その時、ウザは、それに触れたので、死んだ(そこの6、7節)。
箱はエルサレムの神殿の真ん中に置かれ、そこの至聖所とされた(列王記Ⅰ6・19以降、8・3―9)。
箱の中の律法の中に主が臨在され、その力から、ヨルダン川の水が割れ、それが真ん中にとどまるかぎり、人々は乾いた地面を渡った(ヨシュア3・1―7、4・5―20)。
箱を運びまわることによってエリコの城壁が崩壊した(ヨシュア6・1―20)。
ペリシテ人の神ダゴンが、箱の前で地に倒れ、その後、神殿の入り口に、頭から引き離されて横たわった(サムエルⅠ5・1―4)。
ベテ・シェメシュの人々は箱のために何千人も打たれた(サムエルⅠ6・19)。

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059◀︎目次▶︎061

60 石の板は、その上に律法が書かれて、「契約の板」と言われ、そこから箱は「契約の箱」、律法そのものは「契約の板」と言われました(民数記10・33。申命記4・13、23、5・2、3、9・9。ヨシュア記3・11。列王記Ⅰ8・19、21。黙示録11・9。また他の多くのところに)。

律法が「契約」と言われたのは、「契約」が結合を意味するからです――それゆえ、主について、
民の契約となる(イザヤ42・6、49・8)と言われます。
契約の使者(マラキ3・1)と呼ばれます。
その方の血は、契約の血(マタイ26・28。ゼカリヤ9・11。出エジプト記24・4―10)と言われます。
それゆえ、みことばは「旧い契約と新しい契約」と言われます。
さらにまた、契約は愛・友情・交わりの結合のために、このように好意の結合のために行なわれました。

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060◀︎目次▶︎062

61 その律法の戒めは「十のことば」と言われました(出エジプト記34・28。申命記4・13、10・4)――このように呼ばれたのは、「十」はすべてを意味し、「ことば」は真理を意味するからです。というのは、十よりも多くあったからです。
「十」はすべてを意味するので、それゆえ、幕屋の幕は十枚でした(出エジプト記26・1)。
それゆえ、主は、王国に受け入れられる人間を「十人のしもべ」と呼び、彼らに商売のために「十ミナ」を与えられました(ルカ19・13)。
それゆえ、主は、天の御国を「十人の娘」に、たとえられました(マタイ25・1)。
それゆえ、竜は、「十の角」を持ち、角の上に「十の冠」がある、と記述されました(黙示録12・3)。
海から上ってくる獣も同様です(黙示録13・1)。
そしてまた他の獣も(黙示録17・3、7)。
なおまた「ダニエル書」の獣も(7・20、24)。
同様のものが「十」によって意味されます(レビ記26・26。ゼカリヤ8・23。また他の箇所に)。

「十分の一税」はここからであり、それによって、すべてのものからの何らかのものが意味されます。

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061◀︎目次▶︎063

(7)すべての種類の殺人・姦淫・盗み・偽証は、それらへの欲望とともに、それらは罪として避けなくてはならない悪である

62 シナイの律法が二つの板に書かれ、第一の板には神のものが含まれ、第二の板には人間のものが含まれていたことはよく知られています。
第一の板に神のものであるすべてのものが含まれ、第二の板に人間のものであるすべてのものが含まれることは、文字では明らかではありません、しかしすべてのものがそれらの中にあります。それゆえ、それらはまた「十のことば」と呼ばれ、そのことによって複合体としてのすべての真理が意味されます(すぐ前の61番に見られます)――しかしすべてのものがどのようにその中に存在するかは、簡単に説明することはできません。しかし、それらは『聖書についての教え』(67番)の中に示されているものから理解することができるので、それらを参照してください。
ここから、すべての種類の殺人・姦淫・盗み・偽証と言ったのです。

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062◀︎目次▶︎064

63「だれも律法を成就することができない。その律法とは殺さない・姦淫しない・盗まない・偽りの証言をしないことである」という宗教が強くなりました。
これらの律法を市民的で道徳的な人は、それぞれ市民的で道徳的な生活から成就することができます。しかしその宗教は、それらを霊的な生活から成就できることを否定します。
このことから、それらを行なわないのは、ただ世での罰と損失を避けるためであり、世を去った後の罰と損失を避けるためではないことがいえます――ここから、前述の宗教に強く影響された人間は、それらが神の前に許され、世の前に許されない、と考えてしまいます。
[2]自分のその宗教から、この考えのために、その人間はすべてのそれらの悪への欲望の中にいて、それらを行なわないのは、ただ世のためにだけです。それゆえ、このような人間は、死後、〔この世で〕殺人・姦淫・盗み・偽証を犯していなくても、それでも、それらを行なうことを熱望し、そしてまた、世で持った外なるものが彼から取り去られるとき、行ないます。
すべての欲望は、死後も、人間に残っています。
このことから、このような者は、地獄と一つとして働き、地獄にいる者と運命をともにせざるをえません。
[3]しかし殺すこと、姦淫し、盗み、偽証することは神に反するので、それらを行なうことを欲さない者の運命は別です――彼らは、それらに対する何らかの闘争の後、それらを欲せず、そのようにそれらを行なうことを望みません。自分の心の中で、罪であり、本質的に地獄のもの、悪魔のものである、と言います――これらの者は、死後、世のために持った外なるものが、彼らから取り去られるとき、天界と一つとして働きます。主の中にいるので、天界へやって来ます。

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063◀︎目次▶︎065

64 人間は自分自身を調べ、悔い改めを行ない、罪から離れなくてはなりません。それを行なわないなら断罪の中にいます、このことは、すべての宗教に共通です。
このことがすべての宗教に共通であることは前に見られます(4―8番)。
さらにまた、十戒が教えられ、幼児はそれらによってキリスト教の手ほどきをされます、このことも全キリスト教界に共通です。というのは、すべての幼児や少年たちの手の中にあるからです。
彼ら自身の両親や教師たちが、「それらを行なうことは神に対して罪を犯すことである」と彼らに教えます。それどころか、幼児たちに話すとき、他のことを思いません。
幼児がおとなになったとき、その同じ者が、「それらの律法の下にいない。その律法にあることを行なうができない」と考えることを、だれが怪しまないでいることができますか?
このような考えを身につける理由は、彼らが悪を愛し、そこからの虚偽に好意をもつこと以外にあるのでしょうか?
そこで、これらの者が、十戒の戒めを宗教のものとしない者です――その同じ者が宗教なしで生きることは、『信仰についての教え』に見られます。

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064◀︎目次▶︎066

65 宗教をもつ全世界のすべての人々のもとに、十戒の中にあるのと同じような戒めがあります。宗教からそれらに生きるすべての者は救われます。しかし、宗教からそれらに生きないすべての者は断罪されます。
宗教からそれらに生きる者は、死後、天使によって教えられ、真理を受け入れ、主を認めます。
その理由は、前に示されたように(32―41番)、悪を罪として避け、ここから善の中にいて、善は真理を愛し、愛の願望から真理を受け入れるからです。
このことが〔次の〕ユダヤ人への主のことばによって意味されています、

あなたがたから神の国は取り去られ、実を結ぶ国民に与えられます(マタイ21・43)。

なおまたこれらによって、

ぶどう園の主人がやって来たとき、悪い者たちを……滅ぼします。自分のぶどう園を、自分たちの時にその方の実を戻す別の農夫たちに貸します(マタイ21・40、41)。

またこれらによって、

わたしはあなたがたに言いますが、多くの者が東と西から来ます。また、北と南から、神の国で席に着きます。しかし、国の子らは外の暗やみに投げ出されます(マタイ8・11、12。ルカ13・29)。

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065◀︎目次▶︎067

66「マルコ福音書」に書かれています、

ある富んだ者がイエスのもとにやって来て、永遠のいのちを相続して受けるために何を行なうべきか尋ねた。イエスはその者に言われた、「あなたは戒めを知っています。姦淫してはならない、殺してはならない、盗んではならない、偽りの証言者であってはならない、だまし取ってはならない、あなたの父と母を敬え」。彼は答えて、言った……「これらすべてを私は若い時からから守りました」。イエスは彼を見つめ、彼を愛された。そして言われた……「一つのものがあなたに欠けています。出かけなさい、あなたの持つどんなものでも、売って、貧しい者たちに与えなさい。あなたは宝物を天に持ちます。そして来て、十字架を取って、わたしに従いなさい」(10・17―22)。

[2]イエスは彼を愛した、と言われているのは、彼がそれらの戒めを若い時から守った、と言ったからです。しかし彼に三つのものが欠けていたので、それらは、自分の心を富から遠ざけなかったこと、欲望に対して闘わなかったこと、そしてまだ主を神として認めなかったことであり、それゆえ、主は、「持っているすべてのものを売りなさい」と言われました、このことによって心を富から遠ざけることが意味され、「十字架を取りなさい」と言われたことによって、欲望に対して闘うことが意味され、そして「わたしに従いなさい」と言われたことによって、主を神として認めることが意味されます。
主はこれらのことを〔他のみことばの〕すべてのものと同じく対応によって話されました(『聖書についての教え』17番参照)。というのは、悪を罪として避けることは、主を認め、その方に近づかないなら、悪に対して闘い、このように欲望を遠ざけないなら、だれにもできないからです。
しかしこれらのことについて多くのことを悪に対する闘争についての章で扱います。

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066◀︎目次▶︎068

(8)だれかがすべての種類の殺人を罪として避ければ避けるほど、それだけ隣人に対する愛を持つ

67  すべての種類の殺人によって、すべての種類の敵意・憎しみ・復讐もまた意味され、それらは殺人を吹き込みます。というのは、灰の下の木材の中に火が隠れているように、それらの中に殺人が隠れているからです。地獄の火は他の何ものでもありません。憎しみに燃え、復讐に燃える、と言われるのは、このことからです――これらは自然的な意味での殺人です。
けれども、霊的な意味での殺人によって、人間の霊魂を殺し、滅ぼしてしまうすべての方法が意味されます。それらはいろいろであり、多種多様です。
けれども、最高の意味での殺人によって、主を憎むことが意味されます。
これらの3つの種類の殺人は、一つとなって、連結しています。なぜなら、世で人間の身体の殺害を欲する者は、死後、その霊魂の殺害を欲し、また主に対する怒りに燃え、その方の名前を消滅させることを欲するので、主の殺害を欲するからです。

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067◀︎目次▶︎069

68 これらの種類の殺人が人間の内部に出生から隠れています。しかしそれでも人間は、幼年期から丁寧さや礼儀正しい振る舞いで、それらを隠すこと、世ではそれらの中にいなくてはならないことを学び、名誉や利益を愛するかぎり、〔世に〕現われないよう用心します。このことが人間の外なるものとなり、そのときそれらの殺人が彼の内なるものです。人間は本質的にこのようなものです。
そこで、死ぬとき身体とともに外なるものを捨てますが、内なるものを保持しているので、改心しないなら、どのような悪魔になるか明らかです。

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068◀︎目次▶︎070

69 すでに述べたことですが、前に言われた種類の殺人が人間の内部に出生から隠れているので、同時にすべての種類の盗みとすべての種類の偽証が、これらについては今後述べます、それらへの欲望とともに隠れているので、主が改心の手段を備えられなかったなら、人間は永遠に滅びるしかなかったことが明らかです。
主の備えられた改心の手段は、次のものです――人間はまったくの無知の中に生まれていて、生まれたばかりは、外なる無垢の状態の中に、少し後、外なる仁愛の状態の中に、その後、外なる友情の状態の中に保たれます。しかし〔やがて〕自分自身の理解力からの思考の中にやって来るように、理性にしたがって働くある種の自由の中に保たれます――この状態は前に述べられたものですが(19番)、続くもののためにこれを再び取り上げます、すなわち――

人間は、世にいるかぎり、地獄と天界の間の真ん中にいます。下に地獄があり、上に天界があり、その時、自分自身を地獄または天界へ向ける自由の中に保たれています――地獄に向かうなら、天界から背きます。けれども、天界に向かうなら、地獄から背きます。
また同じことですが、人間は、世にいるかぎり、主と悪魔の間の真ん中に立ち、そして自分自身を一方に、あるいはもう一方に向ける自由の中に保たれています――悪魔に向けるなら、主から背きます。けれども、主に向けるなら、悪魔から背きます。
また同じことですが、人間は、世にいるかぎり、悪と善の間の真ん中にいて、自分自身を一方に、あるいはもう一方に向ける自由の中に保たれています――悪に向けるなら、善から背きます。けれども、善に向けるなら、悪から背きます。

これらが前の19番です。またそれに続く20―22番も見てください。

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069◀︎目次▶︎071

70 そこで、悪と善は、地獄と天界のように、または悪魔と主のように、完全に対立する二つのものなので、人間が悪を罪のように避けるなら、悪と対立する善の中にやって来ることがいえます。殺人によって意味される悪と対立する善は、隣人に対する愛の善です。

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070◀︎目次▶︎072

71 この善とその悪は対立するので、この善がその悪よって遠ざけられてしまうことがいえます。二つの対立するものは、天界と地獄が一つとなることがありえないように、一つであることはありえません――一つとなるなら、なまぬるいものとなり、それについて「黙示録」にこのように〔あります〕、

わたしは知っている……あなたは冷たくもなく、熱くもない。あなたが冷たいかまたは熱いかであればよいのに。しかしあなたは冷たくも熱くもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう(3・15、16)。

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071◀︎目次▶︎073

72 人間がもはや殺人の悪の中にいないで、隣人に対する愛の善の中にいる時、彼の行なうどんなものでも、この愛の善のものであり、結果として、善の働きです。
その善の中にいる祭司は、教え、導くたびごとに、霊魂を救う愛から行なうので、善の働きをします。
その善の中にいる行政長官は、統制し、判断するたびごとに、祖国・社会・同胞の市民を思いやる愛から行なうので、善の働きをします。
商人も同様に、その善の中にいるなら、彼の仕事のすべては善の働きです。その中には隣人愛があります。隣人とは、祖国・社会・同胞の市民、そしてまた家の召使いであり、自分自身とともに彼らを思いやります。
その善の中にいる労働者もまた、その善から、自分自身のためのように他の者のために、自分自身の損害のように隣人の損害を恐れて、忠実に働きます。
彼らの行ないが善の働きであるのは、全般的な法則にしたがって、だれかが悪を避ければ避けるほど、それだけ善を行ない(前の21番)、悪を罪として避ける者は、自分自身からでなく、主から善を行なうからです(18―31番)。
敵意・憎しみ・復讐、またその他多くの種類の殺人を罪と見なさない者のもとでは正反対です――祭司であれ、あるいは行政長官であれ、あるいは商人であれ、あるいは労働者であれ、彼らの行なうどんなものでも、善の働きではありません。そのすべての働きは内部にある悪と関わっています、というのは、その内なるものが生み出すからです。外なるものは、善でありえます、しかし〔その外なるものは〕他の者のためのものであって、自分自身のためのものではありません。

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072◀︎目次▶︎074

73 主は、みことばの中の多くの箇所で、愛の善を教えられています。「マタイ福音書」で、それを隣人との和解によって、教えられています、

あなたが祭壇の上に供え物を捧げようとしているなら、あなたの兄弟があなたに対して何か抱いていることを思い出すなら、供え物はそこに、祭壇の前にそのままにしておき、まず兄弟と和解するために出かけなさい、そしてこのあと、やって来て、あなたの供え物を捧げなさい。あなたの敵対者と、あなたが彼と道にいる間に、仲良くしなさい。敵対者があなたを裁判官に引き渡し、裁判官はあなたを下役に引き渡し、牢に投げ込まれないためです。まことに、わたしはあなたに言います。あなたが最後の一コドラントを支払うまでは、あなたが〔そこを〕出ることはありません(5・23―26)。

兄弟と和解する」ことは、敵意・憎しみ・復讐を避けることです。それらを罪として避けることは明らかです。
さらにまた、「マタイ福音書」で主は教えられています、

人々があなたがたにするように、あなたがたが欲するどんなものでも、すべてのことを、そのように、あなたがたもまたそれをしなさい。これらが律法と預言者です(7・12)。

このように、悪を行なってはなりません――他の多くのところで教えられています。
主はまた、兄弟または隣人に理由なく怒ること、彼らに敵意を抱くことが「人を殺すこと」であることも教えられています(マタイ5・21、22)。

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073◀︎目次▶︎075

(9) だれかがすべての種類の姦淫を罪として避ければ避けるほど、それだけ貞潔を愛する

74 十戒の第六の戒めの「姦淫を犯すこと」によって、自然的な意味では単に淫行することだけでなく、わいせつなことを行なうこと、みだらなことを話すこと、汚れたことを考えることもまた意味されます。
けれども、霊的な意味では「姦淫を犯すこと」によって、みことばの善を不純化することとその真理を虚偽化することが意味されます。
そして、最高の意味では「姦淫を犯すこと」によって主の神性を否定し、みことばを冒涜することが意味されます。
すべての種類の姦淫とはこれらです。
自然的な人は、「姦淫を犯すこと」によって、わいせつなことを行なうこと、みだらなことを話すこと、また汚れたことを考えることもまた意味されることを理性的な光(lumen)から知ることができます。しかし「姦淫を犯すこと」よって、みことばの善を不純化すること、その真理を虚偽化することもまた意味されることを、さらにまた、主の神性を否定すること、みことばを冒涜することが意味されることを知ません。ここから、姦淫が悪魔のものそのものと呼ばれることができるほどの悪であることも知りません。というのは、自然的な姦淫の中にいる者は、霊的な姦淫の中にもまたいるから。そしてその逆も言えます。
このようであることは、特別な小著『結婚について』の中で示されるでしょう。
しかし姦淫を信仰と生活から罪としない者は、同時にすべての種類の姦淫の中にいます。

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074◀︎目次▶︎076

75 だれかが姦淫を避ければ避けるほど、それだけ結婚を愛します、または同じことですが、だれかが姦淫のみだらなことを避ければ避けるほど、それだけ結婚の貞潔を愛します、姦淫のみだらなことと結婚の貞潔は二つの対立するものであるからです。それゆえ、一方の側にいなければ、それだけもう一方の側にいます――前に言われたように(70番)、まったくそのようにです。

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075◀︎目次▶︎077

76 姦淫のみだらなことを罪として避けないなら、だれも結婚の貞潔がどんなものであるか知ることができません。
貞潔の中にいる人間は知ることができます、しかし貞潔の中にいないと知ることができません。
貞潔の中にいないで、記述したものまたは思考から、何かを知るとしても、やはりそれを陰の中でしか知らず、疑いが残ります。それゆえ、貞潔の中にいないなら、それを光(lux)の中で、疑いなしに見ていません。
それで、貞潔であることは知ることです、けれども貞潔でないことは、知っても、知らないことです。
姦淫のみだらなことと結婚の貞潔の間は完全に地獄と天界の間のようであること、姦淫のみだらなことは人間のもとに地獄を、結婚の貞潔は彼のもとに天界をつくること、これは真理です。
しかし結婚の貞潔は、姦淫のみだらなことを罪のように避ける者のもとにしか存在しません(後の111番に見られます)。

生活の教え

076◀︎目次▶︎078

77 これらから、ある人間がキリスト教徒であるかないかを、それどころか、その人間にある種の宗教があるかないかを、あいまいさを残さずに結論し、知ることができます。
姦淫を信仰と生活から罪としない者は、キリスト教徒ではなく、その者に宗教もありません――けれども逆に、姦淫を罪として避け、それゆえ、さらにそれを退け、それゆえ、もっとさらにそれを忌み嫌う者には宗教があり、キリスト教会の中にいるなら、キリスト教徒です。
しかしこれらについて多くのことを小著『結婚について』で述べます。その〔出版までの〕間は、それらについて述べられている著作『天界と地獄』(366―386番)を見てください〔同書「天界での結婚」の章〕。

生活の教え

077◀︎目次▶︎079

78 「姦淫を犯すこと」によって、わいせつなことを行なうこと、みだらなことを話すこと、汚れたことを考えることもまた意味されることは、「マタイ福音書」の主のみことばから明らかです――

「姦淫をしてはならない」と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれかが他の女をほしがるようにして見たなら、自分の心の中ではすでに彼女と姦淫しています(マタイ5・27、28)。

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078◀︎目次▶︎080

79 霊的な意味での「姦淫を犯すこと」によって、みことばの善を不純化することとその真理を虚偽化することが意味されることは、これらから明らかです――

バビロンは……自分の淫行のぶどう酒から、すべての国民に飲ませた(黙示録14・8)。
天使は言った、「私はあなたに多くの水の上に座っている大淫婦のさばきを見せよう、地の王たちは彼女と淫行を行なった」(黙示録17・1、2)。
バビロンは「自分の淫行の怒りのぶどう酒から、すべての国民に飲ませ、地の王たちは彼女と淫行を行なった」(黙示録18・3)。
神は「自分の淫行で地を汚した大淫婦をさばかれた」(黙示録19・2)。

「淫行」がバビロンについて言われるのは、「バビロン」によって、主の神的力を自分自身のものとし、みことばを不純化し、それを虚偽化して、冒涜する者が意味されるからです。それゆえまた、バビロンは、「淫行と地の忌まわしいものの母」(黙示録17・5)と呼ばれています。

[2] 同じことが「預言書」の「淫行」によって意味されます――例えば「エレミヤ書」に、

わたしは、エルサレムの預言者たちの中に、姦淫を犯し、偽りの中を歩み行く、恐るべき頑固さを見た(23・14)。

「エゼキエル書」に、

ひとりの母の娘であるふたりの女がエジプトで淫行を行なった。その若い時に淫行を行なった。……ひとり〔オホラ〕はわたしのもとで淫行を行なった。恋人を……近くのアッシリヤ人を愛した。……自分の淫行を彼らの上に与えた。それでもエジプトで自分の淫行をやめなかった。もうひとり〔オホリバ〕は彼女よりも自分の愛をさらに汚し、その淫行は姉の淫行よりもひどかった……。自分の淫行を増し加え、カルデヤ人を愛した。バベルの息子たちは彼女のもとへ、愛の床へ来て、彼女を自分たちの淫行によって汚した(23・2―17)。

これらは、そこの「ひとりの母の娘たち」であるイスラエルとユダの教会についてです。「彼女らの淫行」によって、みことばを不純化することと虚偽化することが意味されます。また、みことばの中の「エジプト」によって知識が、「アッシリヤ」によって誤った推論が、「カルデヤ」によって真理の冒涜が、「バビロン」によって善の冒涜が意味されるので、それゆえ、「彼らと淫行を行なった」と言われています。
[3] 同じことが、教えに関する教会を意味するエルサレムについて言われています。「エゼキエル書」に、

エルサレムよ、あなたはあなたの美しさに信頼し、あなたの名声により、通り過ぎるすべての者の上にあなたの淫行を注ぎ出すほどにも淫行を行なった。……あなたは肉の大いなる隣のエジプトの息子と淫行を行ない、あなたの淫行を増した。……あなたはアッシリヤの息子と淫行を行なった。あなたは、彼らとの淫行のとき、あなたに満ち飽きることがないとき……あなたの淫行を商業の地カルデヤでも増した。……自分の夫の代わりに他の者を受け入れる姦淫の女よ。すべての者は自分の娼婦たちに報酬を与える。しかし、あなたはすべての恋人たちに……彼らがあなたのもとへ、あなたの周囲に、あなたの淫行の中へ来るようにと報酬を与えた。……それゆえ、娼婦よ、エホバのことばを聞け(16・15、26、28、29、32、33、35以降)。

「エルサレム」によって教会が意味されることは、『主についての教え』(62、63番)に見られます。

(同じことが「淫行」によって意味されています、「イザヤ書」23・17、18、57・3。「エレミヤ書」3・2、6、8、9、5・1、7、13・27、29・23。「ミカ書」1・7。「ナホム書」3・4。「ホセア書」4・10、11。なおまた「レビ記」20・5。「民数記」14・33、15・39。また他の箇所)

それゆえ、ユダヤの人々もまた主により、「姦淫の世代」(マタイ12・39、16・4。マルコ8・38)と呼ばれたのです。

生活の教え

079◀︎目次▶︎081

(10)だれかがすべての種類の盗みを罪として避ければ避けるほど、それだけ誠実を愛する

80 自然的な意味での「盗み」によって、盗むことや強奪することだけでなく、だますこと、また何らかの〔偽り〕外見のもとに他の者からその者の財産を取り去ることも意味されます。
けれども、霊的な意味での「盗み」によって、他の者からその信仰の真理を、またその仁愛の善を奪うことが意味されます。
最高の意味での「盗み」によって、主からその方のものを取り去ること、またそれらを自分自身のものとし、そのように自分自身に義と功績を要求することが意味されます。
これらがすべての種類の盗みです。
そしてまた〔これらの三つの意味の盗みは〕前に述べたすべての種類の姦淫、すべての種類の殺人のように、一つとなっています――一つとなっているのは、ある意味が他の意味に内在するからです。

生活の教え

080◀︎目次▶︎082

81 盗みの悪は、狡猾さと欺きに結合しているので他の種類の悪よりも、人間に深く入り込んでいます、そして狡猾さと欺きは、理解力とともに思考の存在する人間の霊的な心の中にまでもしみ込んでいます。
人間に霊的な心と自然的な心があることは、あとで示します〔86番〕。

生活の教え

081◀︎目次▶︎083

82 だれかが盗みを罪として避ければ避けるほど、それだけ誠実を愛するのは、盗みはごまかしでもあるからです。そしてごまかしと誠実とは二つの正反対のものです。それゆえ、だれかがごまかしの中にいなければいないほど、それだけ誠実さの中にいます。

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082◀︎目次▶︎084

83 誠実によって、公正・正義・忠実・正直もまた意味されます。
それらからまたそれらのために、それらを愛する人間がそれらの中に自分自身からいることはできません――しかし、ごまかし・狡猾さ・欺きを罪として避ける者は、前に示されたように(18―31番)、それらの中に、そのように自分自身からはいないで、主からいます――祭司・行政長官・裁判官・商人・労働者、すべての者は、自分自身の職務の中で、そして自分自身の働きの中で、そのようです。

生活の教え

083◀︎目次▶︎085

84 これらのことは、みことばの多くの箇所に教えられており、そこからは次のものがあります――

正しく歩き、また正直なことを語る者、しいたげによる利益を退け、賄賂をにぎるまいと自分の手を振り払い、血を聞くまいと自分の耳をふさぎ、悪を見まいと自分の目を閉じる者、この者たちは高いところに住む(イザヤ33・15、16)。
エホバよ、だれがあなたの天幕にとどまるのか?だれがあなたの聖なる山に住むのか?正しく歩み、義を行ない……自分の舌でそしらず、自分の友に悪を行なわない者である(詩篇15・1―3以降)。
私の目は地の忠実な者たちに対して〔注がれる〕、私とともに座るために。完全な道を歩く者は私に仕える。欺きをなす者は私の家の真ん中に座らない、うそを話す者は私の目の前に立たない。朝に、私は地の不信心な者をすべて、都から取り除くために……不法を行なう者をすべて、切り倒す(詩篇101・6―8)。

だれかが内部で誠実・公正・忠実・正直でないなら、やはり不誠実・不正・不実・不正直であることを、主は次のことばで教えられています――

あなたがたの義が律法学者やパリサイ人にまさって豊富でないなら、あなたがたは天の御国にはいりません(マタイ5・20)。

「律法学者やパリサイ人にまさって豊富である義」によって内的な義が意味され、主の中にいる人間はその中にいます。
主の中にいることも、主は「ヨハネ福音書」で教えられています、

わたしは、あなたがわたしに与えられた栄光を、彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためにです。わたしは彼らの中に、またあなたは私の中におられます、彼らが一つの中で完全であるためです。……あなたがわたしに与えられた愛が、彼らの中にあり、わたしが彼らの中にあるためです(17・22、23、26)。

これらから、主が彼らの中におられるとき完全であることが明らかです。
彼らは、「心のきよい者、彼らは神を見る」、また「天の父のように完全である」と呼ばれる者です(マタイ5・8、48)

生活の教え

084◀︎目次▶︎086

85 盗みの悪は、他の種類の悪よりも、狡猾さと欺きに結合しているので、人間に深く入り、そして狡猾さと欺きは、理解力とともに思考の存在する人間の霊的な心の中にまでもしみ込んでいることは前に言われました(81番)。
それゆえ、今から、人間の心について言います。
人間の心が理解力と意志の一緒のものであることは、前に見られます(43番)。

生活の教え

085◀︎目次▶︎087

86 人間には自然的な心と霊的な心があります。
自然的な心は下にあり、霊的な心は上にあります。
自然的な心は世での彼の心であり、霊的な心は天界での彼の心です。
自然的な心は動物的な心、しかし、霊的な心は人間の心と呼ぶことができます。
さらにまた、人間は霊的な心があることによって動物から区別されます。このことによって世にいる間に天界にいることができます――死後、人間が生きることもこのことによっています。
[2]人間は理解力により霊的な心の中に、ここから天界の中にいることができますが、悪を罪として避けないなら、意志により霊的な心の中に、ここから天界の中にいることができません。意志によって天界の中にいないなら、理解力によってもいません。なぜなら、意志は理解力を引き下ろし、理解力を自然的なものや動物的なものに等しいものとするからです。
[3]人間は庭園に、理解力は光に、意志は熱に、たとえることができます。
冬の時、庭園は光の中にありますが、同時に熱の中にはありません。しかし、夏の時、光の中と同時に熱の中にあります――そこで、理解力の光の中だけにいる者は、冬の時の庭園のようです。しかし理解力の光の中と同時に意志の熱の中にいる者は、夏の時の庭園のようです。
さらにまた、理解力は霊的な光から賢明であり、意志は霊的な熱から愛します。なぜなら、霊的な光は神的知恵であり、霊的な熱は神的愛であるからです。
[4]人間は悪を罪として避けないかぎり、悪の欲望が自然的な心の内的なものを意志の側からふさぎます、そこの暗い幕のようであり、霊的な心の下にあって、開かれないように妨げる暗い雲のようです――しかし、それでも人間が悪を罪として避けるとすぐに、その時、主が天界から流入し、幕を取り除き、雲を追い散らし、霊的な心を開き、このように人間を天界の中へ入れます。
[5]悪の欲望が自然的な心の内的なものをふさぐかぎり、前に言われたように、それだけ長い間、人間は地獄にいます。けれども、これらの強い欲望が主により追い散らされるとすぐに、人間は天界の中にいます。
なおまた、悪の欲望が自然的な心の内的なものをふさぐかぎり、それだけ長い間、人間は自然的です。けれども、これらの強い欲望が主により追い散らされるとすぐに、人間は霊的です。
なおまた、悪の欲望が自然的な心の内的なものをふさぐかぎり、それだけ長い間、人間は動物です。考え、話すことができ、見ないようなものについてもまた考え、話すことができることだけが〔動物と〕異なっていて、理解力を天界の光の中に高揚させる能力からそれらを引き出しています。けれども、これらの欲望が主により追い散らされるとすぐに、その時、意志の中の善からの理解力の中で真理を考えるので、人間は人間です。
なおまた、悪の欲望が自然的な心の内的なものをふさぐかぎり、それだけ長い間、人間は冬の時の庭園のようです。けれども、これらの強い欲望が主により追い散らされるとすぐに、彼らは夏の時の庭園のようです。
[6]人間のもとの意志と理解力の結合は、みことばの中の「心」と「霊魂」によって、また「心」と「霊」によって意味されます――

例えば、主を「全心と全霊魂」で愛さなくてはならないこと(マタイ22・37)
また主は「新しい心と新しい霊」を与えられることです(エゼキエル11・18、36・25、27)
「心」によって意志とその愛が、そして「霊魂」「霊」によって理解力とその知恵が意味されます。

生活の教え

086◀︎目次▶︎088

(11) だれかがすべての種類の偽証を罪として避ければ避けるほど、それだけ真理を愛する

87 自然的な意味での「偽証すること」によって、偽りの証言をすることだけでなく、偽ることと中傷することもまた意味されます。
霊的な意味での「偽証すること」によって、虚偽を真理である、悪を善である、と言うことと説きつけることが意味され、そしてその逆も意味されます。
けれども、最高の意味での「偽証すること」によって、主とみことばを冒涜することが意味されます。
これらが三重の意味で「偽証すること」です。
偽証し、偽りを語り、中傷する人間のもとでそれらが一つとなることは、『聖書についての教え』の中で、みことばのすべてのものの三重の意味について示されたことから明らかです(5―7番、それ以降、それと57番)

生活の教え

087◀︎目次▶︎089

88 うそと真理は二つの正反対のものであるので、だれかがうそを罪として避ければ避けるほど、それだけ真理を愛することがいえます。

生活の教え

088◀︎目次▶︎090

89 だれかが真理を愛すれば愛するほど、それだけ真理を知ることを欲し、それらを見いだすとき、それだけ心で感動します。他の者は知恵に到達しません――それらを行なうことを愛すれば愛するほど、それだけ真理がある光の快さを感じます。
これまで言われた他のことも同様です。例えば、すべての種類の盗みを避ける者のもとの誠実と公正、すべての種類の姦淫を避ける者のもとの貞潔と純潔、すべての種類の殺人を避ける者のもとの愛と仁愛などです。
けれども、正反対のものの中にいる者は、それらの美徳について何も知りません、それでもそのとき何らかの意義あるものすべてはそれらの美徳の中にあります。

生活の教え

089◀︎目次▶︎091

90「畑の中の種」によって意味されるものは真理であり、それについて主は次のように〔言われています〕――

種を蒔く者が種蒔きに出かけた……。蒔いたとき、あるものは道ばたに落ち、踏みつけられ、空の鳥が食べた。あるものは岩の上に落ちた、しかし生長したとき、枯れてしまった、根を持たなかったからである。……あるものはいばらの中に落ち、いばらが一緒に生え出て、それを窒息させた。また、あるものは良い地の中に落ち、生え出たとき多種多様の実を結んだ(ルカ8・5―8。マタイ13・3―8。マルコ4・3―8)。

そこの「種を蒔く者」は主であり、「種」はその方のみことば、したがって真理です。「道ばたの種」は、真理に関心のない者のもとにあり、「岩の上の種」は、真理に関心がありますが、真理のためにではなく、そのように内的なものに関心がない者のもとにあり、「いばらの中の種」は、悪の欲望の中にいる者のもとにあります。けれども、「良い地の中の種」は、主から、みことばの中にある真理を愛し、その方から、それらを行ない、そのように実を結ぶ者のもとにあります。
これらが意味されることは、主によるそれらの説明から明らかです(マタイ13・19―23、37。マルコ4・14―29。ルカ8・11―15)。
これらから、みことばの真理は、真理に関心がない者に、真理を内的でなく外的に愛する者にも、悪の欲望の中にいる者にも根づくことができないこと、しかし主により悪の欲望を追い払われている者に根づくことが明らかです。
これらの者に、種、すなわち、真理がその霊的な心の中に根づきます(このことについては前の86番の終わりに〔見られます〕)。

生活の教え

090◀︎目次▶︎092

91 今日の一般的な見解は、「救われることは教会の教えるあれこれを信じることである。狭い意味や広い意味で〝殺すな〟〝姦淫するな〟〝盗むな〟〝偽りの証言をするな〟という十戒の戒めを行なうことは救われることではない。というのは、神により、働きは見られないが、信仰が見られると言われているから」というものです。そのときそれでも、だれかがこれらの悪の中にいればいるほど、それだけ信仰を持っていません(前の42―52番に見られます)。
人殺し・姦淫者・盗人・偽証する者のだれかが、それらの欲望の中にいながらも、信仰を持つことができるかどうか、さらになおまた、それらの欲望が、罪であるからと、すなわち、地獄のものや悪魔のものであるからと、それらを行なうことを欲しないことによる以外に、追い散らされることができるか、理性にはかり、熟視してみなさい――それゆえ、救われることは、教会の教えるあれこれを信じることであるという信念を抱く者は、「マタイ福音書」(12・26) の主のみことばにあるような愚かな者でしかありません。
このような教会は、「エレミヤ書」に次のように述べられています、

エホバの家の門に立ち、そこでこのことばを宣言せよ――……イスラエルの神、万軍のエホバはこのように言われた――あなたがたの道とあなたがたの行ないを改めよ。……あなたがたは、「あれはエホバの神殿、エホバの神殿、エホバの神殿」と言う偽りのことばを信頼してはならない。……盗み、殺し、姦淫し、偽りによって誓っていないか……その後、あなたがたは、わたしの名前がつけられているこの家の中のわたしの前に来て、立ち、これらの忌まわしいことをあなたがたが行なう時に、あなたがたは、「私たちは救い出された」と言うのか?この家を強盗の巣とするのか?見よ、わたしもまた見た。エホバは言われる(7・2―4、9―11)。

生活の教え

091◀︎目次▶︎093

(12)悪に対する闘争によってでないなら、それを内的に退けるようにまでも、だれも悪を罪として避けることができない

92 みことばから、みことばからの教えから、だれでも、人間のプロプリウム(固有のもの)は出生から悪であること、そしてここから、生来の欲望から、復讐することを欲し、だますことを欲し、中傷することを欲し、姦淫することを欲するといった悪を愛し、その中に導かれること、また、罪であること、さらにまたそれに抵抗することを思わず、名誉または利益のための評判が傷つかないなら、機会が与えられるたびごとにそれらを行なってしまうことを知っています。
人間は宗教をもたないなら、それらを楽しみから行なうことを追加しておきます。

生活の教え

092◀︎目次▶︎094

93 人間のこのプロプリウムは、彼のいのち(生活)の最初の根であるので、その根が根こそぎにされ、新しい根が植え付けられないなら、人間がどのような木になるか明らかです――腐った木となり、それについては、切り倒されて、火の中に投げ込まれなくてはならいと言われています(マタイ3・10、7・19)。
人間が、その根となっている悪を自分の霊魂に害あるものとして見て、さらにそれを取り去ることを欲しないなら、この根が取り除かれ、それに代わって新しい根は植え付けられません。しかし彼のプロプリウムであり、ここから快さがあるので、いやであっても、もがきながら、そのように闘争とともにでないなら、そのことはできません。

生活の教え

093◀︎目次▶︎095

94 天界と地獄が存在し、天界は永遠の幸福であり、地獄は永遠の不幸であることを信じ、悪を行なう者は地獄へ行き、善を行なう者は天界へ行くことを信じるすべての者は、闘います。闘う者は、悪の根となっている欲望そのものに対して、内的なものから行動します。なぜなら、欲望することは欲することであり、何かに対して闘う者はそれを欲しないからです。ここから、闘争による以外に、悪の根は除かれないことが明らかです。

生活の教え

094◀︎目次▶︎096

95 そこで、だれかが闘争し、このように悪を除けば除くほど、それだけそれに代わって善が続き、善から、それだけまともに悪を見て、その時、地獄のものまた恐るべきものであることを知ります。〔悪は〕このようなものなので、それを避けるだけでなく、さらにまた退け、ついにはそれを忌み嫌います。

生活の教え

095◀︎目次▶︎097

96 悪に対して闘う人間は、自分自身からかのように闘うことしかできません。なぜなら、自分自身からかのようにでないなら、その者は闘わず、自動人形のように何も見ず、何もせずに立ち、絶えず悪から、悪のために、悪に反しないで考えるからです。
しかしそれでも、主おひとりが人間の中で悪に対して闘われること、人間にはただ自分自身から闘うようにしか見えないこと、その外観なしに闘争は存在せず、そのように改心もないので、主は人間にこのように見えるようにと望まれていることは、よく知っておくべきです。

生活の教え

096◀︎目次▶︎098

97 欲望のすべての抑制をゆるめ、故意にそれらにふけった者でないなら、そしてまた、みことばと教会の聖なるものを頑固に拒んだ者でないなら、この闘争はきびしいものではありません。
しかし、他の者にとってきびしいものではなく、彼らは、一間にただ一度または月に二度、意図的に悪に抵抗すれば、変化を知覚します。

生活の教え

097◀︎目次▶︎099

98 キリスト教会は闘う教会と呼ばれ、悪魔に対して、そのように地獄からのものに対して闘わないなら、闘うと呼ばれることはできません。地獄は悪魔です。
教会の人間が受ける試練は、その闘争です。

生活の教え

098◀︎目次▶︎100

99 試練である悪に対する闘いについては、みことばの多くの箇所に述べられています。
主の次のことばによって意味されています――

わたしはあなたがたに言います。小麦の穀粒が地に落ちて、死なないなら、それは単独で残ります。しかし、死ぬなら、多くの実を結びます(ヨハネ12・24)。

なおまた、これらによって――

だれでもわたしについて来たいと欲するなら、自分を捨て、自分の十字架を取り、わたしについて来なさい。自分の霊魂を救おうと欲する者はだれでも、それを失います……けれども、わたしのために、福音のために自分の霊魂を失う者は、それを救います(マルコ8・34、35)。

「十字架」によって試練が意味されます(マタイ10・38、16・24。マルコ10・21。ルカ14・27でもまた)。
「霊魂」によって人間のプロプリウムの生活が意味されます(マタイ10・39、16・25。ルカ9・24。また特にヨハネ12・25でもまた)。

それはまた何も益のない「肉」の生活です(ヨハネ6・63)。
悪に対する闘いとその勝利について、主は「黙示録」の中のすべての教会に語られています。

エペソにある教会に――勝つ者に、わたしは、神のパラダイスの真ん中にあるいのちの木から食べることを与える(黙示録2・7)。
スミルナにある教会に――勝つ者は、第二の死によって害を被らない(黙示録2・11)。
ペルガモにある教会に――勝つ者に、わたしは隠れたマナから食べることを与える。また、わたしは彼に白い石を与える。石の上には、受ける者でないなら、だれも知らない新しい名前が書かれている(黙示録2・17)。
テアテラにある教会に――勝ち、最後までわたしのわざに仕える者に、わたしは諸国を支配する権威を与える。……また、わたしは明けの明星を与える(黙示録2・26、27)。
サルデスにある教会に――勝つ者は白い衣を着せられる。そして、わたしは彼の名前をいのちの書から消さない。わたしは彼の名前をわたしの父の前とその天使たちの前で言明する(黙示録3・5)。
フィラデルフィヤにある教会に――勝つ者を、わたしはわたしの神の神殿の中の柱とする……わたしは彼の上に神の名前を、神から出て天から降る神の都、新しいエルサレムの名前を、わたしの新しい名前を書く(黙示録3・12)。
ラデオキヤにある教会に――勝つ者に、わたしは、わたしとともに、わたしの座に着くことを与える(黙示録3・21)。

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099◀︎目次▶︎101

100 試練であるこれらの闘争について、ロンドンで1758年に出版された『新しいエルサレム〔とその天界〕の教え』の中で、特に扱われているので、参照してください(187―201番から)――

〔試練は〕どこからか、どんなものであるか(196、197番)。
どのように、いつ起こるか(198番)。どのような善がもたらされるか(199番)。
主は人間のために闘われること(200番)。主の闘争または試練について(201番)。

生活の教え

100◀︎目次▶︎102

(13) 人間は自分自身からのように、悪を罪として避け、それらに対して闘わなくてはならない

101 人間が自由から理性にしたがって行動することは神的秩序からです。自由から理性にしたがって行動することが自分自身から行動することであるからです。
けれども、これら自由と理性の二つの能力は人間のプロプリウム(固有のもの)ではなく、彼のもとの主のものです。人間であるかぎり、それらがなくては改心することができないので、彼から取り去られることはありません。というのは、悔い改めを行なうことができず、悪に対して闘うことができず、その後、悔い改めにふさわしい実を結ぶことができないからです。
それで、主から人間に自由と理性があり、人間はそれらから行動するので、自分自身からは行動しないで、自分自身からかのように行動することがいえます(*)。

生活の教え

101◀︎目次▶︎103

102 主は人間を愛し、彼のもとに住むことを望まれます。受け入れられ、相互に愛されないなら、人間を愛することも、彼のもとに住むこともできません――他のところからではなく、ここから結合があります。
その理由のために、主は人間に自由と理性を与えられました。自分自身からかのように考え、意志する自由とそれらにしたがった理性です。
ある者を愛し、その者と結び付つくことは、その者との相互関係なしに存在しません。その者に受け入れられなければ、入り、とどまることもありません。
人間の受け入れと相互関係は主からのものであるので、それゆえ、主は言われています、

わたしにとどまりなさい、わたしもあなたがたの中にとどまります(ヨハネ15・4)。
わたしにとどまり、わたしもその中にとどまる者は、多くの実を結びます(ヨハネ15・5)。
その日、あなたがたは……あなたがたがわたしに、わたしがあなたがたの中にいることを知ります(ヨハネ14・20)。

主は、人間が受け入れた彼のもとにある真理と善の中におられることもまた教えられています――

あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら……あなたがたがわたしの命令を守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまります(ヨハネ15・7、10)。
わたしの戒めを保ち、行なう者は……わたしを愛します。……わたしは彼を愛し、わたしは彼のもとに住みます(ヨハネ14・21、23)。

このように主は人間のもとのご自分のものの中に住まわれます。そして人間は主からのものの中に、したがって主の中に住みます。

生活の教え

102◀︎目次▶︎104

103 その往復するものと交替のもの、ここから相互のものが、主から人間のもとにあるので、それゆえ、主は、「人間は悔い改めを行なわなければならない」と言われています。また自分自身からかのようにでないなら、だれも悔い改め行なうことはできません。

イエスは言われました、「あなたがたが悔い改めないなら、すべての者はあなたがたと同じように滅びます」(ルカ13・3、5)
イエスは言われました、「神の国は近づきました。悔い改め……福音を信じなさい」(マルコ1・14、15)
イエスは言われました、「わたしは罪人を悔い改めへ招くために来ました」(ルカ5・32)
イエスは諸教会に言われました、「悔い改めなさい」(黙示録2・5、16、21、22、3・3)

なおまた〔言われています〕、

自分の行ないから(を)悔い改めなかった(黙示録16・11)。

生活の教え

103◀︎目次▶︎105

104 往復するものと交替のもの、ここから相互のものが主から人間のもとにあるので、それゆえ、主は、人間は戒めを実行し、実を結ばなければならない、と言われています。

何なのかですか……わたしを「主よ、主よ」と呼び、わたしの言うことを行なわないのは?(ルカ6・46―49)。
これらのことをあなたがたが知り、それらをあなたがたが行なうなら、あなたがたは幸せです(ヨハネ13・17)。
わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です(ヨハネ15・14)。
行ない、教える者は、天の御国で偉大な者と呼ばれます(マタイ5・19)。
わたしのことばを聞いて、それを行なうすべての者を……わたしは賢い男にたとえます(マタイ7・24)。
悔い改めにふさわしい実を結びなさい(マタイ3・8)。
あなたは木を良いものに、その実を良いものにしなさい(マタイ12・33)。
御国は……その実を結ぶ国民に与えられます(マタイ21・43)。
実を結ばないすべての木は……切り倒され、火の中に投げ込まれます(マタイ7・19)。

その他、多くの箇所に。
これらから、人間は自分自身から行なわなければなりませんが、主の力から行なうのであって、その主の力を請い求めなくてはならないことが明らかです。このことが自分自身からかのように行なうことです。

生活の教え

104◀︎目次▶︎106

105 往復するものと交替のもの、またここから相互のものが主から人間のもとにあるので、それゆえ、人間は自分の働きの勘定書きを支払わなければならず、その働きにしたがって報いられます。なぜなら、主は言われているからです、

人の子は……来ようとしています。それぞれの者にその行ないにしたがって報います(マタイ16・27)。
善を行なった者はいのちの復活の中へ、悪を行なった者は裁きの復活の中へ出て行きます(ヨハネ5・29)。
彼らの行ないは彼らのあとに続く(黙示録14・13)。
すべての者はその働きにしたがって裁かれた(黙示録20・13)。
見よ、わたしは……来る。わたしの報いはわたしとともにあり、それぞれの者にその働きにしたがって報いる(黙示録22・12)。

人間のもとに往復するものがないなら、転嫁は決して存在しません。

生活の教え

105◀︎目次▶︎107

106 人間のもとに受け入れることと往復するものがあるので、それゆえ、教会では、人間は自分自身を調べ、神の前に自分の罪を告白し、それらの罪から離れ、新しい生活を送らなければならないことが教えられています――キリスト教界のすべての教会がそのことを教えていることは前に見られます(3―8番)。

生活の教え

106◀︎目次▶︎108

107 人間による受け入れが、またその時、自分からのような思考がなかったなら、信仰について何らかのものが教えられることもありませんでした。なぜなら、信仰も人間からのものではないから――そうでなれば、人間は風の中の籾殻のようになり、自分の救いについて何も考えず、何ら働きかけもせず、口を開け、手をだらりとさせ、流入を待って、いのちがないかのように立っているでしょう――確かに、自分の救いについて何も働きかけませんが、それでも、自分自身からかのように反応しています。
しかしこれらについて、『天使の知恵』についての論文の中で、さらに明るい光があてられるでしょう。

生活の教え

107◀︎目次▶︎109

(14)だれかが悪を罪であるからという理由以外の他のどんな理由から避けても、彼は悪を避けない、ただ世の前に見られないようにするだけである。

108 十戒の第二の板〔に書かれたこと〕を守り、だまさず、冒涜せず、復讐せず、姦淫しない道徳的な人がいます。彼らは、このようなことが、国家の害であり、したがって人道にかなう法に反している悪であると自分自身に確信し、仁愛・誠実・公正・貞潔を実践します。
しかしこれらの善を行ない、それらの悪を避けても、単に悪であるので避けて、同時に罪であるので避けないなら、やはり彼らは単に自然的な者です。単に自然的な者のもとには悪の根が植え付けられて残り、取り除かれません。それゆえ、彼らの行なう善は、自分自身から行なうものなので、〔霊的な〕善ではありません。

生活の教え

108◀︎目次▶︎110

109 自然的で道徳的な人は世の人々の前で、まったく霊的で道徳的な人のように見られることができます、しかし天界の天使の前では見られません。
天界の天使の前で彼らは、善の中にいるなら、木からできた彫像のように、また真理の中にいるなら、大理石からできた彫像のように見え、それらにいのちはありません。霊的で道徳的な人は異なります――なぜなら、自然的で道徳的な人は外なる道徳的な人であり、霊的で道徳的な人は内なる道徳的な人であり、内なるものがなくて外なるものは生きことはないからです。確かに生きてはいます、しかしいのちと呼ばれる〔ような〕いのちはありません。

生活の教え

109◀︎目次▶︎111

110 出生のときから人間の内的なものをつくっている悪の欲望は、主おひとりによらなければ取り除かれません。なぜなら、主は霊的なものから自然的なものの中に流入するけれども、人間は自然的なものから霊的なものの中へ自分自身から流入しようとするからです。この流入は秩序に反していて、欲望に働きかけ、それを遠ざけることはなく、かえって、あたかも自分自身で確信するかのように、それをさらに固くまたさらに固く閉じ込めます――この遺伝悪はこのように閉じ込められ、隠れていて、それは死後、人間が霊となる時、世の中でそれを隠していたおおいを破り、外側だけが癒されていた潰瘍から膿が出てくるように突発します。

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110◀︎目次▶︎112

111 人間を外なる形で道徳的であるようにするさまざまな理由があります。しかし内部でもまた道徳的でないなら、やはり道徳的ではありません。
その例として、だれかが姦淫や淫行を、民法とその罰への恐れから――名声とそこから名誉を失うことの恐れから、それらからの病気の恐れから、家で妻からガミガミ言われ、そこから生活の安らぎを失う恐れから、夫または親族から復讐される恐れから、貧困または貪欲から、病気あるいは濫用あるいは年齢あるいは(性的)不能から起こる虚弱から慎む――それどころか、何らかの自然的または道徳的な法からそれらを慎むにしても、同時に霊的な法から慎まないなら、その者はやはり内的に姦淫者であり、淫行者です。というのは、それでもなお、彼は罪でないことを信じ、ここから自分の霊の中でそれらは神の前に許されるとして、このように霊の中でそれらを犯すからです。それでも世の前で、身体の中では犯しません――それゆえ、死後、霊となるとき、公然とそれらを弁護します。
これらから、不信心な者が悪を害として避けることができること、しかし、キリスト教徒でないなら悪を罪として避けることができないことが明らかです。

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111◀︎目次▶︎113

112〔ここで姦淫や淫行を例としましたが〕すべての種類の盗みや欺瞞も、すべての種類の殺人と復讐も、またすべての種類の偽証と偽りも同様です――これらから、だれも自分自身により、清潔にされ、清められることはできません。というのは、欲望のそれぞれに無限なものが内在し、それらを人間は単純な一つのもののようにしか見ないからです。けれども、主は最も個々のものですら、連続するすべてのものの中で見られています。
一言でいえば、人間は自分自身を再生させることは、すなわち、自分自身の中に新しい心と新しい霊を形作ることはできません、しかし「改革者」と「再生者」ご自身であられる主おひとりができます――それゆえ、人間が自分の思慮と知性から自分自身を新しいものにすることを欲するなら、それはただ醜い顔に紅をつけ、腐敗で内部が損なわれた部分に洗剤を塗りつけるだけのことです。

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112◀︎目次▶︎114

113 それゆえ、主は「マタイ福音書」で言われています、

盲目のパリサイ人よ。まず、杯と皿の内側を清めなさい、外側もまたきれいになるように(23・26)。

また「イザヤ書」に、

あなたがたを洗え、あたながたを清めよ、わたしの目の前からあなたがたの悪意の働きを取り除け、悪を行なうことをやめよ。……その時、たとい、あなたがたの罪が緋のようであったにしても、雪のように白くなる。たとい、紫のように赤くあったにしても、羊毛のようになる(1・16、18)。

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113◀︎目次

114   前述のことに次のことをつけ加えます――

(1)自分の職務を誠実に果たすそれぞれの者にキリスト教の仁愛がある。というのは、このように悪を罪として避けるなら、日々、善を行ない、その者自身が共同体の中で自分自身の役立ちとなっているからである。さらにまた、このように共通の善が、また個別的にそれぞれの善がはかられる。

(2) その他のものは仁愛の本来の働きではなく、そのしるし、あるいは善行、あるいは義務である。

(終わり)


エマヌエル・スヴェーデンボリ著『生活の教え』
2020年9月 スヴェーデンボリ出版/SPSC発行
ラテン語原典より和訳:鈴木泰之