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最後の審判と世の終わり

目次▶︎002

 第一部 最後の審判について

1[2117] 今日、最後の審判とは何か知っている者はわずかであり、世の滅亡とともに起こると思っています。ここから、世の中で見られるものと一緒に地球を滅ぼす火があると憶測されています。またその時に初めて、死んだ者が復活し、審判の前に立たされます。その時、悪い者は地獄の中へ投げ込まれ、善い者は天界の中に上げられます。これらの憶測は、みことばの預言からであり、そこには、新しい天と新しい地について、さらにまた新しいエルサレムについて述べられています。内意で、みことばの預言が、文字どおりの意味で考えるもの以外の他のものを意味することをまったく知らない者は、「天」によって天が、「地」によって地が意味されないで、全般的に主の教会、個別的にそれぞれの者のもとの教会が意味されることを知りません。

最後の審判と世の終わり

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2 [2118] 「最後の審判」によって、教会の終わりの時が、なおまた、それぞれの者の生活(いのち)の最後の時が意味されます――「教会の最後の時」については、洪水前にあった最古代教会に最後の審判があり、それは彼らの子孫が滅んだ時であり、その滅亡が洪水によって描かれています。
洪水後にあった古代教会の最後の審判は、その教会のほとんどすべての者が、偶像崇拝をする者になり、追い散らされたときでした。
ヤコブの子孫のもとに続いた表象的な教会の最後の審判は、十部族が捕虜として連れ去られ、また異教徒の間に追い散らされ、その後、主の来臨の後、ユダヤ人たちがカナンの地を追い出され、全地に追い散らされたときでした。
キリスト教会と呼ばれているこの教会の最後の審判は、ヨハネの「黙示録」の中で、「新しい天と新しい地」によって意味されるものです。

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3[2119] 死ぬときの「それぞれの人間の生活の最後のもの」が、彼にとって最後の審判であることは、ある者に隠されていません、しかし、それでも、わずかな者しか信じていません。そのときそれでもなお、それぞれの人間が、死後、来世の中でよみがえり、審判の前に立たされることは不変の真理です――しかし、この審判は次のようです――彼の身体が冷たくなるとすぐに、数日後に起こりますが、彼は主により最初に彼のもとにいる天的な天使によってよみがえります。しかし、〔彼が〕彼らとともにいることができないような者であるとき、霊的な天使により、また引き続いて、その後、善霊たちにより受け入れられます。なぜなら、すべての者は、どれほど多くても、来世の中にやって来て、やって来る者は歓迎され、受け入れられるからです。しかし、悪の生活を送った者はその欲望が続くので、天使と善霊のもとに長らくとどまることができません、しかし、引き続いて、自分自身で彼らから分離し、このことが、似た霊にやって来る間、また世の中で持った生活と一致する生活にやって来る間、それだけ続きます。その時、彼にあたかも自分の身体の生活(いのち)の中にいるかのように見えます、〔この生活は〕本的に生活(いのち)の連続でもあります。この生活により彼の審判が始まります――悪い生活を送った者は、時の経過を経て、地獄へ下り、善い〔生活を送った〕者は、主により次第に天界へ上げられます――それぞれの者の最後の審判はこのようなものであり、そのことについて経験から「第一部(巻)」で述べました。

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4 [2120] 主が最後の時について語られたことは、その時、海と波はとどろき、太陽は暗くされ、月は自分の光を与えず、星は天から落ち、国民は国民に反抗して、また王国は王国に反抗して立ち上がる、といった多くのことであり(マタイ24.7,29,ルカ21.25)、〔そこの〕すべてと個々のものは、最後の審判の時、教会がどのようになるか、その状態を意味します。また「海と波がとどろく」こと、そのように「多くの音を立てる」ことによって、全般的に、教会内の、また個別的に、それぞれの者の中の異端と論争以外に他のものは何も意味されません。「太陽」によって主への愛と隣人に対する仁愛、「月」によって信仰、 「星」によって信仰の知識、それら以外に何も意味されません。それらは最後の時にそのように暗くされます。「光を与えず、天から落ちます」、すなわち、消えます(主により「イザヤ書」13.10で言われたことも同様です)。なおまた、「国民は国民に反抗して、また王国は王国に反抗して」によって、悪は悪に反抗して、また虚偽は虚偽に反抗して、ということ以外に何らかのものは意味されません。等々。
このように主が語られたことは、多くの隠された理由からでした。
私は、海・太陽・月・星、国民・王国がこのようなものを意味することを確かに知っており、「第一部(巻)」に示しました。

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5[2121] 最後の審判が切迫していることは、地上で、また教会内で、そのように明らかにすることはできません、しかし、来世の中で明らかにできます。霊たちの世界は、今日、危険な悪鬼と悪霊で、キリスト教界の中で最大に満ちています。また、彼らの間では、憎しみ・復讐・残酷・わいせつな行為、なおまた狡猾な陰謀だけが支配しています――世から新しく来た霊魂が最初に到着する霊たちの世界だけでなく、しかし、そこにいる者のその内的な世界のスフェアもまた意図と目的に関して内的に悪でした。それらは同様に、おびただしく存在することができることに驚かされるほどにも満ちています。というのは、すべての者は一瞬のうちに地獄へ投げ込まれることはないからであり、このようなそれぞれの者が身体の中で持った自分の生活の中に戻り、ここから徐々に地獄に連れて行かれることが秩序の法則にしたがっているからです。主はだれも地獄へ投げ込まれません、それぞれの者が自分自身を投げ込みます。ここから、それらの霊たちの世界は、このようにおびただしく到着する者で、またしばらくそこにとどまっている者で最も満ちています。世からやって来る霊魂は、彼らから残虐に攻撃されます。またさらに、人間のもとにいる霊たちは(なぜなら、それぞれの人間は主により霊と天使たちによって支配されているからです)――以前よりもさらに人間に悪性の状態をもたらすためにかきたてられています、そのうえ、それだけ、人間のもとにいる天使たちは、ほとんど防ぐことができません、しかし、さらに遠く離れて人間の中に流入することを強いられます。
このゆえに、来世の中で、最後の時が切迫していることをはっきりと明らかにすることができます。

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005◀︎目次▶︎007

6[2122] 世から新しく来た霊魂についてもう一つのことは、キリスト教界から到着する霊魂は、〔自分が〕最大の者であること、そしてすべてのものを所有すること以外に、ほとんど何も考えず、励みません、そのようにすべての者は自己愛と世俗愛にとらわれていることです、それらの愛はまったく天界の秩序に反しています(2057番)――さらに、大部分の者は、不潔なこと・わいせつなこと・不敬なことしか何も考えません、そして自分たちの間で〔それら以外の〕他のことを何も話しません。なおまた、無意味なことを行ない、仁愛と信仰のものであるすべてのものをまったく軽蔑し、主そのものを認めません、それどころか、その方を告白するすべての者を憎みます。というのは、来世の中では、心で考えたことや思ったことを話すからです。またさらに、遺伝悪は両親の極悪非道な生活から、さらに悪性となっており、それらは隠れた、また心に抱いた内部の火のようであり、尊敬すべきものや敬虔なものに反対するさらなる冒涜へ向けて人間を以前よりも扇動しています。このような者が、来世の中に、今日、群れをなして到着し、前に言われたように、霊たちの世界の外部や内部のスフェアを満たしています――悪がこのように優勢となり、均衡が悪の側へ傾き始めるとき、ここから最後の時が切迫していること、また、その均衡は、教会内の者を捨て、教会外の他の者を受け入れることによって、回復されることがはっきりと知覚されます。

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7[2123] 最後の審判が切迫していることは、来世の中でも、次のことから明らかにすることができます。主から天界を通って霊たちの世界の中に流入するすべての善は、すぐにそこの悪・わいせつなもの・冒涜に、またすべての真理は、すぐに虚偽に、そのように、相互愛は憎しみに、誠実さは欺きに変えられます、等々。そのように、もはや善と真理の何らかのものが受け入れられることができないように、同様に人間の中に及んでいます(人間は霊によって支配されており、その霊は人間との伝達手段を持っています)――このことが私に多くの経験によって最もよく知られており、そのすべてを示すなら、多くのページを満たすでしょう。天界からの善と真理がどのように悪と虚偽へ変えられるか、なおまたその量と性を気づくことと聞くことが非常にしばしば〔私に〕与えられました。

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8 [2124] 私に、最古代教会の人間のもとにあった〔ノアの〕洪水以前の者の中の意志の善が失われたこと、しかし、今日、キリスト教会の人間のもとに知的な善が、その残余がわずかにしか存在しないほどに滅び始めたことが言われました――その原因は、感覚で捕えたものでないなら何も信じないこと、また今日、それらからだけでなく、しかし、古代人に知られていない哲学的な論証によってもまた、神的な秘義について推論されることであり、そのことによって、知性の光がまったく暗くされ、その曇らせることが、ほとんど追い散らされることができないように生じていることです。

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9 [2125] 今日のキリスト教会の人間がどんなものであるか私に見られるために、表象するものによって示されました――

真っ黒い雲の中に、私が戦慄するようなそのように黒い霊たちが、またその後、そのように恐ろしくない他の霊たちが見られた。また私に、何かを見るであろうと伝えられた――最初に、その時、私は、母親によりに、残酷に、血があたりに流れるように、くしけずられていた子どもを見た。そのことで、今日の幼児の教育がそのようなものであることが表象された。
その後、木が見られ、知識の木であったかのように知覚された。その中に、恐怖感を引き起こすような大きなマムシが伸びるのが見られた。そのマムシは幹の長さに比例して(★)見られた――マムシとともに木が消えて、犬が見られた。またその時、部屋の扉が開かれ、そこに炭(石炭)からのような黄色い明るさ〔が見られ〕、またそこに二人の女〔が見られた〕。台所であったことが知覚された、しかし、そこで見られたことは記すことが許されていない――私は、「その中にマムシが伸びた木は、教会の人間の状態がどんなものであるかを、今日、愛と仁愛に代わって、さらにまた体面(尊敬すべき行為)を見せかけて、そして欺きであらゆる側を包囲して、彼らに殺人を引き起こす憎しみがあること、なおまた、信仰のものであるそれらについての恐るべき考えを表象した。しかし、台所の中で見られたものは、それらの憎しみとさらに存在するようになるであろう考えを表象した」と言われた。

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10[2126] ほかにさらにまた、教会内にいて、無垢そのものに反している者が、今日、どのようであるか表象されました――

美しく無垢な幼児が見られた。それが見られて、外なる束縛が少しゆるめられた――それらによって、燃え立つことから、悪い魔鬼と霊が抑えられている。その時、幼児を非常に悪く扱い、殺そうとし始めた、ある者はこのように、また他の者はこのように。というのは、無垢は、来世の中で幼児によって表象されるから。しかし、私は、「彼らのいのちが身体の中にあったとき、彼らのもとに似たものが見られません」と言った。しかし、答えられた、彼らの内的なものはそのようなものであること、また市民の法律で、なおまた利益・名誉・名声が奪われることの恐れ、そして生命の恐れである他の外なる束縛で妨げられないなら、そのようにすべての無垢である者に対して発狂して突進する――彼らがこの答えを聞いたとき、そのこともまた彼らは愚弄した。

そこで、今日、彼らがどんなものであるか、なおまた、最後の審判が切迫していることを、これらの言われたことから、明らかにすることができます。

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11 [2127] 来世では、時々、悪い者の社会が分離されるとき彼らの前で、また天界の中に入れられるとき善い者の前で、ある種の最後の審判が見られます。それらのものについて、経験からそれらを述べることが許されています。

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12 [2128] 最後の審判の観念が悪い者の前に示され、それが、二度か三度、私に見られた、このようなものでした――

そのとき、私のまわりの霊たちが破壊的な(有害な)社会の中に結合し、その破壊的な(有害な)ものにまさっているために、自分自身が支配される秩序にしたがわないで、むしろ傲慢に他の社会を苦しめ、強い力でそれらに危害を加えることを始めるようなことが明らかにされる時、均衡の法則から、霊の相当に大きな集団が、右の上方に向かって、少し正面の方向から現われ、その近づくことから、あたかも揺れ、歩くかのような動乱が聞かれる。それを聞いて、霊たちの間に恐れとともに狼狽が、ここから混乱が生じ、その時、その社会の中に結合していた者は、ある者はここへ、他の者はそこへと追い散らされ、そのように互いに散らばり、仲間がどこに〔いるか〕知らない。このことが続くとき、霊たちには、〔それは〕すべてのものが滅亡するときの最後の審判のようにしか見えなかった。ある者は嘆き叫び、ある者は恐怖の前にあたかも心がないかのようになった、一言でいえば、すべての者は、いわばそれぞれの者の最後のような危険をつかみ取った。
[2]正面の方向から近づく音は、彼らにいろいろに聞かれた、ある者には、いわば武装した騎手の音のように、ある者には、恐れの状態に、またここからの〔彼らの〕幻想したがって異なって〔聞かれた〕。私には、連続する波動とともに、そのうえ多くのものが同時に、絶え間のないささやきのように把握された――私の近くにいた者から私は、社会がそのような悪で寄せ集められている時、言われたように、このような集団がその方向からやって来ること、また彼らは、ある者を他の者から引き離し、引き裂くこと、同時に、逃走以外に何も考えられないような恐れを引き起こすことを知っていること、また、このような分離と追い散らすことによって、その後、すべての者は主により秩序の中に整えられること、さらにまたこのようなものがみことばの中で「東風」によって意味されることを教えられた。

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13 [2129] 他の種類の騒動も、またはむしろ衝突があり、その観念もまた最後の審判を示しており、それらによって内的なものに関して悪で結合した社会は消滅させられました。それらについてここに述べることが許されています――

そのような霊が、社会または交際の中でいつものように考えるのではなく、しかし、だれもが自分自身から考えるような状態へと強いられる。このように思考のさまざまなもの、またいろいろな種類のぶつぶつ言う話し方から、あたかも多くの水のようなある種の騒音が聞かれ、彼らの衝突の間に、確信した真理についての意見の混乱から起こってくる描写ができないようなものがあり、それは霊的なカオス(混沌)と呼ばれることができるようなものである。
[2]ぶつぶつ言うような衝突の音は、あいまいな三重のものであった。一つは頭のまわりに流入し、それが思考のものであったことが言われた。もう一つは左のこめかみに向かって流入し、これはある真理についての推論の衝突であり、それらの真理の信仰を持つことを欲しないことが言われた。第三のものは右に向かって上方から流入した、それはそのように混乱した耳障りな音でなく、その耳障りな音(歯ぎしり)は、あちこちに向きを変えられた。ここから、真理が戦っていたこと、それらはそのように推論によってあちこちに向きを変えられたことが言われた――これらの衝突が続いたとき、やはり私と話した霊がいて、「彼らの会話の個々のものが何を意味するか、それらの音によって明確に浸透してくる」と言った。
[3]彼らの推論の主題は特に次のものであった。十二使徒が十二の王座の上に座り、イスラエルの十二部族をさばくことは、文字どおりの意味にしたがって理解されなければならないかどうか――なおまたさらに、迫害と悲惨さを被った者以外に他の者が天界の中に入れられるかどうか〔であった〕。それぞれの者が、身体のいのちの中で得た自分の想像力にしたがって、推論した。しかし、彼らのある者は、共有と秩序の中に追いやられ、その後、〔文字どおりの意味と〕まったく異なって理解されなければならないことを教えられた、すなわち、「使徒」によって使徒が、「王座」によっても王座が、「部族」によっても部族が、それどころか、「十二」によって十二が意味されないこと、しかし、それらによって、使徒も、王座や部族も、そのようにまた十二によって信仰の主要なものが意味された(2089(★)番)、これらから、またこれらにしたがって審判がそれぞれの者の上に行なわれること、また加えて、使徒たちは決してひとりの人間もさばくことができないこと、しかし、すべてのさばきは主にだけにあることが示された。
[4]また、もう一つのものについては、これも、迫害と悲惨さを被った者だけが天界の中にやって来ることのように理解されてはならない、しかし、富んだ者も貧しい者も、高位にいる者も卑しい身分にいる者も、主はすべての者に、特に、悪い者からの迫害である霊的な悲惨さと試練の中にいた者に哀れみを示される。そのように、自分自身から自分自身を悲惨であったことを認め、〔自分たちが〕救われるのは主の慈悲だけによると信じる者である。

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14[2130]第二の主題、すなわち、天界の中に入れられるとき善い者の前に〔示される〕最後の審判の観念について、どのようであるか述べることが許されています――みことばの中に、もはや入れることができないために扉が閉ざされたこと、また、油が不足し、そしてさらに遅れてやって来たこと、またそれゆえ、入れられないことが言われ、それらによってもまた最後の審判の状態が意味されています〔本書の第二部 ⑾ 43―46参照〕。これらがどのようなものであり、またどのように理解すべきか私に示されました。

[2]私は、一つその後もう一つと霊たちの社会が、はっきりした声で、「オオカミが彼らを連れ去ることを欲したこと、しかし、主が彼らを取り出し、またこのように主により戻された」と言っているのを聞いた、それゆえ、心の最内部からうれしがった。というのは、扉が閉ざされ、また、入れられることができないように遅れてやってきたことから、絶望の中に、そのように恐れの中にいたから。このような考えが、彼らにオオカミと呼ばれる者から注ぎ込まれた、しかし、入れられることによって、すなわち、天使の社会により受け入れられることによって〔その考えは〕消えた。天界の中へ入ることは他のものでない。入ることは私に、十二までも社会を通って行なわれ、続いたように見られた、また十二〔番目の社会〕は、前の十一〔の社会〕よりも、入れられるのが、すなわち、受け入れられるのがさらに困難であった。その後、さらにまた、女性からのものであった八つのいわば社会に入れられたことが、私に知らされた――それらが見られて、この入れられること、すなわち、天界の社会の中に受け入れられることの過程は、そのように見え、このことが、順序で、一つの場所からもう一つの中へ続いている、なおまた、「天界は決して永遠に満たされない、まして扉は閉ざされない」と言われた。多くの者がやって来れば来るほどますます、それだけ天界の中に者に祝福と幸福があり、ここから一致が強くなるからである。
[3] 彼らが入れられた後で、その時、あたかも天界が閉ざされたかのように見えた。というのは、その後もまた入れられることを、すなわち、受け入られることを欲した多くの者がいたから。しかし、これから〔以後〕はできない、との答えが与えられた。そのことは「さらに遅れてやって来る者」、「閉ざされた扉」、「叩く者」によって、「彼らに明りの中の油が不足した」ことによって意味されている。彼らが入れられなかったことの理由は、そこに相互愛がある天使の社会の間にいることができるような準備がまだされていなかったからである、なぜなら、前の2119[3]番の終わりに言われたように、世の中で隣人に対する仁愛の中に生きた者は、徐々に天界の中へ主により上げられるからである。
[4]さらにまた、何が天界か、相互愛であることを知らなかった他の霊たちがいた。その者もまた、その時、単に入れられることであると思って、入れられることを欲した、しかし、彼らにまだその時でないこと、しかし、用意された他の時であるとの返事を受け取った――十二の社会が見られたことの理由は、「十二」は、前の2129[13]番の終わりに言われたように、信仰のすべてのものを意味するからである。

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014◀︎目次▶︎016

15[2131] 入れられる者たちは、天使の社会から最内部の仁愛とそのうれしさとともに受け入れられ、そして彼らにすべての愛と友情が示されます。しかし、喜んで最初にやって来たその社会の中にいることを欲しない時、別の社会により受け入れられ、このことは、彼らにある相互愛のいのちにしたがって一致している社会にやって来る時まで継続し、そしてそこに、〔自分たちが〕さらに完成された(完全な)ものになるまでとどまり、またここからその時、さらに大きな幸福の中に上げられ、高められます。このことは、主の慈悲から、世の中で受け入れた愛と仁愛の生活(いのち)にしたがって、行なわれます――しかし、ある社会から別の社会の中への移動は決してそこにいる社会からの排斥によって生じません、しかし、彼のある意志によって、主により彼に徐々に持ち込まれる願望にしたがって生じ、願望にしたがっているので、何でも自由から生じています。

最後の審判と世の終わり

015◀︎目次▶︎017

16 [2132]みことばの中に、「婚礼の衣服を着ていなかった者もまた入った」こと、また彼が追い出されたことが言われており(マタイ22:11-13)、これはどのようなことであるかもまた示されました――

いのちが身体の中にあったとき欺くことを教え込まれ、光の天使を偽り装うことができるような者がいて、来世の中でその偽善の状態の中にいるとき、その者はさらにまた自分自身を最も近い天界の社会の中へ入り込ませることができる。しかし、長い間、そこにいることは続かない、というのは、そこの相互愛のスフェアを知覚する時、すぐさま、恐れと身震いに襲われ、そしてその時、霊たちの世界の中で、ある者は池へ向かって、ある者はゲヘナへ向かって、ある者は何らかのある地獄の中へ、投げ落とされるように見える。

最後の審判と世の終わり

016◀︎目次▶︎第2部001

17[2133] 二度か三度、主の神的慈悲から、私に主への普遍的な賛美を聞いているかのような天界が開かれました、それは、多くの社会が、一緒にまた一つの心で、しかしそれでもどんな社会もそれ自体の区別された情愛と観念によって主を賛美したようなものでした。聞かれる声には、その末端がないかのような、宇宙を見る時の視覚のような、これほどに果てしなく遠くまた広く聞かれる天界的な声でした。またこのことが最内部のうれしさと最内部の幸福と一緒でした。
さらにまた、主の賛美が、時々、心の内側を流れ下り、感動させる光線の放射のように知覚されました。
この賛美は〔彼らが〕静けさと平和の状態の中にいる時に生じます、なぜなら、その時、彼らの最内部のうれしさから、そして幸福そのものからその賛美が流れ出るからです。

最後の審判と世の終わり

第一部 017◀︎目次▶︎003

第二部

(1)「マタイ福音書」24.3―8の解説  1―4

1[3353] 大部分の人間は、最後の審判がやって来るとき、世の中に見られるすべてのものが滅ぼされる、すなわち、地が焼き尽くされ、太陽と月が消滅し、星が消え、またその後、新しい天と新しい地が起こると信じています。〔彼らは〕その見解をこのようなものが記録されている預言の啓示から受け入れています。しかし、事実が異なっていたことは、「最後の審判」について前に示されたことから明らかにすることができます(900, 931, 1850, 2117-2133[1-17]番)。ここから、「最後の審判」は、一つの国民のもとの教会の終わり、そして他の国民のもとのその始まり以外の他のものではないことが明らかです。その時、存在するようになるその終わりとその始まりは、もはや主の承認が何もない時、または同じことですが、何も信仰がない時です。何も仁愛がないとき、何も承認が、すなわち、何も信仰がありません、なぜなら、信仰は仁愛の中にいる者のもとにしか決してありえないからです。その時、教会の終わりと他のものへ移ることは、それらを主ご自身がその最後の日について、すなわち、世代の完了(世の終わり)について、「福音書」で、すなわち、「マタイ福音書」第24章、「マルコ福音書」第13章、「ルカ福音書」第21章で教え、予言されたそれらのすべてからはっきりと明らかです。
しかし、それらは内意である鍵がなくては、だれからも把握されることができないので、それらをそこにあるものから順次、説明することが許されています。さて、ここで最初に、「マタイ福音書」のそれらは――

[2]弟子たちはイエスに近づいて、「あなたの来られることと世代の完了(世の終わり)のしるしが何か、いつそれが起こるか、私たちに言ってください」と言った。イエスは彼らに答えて言われた。「あなたがたは、だれかに惑わされないように気をつけなさい。というのは、多くの者が、『私がキリストである』と言って、わたしの名前にやって来て、多くの者を惑わすからです。あなたがたは戦争のことを、また戦争のうわさを聞くでしょうが、あなたがたは、〔心を〕乱されないように気をつけなさい。というのは、〔これら〕すべてのことが起こるからです、しかし、まだ終わりではありません。なぜなら、国民は国民に対して、また王国は王国に対して起き上がり、いろいろな場所に飢饉・疫病・地震(地の動き)があるからです。けれども、これらのすべてのことは苦痛の始まりです」(24:3-8)。

文字どおりの意味の中にとどまる者は、これらやその章の中に続いているものが、エルサレムの破壊とユダヤ民族が追い散らされることについて言われたのか、あるいは「最後の審判」と呼ばれる日々の終わりについて言われたのか、知ることができません。しかし、内意の中にいる者は、ここに教会の終わりが扱われていること、その終わりが、ここにまた他のところに主の来臨と世代の完了(世の終わり)と呼ばれているものであることをはっきりと見ます――またその〔教会の〕終わりが意味されるので、それらのすべてのものは教会に属すようなものを意味する、と知ることができます。けれども、内意で何が意味されるかは、個々のものから明らかにされます――
例えば、「多くの者が『私がキリストである』と言って、わたしの名前にやって来る」は、そこの「名前」は名前を意味せず、「キリスト」もキリストを意味しないで、「名前」は主が礼拝されるもの(手段)を意味します(2724, 3006番)。また「キリスト」は真理そのものを意味します(3009, 3010番)。「これは信仰に属すものである」、すなわち、「これは真理である」、と言う者がやって来ることもそうであり、実際には信仰に属すものも真理ではなく、虚偽です――「戦争のことを、また戦争のうわさを聞く」は、真理について論争と争いがあることであり、それが霊的な意味での戦争です――「国民は国民に対して、また王国は王国に対して起き上がる」は、悪は悪と、虚偽は虚偽と争うであろうことを意味します。「国民」は善です、しかし、正反対の意味では悪です(1259, 1260, 1416, 1849番)、また「王国」は真理です、しかし、正反対の意味では虚偽です(1672, 2547番照)――「いろいろな場所に飢饉・疫病・地震がある」は、もはや善と真理の知識が何もないことです、そしてそのように教会の状態が変えられること、それが「地震」です。

最後の審判と世の終わり

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2 [3354] これらから、何がそれらの主のことばによって意味されるか明らかです、すなわち、ゆがめられた教会の最初の状態であり、それはもはや、何が善で何が真理か知らず、しかし、それらについて自分たち自身の間で論争し、それらから虚偽が生まれ始める時です――それが最初の状態であるので、「まだ終わりではない」、「それらは苦痛の始まりである」と言われます、またその状態が「いろいろな場所の地震」と呼ばれます、それは内意で、教会の状態が部分的に、すなわち、最初に、変化することを意味します。
弟子たちに言われた」は、教会からのすべての者に言われたことを意味します、なぜなら、十二人の弟子たちは彼らを表象したからです(2089, 2129[13]、2130[14]番)、それゆえ、「あなたがたは、だれかに惑わさないように気をつけなさい」、なおまた「あなたがたは戦争のことを、また戦争のうわさを聞くでしょうが、あなたがたは〔心を〕乱されないように気をつけなさい」と言われました。

最後の審判と世の終わり

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3[3355] 内意では、「地震(地の動き)」が教会の状態の変化であることは、教会である「地」の意味から明らかです(それについては、566, 662, 1066, 1068, 1262, 1733, 1850, 2117[1], 2118[2], 2928番)、また状態の変化である「動き」の意味から、ここでは教会のもの、すなわち、善と真理に関してであることが明らかです。そしてまた、みことばの他の箇所から明らかです、例えば「イザヤ書」に、
起こる、恐怖の声から逃げる者は穴に落ち込み、穴の真ん中から上る者はわなに捕えられる。瀑布が高いところから開かれる、〝地の基がゆさぶられた〟からである。〝地は〟、粉砕に、〝粉砕された〟。〝地は〟、揺り動かされに、〝揺り動かされた〟。〝地は〟、酔いどれのように、揺れに、揺れた。小屋のようにぐらついた。その〔〝地〟の〕上に、そのそむきの罪は重く、倒れ、再び立ち上がることを加えない――その日に、エホバは高いところの中の高いところの軍隊に、また〝土地〟の上の〝土地〟の王たちの上に、審判を下される(24:18, 19, 21)

そこの「」が教会であることが、はっきりと明らかです、なぜなら、教会について扱われており、善と真理がもはや知られないとき「基がゆさぶられた、その地が粉砕された、揺り動かされた、揺れた、ぐらついた」と言われているからです。「土地の王たち」は〔教会の〕真理であり、ここでは審判が下される虚偽です。「王たち」は真理であり、正反対の意味では虚偽です(1672, 2015,〔2069〕番)、また「土地」は地と同様です、すなわち、教会です、しかし、相違があります(566, 1068番照)――
[2]同書に、

わたしは人間を純金よりも、人間をオフィルの金よりもまれにする。それゆえ、わたしは天を揺り動かし、万軍のエホバの憤りの中で、またその方の怒りの燃え上がる火の中で、〝地はその場所から揺り動かされる〟(13:12, 13)。

そこに審判の日について〔述べられています〕。そこでもまた「」は明らかに教会を表わし、それは状態に関して変化されるとき「場所から揺り動かされる」と言われます。「場所」は状態です(1273-1275, 1377, 2625, 2837番照)――同書に、

この者が、〝地を揺り動かし〟、〝王〟を揺り動かし、世界を荒野の中に置き、その都を破壊する男なのか? (14:16, 17)

そこに明けの明星(魔王)について〔述べられています〕。「」が教会を表わし、そのすべてのものを自分自身に要求するとき「地を揺り動かす」ことが、言われます。「王国」は教会のものである真理です(1672, 2547番照)――
[3]「エゼキエル書」に、

その日、ゴグが〝イスラエルの地〟の上にやって来る。わたしの怒りの中に、わたしのねたみの中に、わたしの憤りが上る。わたしの憤慨の火の中でわたしは話す、必ずや、その日に、イスラエルの〝土地〟の上に大きな〝地震〟がある(38:18-20)。

ゴグ」は内なるものから分離し、このように偶像崇拝となった外なる礼拝を表わします。「地とイスラエルの土地」は霊的な教会を表わし、「地震」はその状態の変化を表わします――「ヨエル書」に、

その方の前で〝地は揺り動かされ〟、天は震え、太陽と月は暗くなり、星はその輝きを引っ込めた(2:10)。

そこもまた最後の日について〔述べられています〕。「地震」は教会の状態の変化を、「太陽と月」は愛の善と信仰の真理を表わします(1529, 1530, 2441, 2495番)。善と真理がもはや認められないとき、それらが「暗くなる」と言われます。「」は善と真理の知識を表わします(2495, 2849番)――ダビデの書に、

地はゆさぶられた、また揺り動かされた〟。また、山々の基は揺れ動かされ、ゆさぶられた、その方が激怒されたからである(詩篇18:7)。

ゆさぶられ、揺り動かされた地」は、ゆがめられた教会の状態を表わします。
[4]ヨハネの「黙示録」に、

さらに私は見た。第六の封印が開かれたとき、そのとき見よ、〝大きな地震があった〟。太陽は粗い麻布のように黒くなり、月全体は血のようになった。天の星は地上に落ちた(6:12, 13)。

そこの「地震・太陽・月・星」は前の「ヨエル書」と同様のことを意味します――同書に、

その時、〝大きな地震があった〟、都の十分の一が倒れ、〝地震〟の中で七千の人間の名前が死んで倒れた(11:13)。

それらのすべての箇所から、「地震」が教会の状態の変化以外の他のものではなく、また「」が内意で教会以外の他のものではないことが明らかです。「地」が教会であるので、「新しい天と新しい地」によって前のものに代わって続いた教会であることが明らかです(イザヤ45:17, 46:22, 黙示録21:1)。内なるまた外なる新しい教会以外の他のものは意味されません(1733, 1850, 2117[1], 2118[2]番以降)。

最後の審判と世の終わり

003◀︎目次▶︎005

4[3356] 「運動」が状態の変化であることは、運動が空間の中と時間の中で生じ、また来世(あの世)に、空間と時間の観念は何もなく、しかし、それらに代わって状態があるからです。来世では、確かにすべてのものが空間の中に見られ、時間の中で続いているかのようです、しかし、本的には状態の変化です、なぜなら、状態の変化から空間と時間が存在するからです。このことは、それぞれの霊に、悪い霊にも、最もよく知られています。状態の変化によって他の者に〔自分が〕他のところで見られるようにする者がいますが、そのとき、それでも〔その者は〕そこにいません。人間もまた、人間が情愛とそこから楽しさの状態の中にいればいるほど、また思考とそこから身体が存在しない状態の中にいればいるほど、それだけ時間の中にいないことから、よく知ることができます。なぜなら、その時、多くの時間が彼にはほとんど1時間でもないように思えるからです。このことの原因は、彼の内なる人に、すなわち、霊に、いろいろな状態があるからであり、それらの状態に外なる人のいろいろな空間と時間が対応しているからです。それで「運動」は、空間と時間の中の継続する進行であるので、内意では状態の変化です。

最後の審判と世の終わり

004◀︎目次▶︎006

(2)「マタイ福音書」24:8-14の解説 5-8

5 [3486] 前章の〔創世記〕第26章の前〔の部分〕に3353-3356[1-4]番が説明されました。〔そこでは〕「マタイ福音書」の第24章3-7節で、主は、世代の完了(世の終わり)、すなわち、教会の期間の最後について、話し、預言されました。ここに、主の神的な慈悲から、そこに順に続くものから、すなわち、それらは同じ福音書のその章の8-14節から、次のことばを説明することが許されています。

これらのすべてのことは苦痛の始まりです。その時、〔彼らは〕あなたがたを艱難の中に引き渡し、あなたがたを殺し、わたしの名前のために、あなたがたはすべての国民から憎まれます。またその時、多くの者がつまずき、互いに引き渡し、互いに憎みます。また、多くのにせ預言者が起こり、多くの者を惑わします。不正が増されるために多くの者の仁愛が冷たくなります。けれども、終わりまで続ける者は救われます。この王国の福音が全居住地の中に、すべての国民への証しとして宣べ伝えられ、その時、終わりがやって来ます。

最後の審判と世の終わり

005◀︎目次▶︎007

6[3487] 前の3353-3356[1-4]番で説明されたそれらのことばによって、ゆがめられた教会の最初の状態が述べられましたが、そのゆがめられた教会は、何が善で何が真理かもはや知らないことが始まり、それらについて自分たちの中で論争し、それらからの虚偽がある状態でした。けれども〔直前の5番の〕これらのことばによって、ゆがめられた教会の第二の状態が述べられており、それは善と真理が軽蔑され、そしてまた退けられ、このように仁愛がやむような段階にしたがって、主への信仰が消滅することです。

最後の審判と世の終わり

006◀︎目次▶︎008

7 [3488] ゆがめられた教会の第二の状態が、福音書の主のそれらのことばによって述べられたことは、それらの内意から明らかであり、それは次のようなものです――「これらのすべてのことは苦痛の始まりです」は、先行すること、すなわち、ゆがめられた教会の最初の状態を意味します、それは、〔前に〕言われたように、もはや何が善で何が真理か知らず、それらについて彼らの間で論争することが始まり、それらから虚偽が、それゆえ異端があることです。このようなことが、何世紀も前に教会をゆがめたことは、教会がキリスト教界の中で分裂したことから明らかです。またこのことは善と真理についての見解にしたがっており、そのように、ゆがめられた教会は、以前から多くの時代で始まっていました。
[2]「その時、〔彼らは〕あなたがたを艱難の中に引き渡し、あなたがたを殺します」は、善と真理が、最初に「艱難」によって、すなわち、曲解によって、その後、それらを「殺す」ことによって、すなわち、否定することによって、失われることを意味します。「殺す」ことが善と真理について述べられるとき、そのように否定することです(3387, 3395番参照)。「あなたがた」によって、すなわち、使徒たちによって、全体として一つの中の、そのようにその善も真理も信仰のすべてのものが意味されます(十二の使徒たちによって、それらが意味されることは、577, 2089, 2129[13], 2130[14]番以降、3272, 3354[2]番照)。また、ここにはっきりと明らかです、というのは、使徒の属性についてではなく、しかし、世代の完了(世の終わり)について扱われているからです。
[3] 「わたしの名前のために、あなたがたはすべての国民から憎まれます」は、善と真理に属すすべてのものに対する軽蔑と離反を意味します。「憎むこと」は軽蔑することと退けることです、というのは、これらは憎しみであるから。「すべての国民から」は、悪の中にいる者からです(「国民」が彼らであることは、1259, 1260, 1849, 1868番、2588番以降参照)。「わたしの名前のために」は、主のために、そのようにその方からのすべてのもののために、〔ということ〕です。「主の名前」は、それによって礼拝される全体として一つの中のすべてのもの、そのようにその方の教会に属すすべてのものです(2724, 3006番)。
[4]「またその時、多くの者がつまずき、互いに引き渡し、互いに憎みます」は、それらに対する敵意を意味します。「多くの者がつまずく」は、彼らの間の敵意です。敵意は主の人間性そのものに対してです。それがつまずき(妨害)とつまずきの石(反感)であることは、みことばの中のあちこちに言われています。「互いに引き渡す」は、真理に対する虚偽からの、彼らの間の敵意です。「互いに憎む」は、善に対する悪からの、彼らの間の敵意です。
[5]「また、多くのにせ預言者が起こり、多くの者を惑わします」は、虚偽の説教を意味します。「にせ預言者」は、虚偽を教える者、そのように虚偽の教えです(2534番照)。「多くの者を惑わす」は、ここから派生するものがあることです。
[6]「不正が増されるために多くの者の仁愛が冷たくなります」は、信仰とともに仁愛の死を意味します。「不正が増されるために」は、信仰の虚偽にしたがって、です。「多くの者の仁愛が冷たくなります」は、仁愛の死です。というのは、二つとも、足並みをそろえて見られるからです。信仰のないところに仁愛がなく、仁愛のないところに信仰がなく、しかし、信仰を受けるものが仁愛であり、仁愛が何もないものは信仰を追い払います。ここから、すべての虚偽とすべての悪の起源があります。
[7]「けれども、終わりまで続ける者は救われます」は、仁愛の中にいる者の救いを意味します。「終わりまで続ける者」は、惑わされることを自分自身に許さない者です、そのように試練の中で屈服しない者です。
[8]「この王国の福音が全居住地の中に、すべての国民への証しとして宣べ伝えられる」は、このことが最初にキリスト教界の中で知られるようになることを意味します。「宣べ伝えられる」は、よく知られるようになることです。「この王国の福音」は、そのような〔宣べ伝えられる〕真理です。「福音」は知らせであり、「王国」は真理です(「王国」が真理であることは、1672, 2547番参照)。「全居住地の中に」は、すなわち、地に、キリスト教界に、〔ということ〕です(「地」が、そこに、そのようにキリスト教界に教会がある地域であることは、662, 1066, 1068, 1262, 1733, 1850, 2117[1], 2118[2], 2928, 3355[3]番照)。教会は、信仰の生活から、すなわち、真理のものである善の生活から、ここに「居住地」と呼ばれています、というのは、「住むこと」の内意は生きること、また「住民」は真理の善であるからです(1293, 2268, 2451, 2712, 3384番)。「証しとして」は、知るように、知らなかったことを口実としないように、〔ということ〕です。「すべての国民に」は、悪い者に、です(1259, 1260, 1849, 1868, 2588番)。というのは、虚偽と悪の中にいるとき、もはや何が善で何が悪か知らず、その時、虚偽を真理、悪を善と、また逆に、〔真理を虚偽、善を悪と〕信じるからです。教会がこの状態の中にあるとき「その時、終わりがやって来ます」。
さて、続けて、「創世記」の前に続けられて〔書かれて〕いるそれらの中で、主の神的慈悲から、教会の「荒廃の忌まわしいもの」と呼ばれる状態について扱い、それが第三の状態であることを説明します。

最後の審判と世の終わり

007◀︎目次▶︎009

8[3489] 教会がこのようなものであること、すなわち、善と真理に属すすべてのものを軽蔑し、退けていること、なおまたそれらに対して、特に主ご自身に対して敵意を抱いていることが、教会の中にいる者の前に見えません。というのは、〔彼らは〕礼拝所をしばしば訪れ、説教を聞き、そこにいるとき、ある種の聖なるものの中におり、聖餐に臨み、また自分たちの間で、いつでも、それらについて適当に、善い者と等しく悪い者もそのように話し、さらにまた自分たちの間で礼儀正しく、仁愛の中で、または友情の中で生活するからです。ここから、人間の目の前に何らかの軽蔑、まして反感、さらにまして信仰の善と真理に対する敵意が、そのように主に対しても見られません。しかし、それらは、それらによってある者が他の者を惑わす外なる形です。これに反して、教会の人間の内なる形はまったく違っており、さらにまた外なるものにまったく正反対です。ここに述べられているそれら〔軽蔑や敵意〕がこのようなものであり、それが内なる形です。これら〔内なる形〕がどのようなものであるかは、天界の中で生きいきと見られます。というのは、天使たちは、内なるもの、すなわち、目的または意図や意志、またそこからの思考以外の他のものに留意しないからです。これらがどれほど外なるものと似ていないかは、キリスト教界から来世の中にやって来る者から明らかにすることができます(彼らについては2121-2126[5-10]番参照)。
[2]というのは、来世(あの世)には、内なるものだけがあり、そこでは、それらにしたがって考え、話すから、なぜなら、外なるものは身体とともに残されるからです。そこ〔来世〕では、どれほど世の中で穏やかな者のように見えても、それでも互いに憎み、信仰に属すすべてのものを、特に主を憎んでいます。なぜなら、来世の中で単に彼らの前で主のことが言われるだけで、その方に対する軽蔑だけでなく、反感と敵意のスフェアが、彼らから、聖なるものの外観にしたがってその方について〔世の中で〕話し、そのようにまた説教した者からもまた、吐き出され、あたりに注がれることから、はっきりと明らかであり、仁愛と信仰のことが言われるときも同様であるからです――〔というのは〕内なる形の中でこのような者であるからであり、それらはそこで明らかにされます。例えば、もし〔彼らが〕世の中で生きた時、外なるものが彼らに自由にされ、得られたなら、すなわち、もしそこで、いのちを恐れず、法律を恐れず、そして特に、名誉のために評判を恐れなかったなら、それらを得ようと求め、また富のために、それらをほしがり、熱心に求め、互いに、内部の憎しみから、努力と思考にしたがって突進し、また何の良心もなしに他の者の財産を略奪し、そしてまたできるかぎり最大に罪のない者たちを何の良心もなしに皆殺しにしたであろうからです。今日のキリスト教徒は、内的なものに関して、それらを知らないわずかな者を除いてこのような者です。ここから、教会がどんなものであるか明らかです。

最後の審判と世の終わり

008◀︎目次▶︎010

(3)「マタイ福音書」24:15-18の解説 9-14

9 [3650] 「マタイ福音書」の第24章8から14節まで、最後の審判について、すなわち、教会の最後の期間について、主が教え、予言されたことを、前章(創世記第27章)の前で説明しました(3486-3489[5-8]番)。さて、この章でも、前に教えられたように、そこの15-18節の説明を順に続けます。

それで、あなたがたが預言者ダニエルにより言われた〝荒廃の忌まわしいもの〟が聖なる場所に立っているのを見るとき(読む者は、気づきなさい)、その時、ユダヤにいる者は、山へ逃げなさい。家の屋根の上にいる者は、自分の家から何かを取り上げるために、降りないようにしなさい。畑の中の者は、自分の衣服を取るために、後ろへ戻らないようにしなさい。

最後の審判と世の終わり

009◀︎目次▶︎011

10[3651] これらが秘義を含んでおり、それらの秘義が明らかにされることがないなら、「ユダヤにいる者は、山へ逃げなさい」、「家の屋根の上にいる者は、降りないようにしなさい」、「畑の中の者は、自分の衣服を取るために、後ろへ戻らないようにしなさい」という、これらのことが何〔を意味する〕か決して知ることができないことを、だれでも見ることができます。何を意味し、含むか、内意によって教えられないなら、みことばの探究者と解説者たちは、まったく異なる見解の中に連れ去られ、粉々にされます。実に、みことばの神聖さを心で否定する者もまた、このようなことばによって、ここから、敵の到来による単なる逃走と脱出が述べられていることを導き、それゆえ、そこには何も聖なるものがない、としてしまいます、そのときそれでも、主のそれらのことばによって、それらのことばの続きの説明から明らかにすることができるように、
愛の善と信仰の真理に関して教会の荒廃の状態が十分に述べられています。

最後の審判と世の終わり

010◀︎目次▶︎012

011[3652] それらは内意にしたがえば、次のようなものです――「それで、あなたがたが〝荒廃の忌まわしいもの〟を見るとき」は、教会の荒廃を意味し、それはその時、主がもはや認められず、それゆえ、その方への愛が何もなく、信仰が何もありません。なおまた、もはや隣人に対する何らかの仁愛がありません。したがって、善と真理の何らかの信仰がない時です。これらが教会の中に、すなわち、みことばがむしろそこの地域の中にあるとき、すなわち、口の教えの中になくても心の考えの中にある時、荒廃があり、それらが、すでに言われたその忌まわしいものです。ここから「あなたがたが〝荒廃の忌まわしいもの〟を見るとき」とは、このような何らかのものを認めるときです。その時、何をすべきかが16-18節に続いています。
[2]「預言者ダニエルにより言われた」は、内意で、預言者たちにより、を意味します。なぜなら、何らかの預言者が、みことばの中でその名前を挙げられている場所でその者が理解されるのではなく、名前は決して天界の中に達しないので、預言のみことばそのものが理解されるからです(1876, 1888番)。けれども、ある預言者によって他の預言者と同様なものは意味されません(モーセ、エリヤとエリシャによって何が意味されるかは第18章の序文や2762番参照)。けれども「ダニエル」によって、主の降臨について、また教会の状態について、ここではその最後の状態について、その預言のすべてのものが意味されます。預言書に大いに扱われている荒廃について、またそれらによって文字どおりの意味でユダヤとイスラエル教会の荒廃が意味されます、しかし、内意で教会の荒廃が全般的に、そのようにまた今(近くに)ある荒廃が意味されています。
[3]「聖なる場所に立っている」は、善と真理のものであるすべてのものに関する荒廃を意味します。聖なる場所は愛と信仰の状態です。内意で、「場所」は状態です(2625, 2837, 3356[4], 3387番参照)。その状態の「聖なるもの」は善であり、それは愛とそこからの信仰の真理です。みことばの中の聖なるものによって他のものは意味されません、それらは主からのものであり、その方は「聖なるそのもの」または「聖所」であられるからです。
読む者は、気づきなさい」は、これらが教会の中にいる者、特に、愛と信仰の中にいる者により正しく守られなければならないことを意味します、彼らについては、今から、扱います。
[4]「その時、ユダヤにいる者は、山へ逃げなさい」は、教会からの者が、別の源泉から、主へ、そのようにその方への愛へ、また隣人に対する仁愛へ以外に目を向けてはならないことを意味します。「ユダヤ」によって教会が意味されることは以下に示します。「」によって主ご自身が、しかし「山々」によってその方への愛と隣人に対する仁愛が意味されます(795, 796, 1430, 2722番照)。「ルカ福音書」にあるように、エルサレムが包囲されたとき、ローマ人により行なわれたように、その時、文字どおりの意味にしたがって、そこに行かず、山の上に行ったでしょう、

エルサレムが軍隊により取り囲まれているのをあなたがたが見る時、その時、〔あなたがたは〕荒廃が近いことを知りなさい。その時、ユダヤにいる者は、山の上に逃げなさい、またその〔都の〕真ん中にいる者は、出なさい、けれども、地方にいる者は、その中に入らないようにしなさい(21:20, 21)。

[5]しかし「エルサレム」も同様です、すなわち、そこによって、文字どおりの意味で、エルサレムが意味されることです、しかし、内意では主の教会です(402, 2117[1]番参照)。というのは、みことばの中で、ユダヤとイスラエルの人々について名前が挙げられているすべてと個々のものは、しばしば示されたように、天界の中の主の王国、また地上の主の王国、すなわち、教会を表象するものであるから。ここから、内意では、どこにも「エルサレム」よってエルサレムが、「ユダヤ」によってもまたユダヤが意味されません。しかし、それらによって主の王国の天的なものと霊的なものを表象することができるようなものでした。そして、表象するために、さらにまた〔そのことが〕起こりました。みことばはそのように述べられることができ、それは読む人間の把握にしたがって、またその〔読む〕人間のもとの天使の理解力にしたがっていました。このこともまた、主が同様に語られたことの理由でした。というのは、もし異なって〔語られ〕たなら、読んで把握されるものに、特に当時の人間に、同時に天使の理解に適すものにならず、そのように人間により受け入れられず、天使によっても理解されないものとなったであろうからです。
[6]「家の屋根の上の者は、自分の家から何かを取り上げるために、降りないようにしなさい」は、仁愛の善の中にいる者は、ここから信仰の教えの事柄へ進んではならないことを意味します。みことばの中の「家の屋根」は、人間の高い(上位の)状態を、そのように善に関する彼の状態を意味します。けれども、それら下のものは、人間のより低い状態を、そのように真理に関する状態を意味します(「家」が何を意味するかは、710, 1708, 2233, 2331, 3142, 3538番照)。教会の人間の状態の場合は、このようです――彼が再生される時、善のために真理を学びます、というのは、その善のために真理の情愛が彼にあるからです。しかし、再生された後、その時、真理と善から行動します。この状態へ達した後に、その時、前の状態へ行くべきではありません、なぜなら、もしそのことを行なうなら、その中にいる善について真理から推論し、こうして自分の状態を破壊するからです。というのは、人間が真理と善を欲する状態の中にいる時、すべての推論は終わり、終わらなくてはなりません、というのは、その時、前のように理解力からでなく、意志から、それゆえ、良心から、考え、行動するからです。もし再び理解力から〔考え、行動する〕なら、試練に陥り、それらの中で屈服してしまいます。これらが「家の屋根の上の者は、自分の家から何かを取り上げるために、降りないようにしなさい」によって意味されます。
[7]「畑の中の者は、自分の衣服(または下着)を取るために、後ろへ戻らないようにしなさい」は、真理の善の中にいる者が彼の善から真理の教えの事柄へ進んではならないことを意味します。「」は、みことばの中で人間の善に関する状態を意味します(「畑」が何を意味するかは、368, 2971, 3196, 3310, 3317, 3500, 3508番照)。また「衣服(または下着)」は、善をまとうものを、すなわち、真理の教えの事柄を意味します、なぜなら、これは善の衣服のようであるからです(「衣服」がそれであることは、297, 1073, 2576, 3301番照)。
だれもが、文字の中に見られるよりも、さらに深いものがここに秘められて隠れていることを見ることができます。というのは、主ご自身がそれらを語られたからです。

最後の審判と世の終わり

011◀︎目次▶︎013

12[3653] これらから、今や、愛の善と信仰の真理に関して教会の荒廃の状態が、また同時に、それらの中にいる者がその時、何を行なうべきか、彼らへの励ましが、これらの節で十分に述べられていることを明らかにすることができます――教会内に三種類の人間がいます、すなわち、主への愛の中にいる者、隣人に対する仁愛の中にいる者、真理の情愛の中にいる者です。
第一の部類にいる者、すなわち、主への愛にいる者が、特に「ユダヤにいる者は、山へ逃げなさい」によって意味されます。
第二の部類にいる者、〔すなわち〕隣人に対する仁愛にいる者が、特に「家の屋根の上にいる者は、自分の家から何かを取り上げるために、降りないようにしなさい」によって意味されます。
第三の部類にいる者、〔すなわち〕真理の情愛にいる者が、特に「畑の中の者は、自分の衣服を取るために、後ろへ戻らないようにしなさい」によって意味されます。
前にこれらについて「第2部(巻)」2454番の中で言われ、またそれらが説明されており、そこにもまた「後ろへ戻ること、自分の後ろを振り返って見ること」が何か見られます。

最後の審判と世の終わり

012◀︎目次▶︎014

13[3654] みことばの内意で「ユダヤ」がユダヤを、そのように「エルサレム」もエルサレムを意味しないことは、みことばの中の多くの箇所から明らかにすることができます――みことばの中に、ユダヤはそれほど名前を挙げられていませんが、しかし、ユダの地は、またそれによってそこのカナンの地のように主の王国が意味され、それゆえ、教会もまた意味されます、なぜなら、これは地上の主の王国であるからです。それゆえ、このことはユダまたはユダヤ民族によって主の天的な王国が、イスラエルまたはイスラエル民族によってその方の霊的な王国が表象されているからです。表象されているので、それゆえ、みことばの中でもまた、名前が挙げられるとき、その内意で他のものは意味されません。
[2]それらが意味されることは、主の神的慈悲から、ユダヤとユダの地について続くものの中で言われることから、明らかにします。そしてそれまでは、次の預言書のわずかなものから明らかでしょう。「イザヤ書」に、
油の息子の角の中のブドウ畑は、わたしの愛したものであった。〔息子は〕それを垣で取り囲み、石を取り除き、みごとなブドウを植え、その真ん中に塔を建て、さらにまたその中に酒ぶねを切り出した。そしてブドウが生じることを期待した、しかし、野ブドウの実が生じた。今、〝エルサレムの住民〟と〝ユダの男〟よ、さあ、わたしの間とわたしのブドウ畑の間をさばけ。……わたしはそれ〔ブドウ畑〕を荒廃の中に置く。
万軍のエホバのブドウ畑は〝イスラエルの家〟、〝ユダの男〟はその方の歓喜の植えたものであるから。わたしは審判(ミシュパート)を期待した、しかし、見よ、流血(ミスパー)。公正(ツェダーカー)を期待した、しかし、見よ、叫び(ツェアーカー)(5:1-3, 6, 7)。

そこに文字どおりの意味で、イスラエルの人々とユダヤの人々のゆがんだ状態について扱われています、けれども内意では、イスラエルとユダを表象したものによって教会のゆがんだ状態について扱われています。「エルサレムの住民」は教会の善です。「住民」は善、すなわち同じこと〔ですが〕、善の中にいる者です(2268, 2451, 2712, 3613番、また「エルサレム」が教会であることは、402, 2117[1]番参照)。「イスラエルの家」も同様です。「」は善です(710, 1708, 2233, 2331, 3142, 3538番)、「イスラエル」は教会です(3305番)。「ユダの男」もまったく同様です、というのは「男」によって真理が意味されるから(265, 749, 1007, 3134, 3310, 3459番)。また「ユダ」によって善が〔意味されます〕、しかし、「ユダの男」は、天的な真理と呼ばれます、すなわち、真理の中にいる者にあるような、主への愛の善からの真理である、という相違があります――
[3]同書に、

〔主は〕国々〔のため〕に旗を上げ、〝イスラエルの追い出された者〟を集め〝ユダの追い散らされた者〟を地の四隅から集められる。その時、エフライムの競争は去り、〝ユダの敵〟は取り除かれる。
エフライムは〝ユダ〟と張り合わない、〝ユダ〟はエフライムを苦しめない。
エホバはエジプトの海の舌をのろう。また、ご自分の息の激しさをもって御手を川の上に動かされる。
その時、アッシリアから残されるご自分の民の残りの者〔のため〕に、街道がある(11:12, 13, 15, 16)。

ここには文字どおりの意味で、イスラエルとユダヤの人々が捕囚から帰還することについて扱われています、しかし内意では、全般的に新しい教会について、また個別的に、再生される、すなわち、教会となるそれぞれの者のもとの新しい教会について扱われています。「イスラエルの追い出された者」は彼らの真理を、「ユダの追い散らされた者」は彼らの善を、「エフライム」は、もはや抵抗しない彼らの知性を、「エジプト」は記憶知を、また「アッシリア」は、ここからのゆがめる推論を、「追い出された者、追い散らされた者、残りの者、残される者」は、生き残る真理と善を意味します。「エフライム」が知性(知力)であることは、他の箇所に明らかです。「エジプト」は記憶知であり(1164, 1165, 1186, 1462, 2588, 3325番)、「アッシリア」は(誤った)推論であり(119, 1186番)、「残りの者」は主により内的な人の中に秘められた善と真理です(468, 530, 560, 561, 660, 661, 798, 1050, 1738, 1906, 2284番参照)――
[4]同書に、

このことを聞け、ヤコブの家よ。〔あなたは〕〝イスラエル〟の名前で呼ばれる。また、〝ユダの水から出た〟……神聖な都から、と呼ばれる。イスラエルの神に寄りかかっているからである(48:1, 2)。

ユダの水」は、真理を意味し、それらは主への愛の善からのものであり、真理は、ここから、仁愛の善そのものです。それらは霊的な善と呼ばれ、霊的な教会をつくり、〔その教会の〕内なるものは「イスラエル」、外なるものは「ヤコブの家」です。ここから、「ヤコブの家がイスラエルの名前で呼ばれる」こと、「ユダの水から出る」ことが何を意味するか、明らかです――
[5]同書に、

わたしは、ヤコブから子孫を、また、〝ユダからわたしの山々の相続人〟を生み出す。わたしの選んだ者がそれを所有し、わたしのしもべがそこに住む(65:9)。

ユダから〔生まれる〕わたしの山々の相続人」は、最高の意味で、主を、表象的な意味で、その方への愛の中にいる者を、そのように両方の愛の善の中にいる者を意味します。「山々」がそれらの善であることは、前に示されています(3652[11]番)
[6]モ―セの書に、

〝ユダ〟は獅子の子。わたしの息子よ、あなたは、えじきにより育った。獅子のように、年取った獅子のように、うずくまり、伏せた。だれが彼を起こすのか? (創世記49:9)

そこの「ユダ」によって、最高の意味で主が、また表象的な意味でその方への愛の善の中にいる者が意味されることがはっきりと明らかです――ダビデの書に、

イスラエルがエジプトから、ヤコブの家が未開の民から出て行ったとき、〝ユダはその方の聖所となり、イスラエル〟はその方の領域となった(詩篇114:1, 2)。

そこでもまた「ユダ」は、主への愛のものである天的な愛であり、また「イスラエル」は天的な真理、すなわち、霊的な善です――
[7] 「エレミヤ書」に、

見よ、日が来ている。エホバの言われること。わたしはダビデに正しい若枝を起こす、その者は王となって支配し、栄え、地に審判と公正を行なう。
その方の日の中で、〝ユダは救われ、イスラエルは安らかに住む〟。
これはその方の名前であり、その方を彼らは、「エホバは私たちの正義」と呼ぶ(23:5, 6, 33:15, 16)。

そこに主の来臨について〔述べられています〕。「ユダ」は主への愛の善の中にいる者、「イスラエル」はその善の真理の中にいる者です。「ユダ」によってユダが、「イスラエル」によってもイスラエルが意味されないことは、ユダが、さらにイスラエルもまた救われなかったので、明らかにすることができます――同様に、同書に、

わたしは〝ユダの捕らわれた状態〟と〝イスラエルの捕らわれた状態〟を戻し、前のように建てる(33:7)。

同じく――同書に、

その日、その時、エホバの言われること。〝イスラエルの子たち〟が〝ユダの子たち〟と一緒にやって来て、行きながら、泣きながら行き、自分たちの神エホバを求める。シオンを求め、その道へ自分たちの顔を向ける(50:4, 5)。

同書に、

その日に、彼らは〝エルサレム〟をエホバの王座と呼び、それへ集められ、すべての国民はエホバの名前のために〝エルサレム〟へ〔集められ〕、もはや、自分の悪の心の頑固さの後を行かない。その日に、〝ユダの家はイスラエルの家へ行く〟、地の上を北の地から一緒に行く(3.17,18)。

[8]同書に、

見よ、日が来ている。エホバの言われること。そのとき、わたしは〝イスラエルの家〟と〝ユダの家〟に人間の種と獣の種を蒔く。……わたしは〝イスラエルの家〟と〝ユダの家〟と新しい契約を結ぶ。……これは、彼らの日々の後、わたしが〝イスラエルの家〟と結ぶ契約である、わたしはわたしの律法を彼らの心の中に与え、彼らの心の上にそれを書く(31:27, 31, 33)。

イスラエルまたはイスラエルの家が意味されないことは、異教徒の間に追い散らされ、決して捕囚から戻らなかったので、はっきりと明らかです。したがって、ユダまたはユダの家も意味されません、しかし、彼らによって内意では、主の霊的なまた天的な王国からの者が意味されます。彼らと「新しい契約があり、彼らの心の中に律法が書かれた」のです――「新しい契約」は善による主との結合です(665, 666, 1023, 1038, 1864, 1996, 2003, 2021, 2037番)。「心の中に書かれた律法」は、ここからの善と真理の知覚、そしてまた良心です――
[9] 「ヨエル書」に、

その日に起こる。山々は新しいブドウ酒を滴らせ、丘々は乳を流し、〝ユダのすべての小川に水が流れ〟、エホバの家から泉が出て、シティムの流れを潤す。
エジプトは荒れ果てた地となり、エドムは荒れ果てた荒野となる。〝ユダの子孫〟への暴力のためであり、彼らの無垢の血をその地に流したためである。
〝ユダは永遠に、エルサレムは代々に住む〟(3:18-20)。

そこの個々のものからもまた、「ユダ」によってユダ、「エルサレム」によってエルサレムではなく、愛と仁愛の聖なるものの中にいる者が意味されていることが明らかです、というのは、彼は「永遠にまた代々に住む」からです――
[10]「マラキ書」に、

見よ、わたしは、わたしの使いを送る。その者はわたしの前に道を備える。あなたがたが求めている主が、突然に、ご自分の神殿に来る、あなたがたが望んでいる契約の使いがやって来る。……
〝その時、ユダとイスラエルの穀物のささげ物(ミンハー)はエホバの好ましいものになる〟、永遠の日のように、また前の年のように(3:1, 4)。

ここに主の来臨について〔述べられています〕。その時、「ユダとイスラエルの穀物のささげ物(ミンハー)がエホバの好ましいものに」ならないことは明らかです。ここから、ユダとエルサレムによって主の教会に属すようなものが意味されることが明らかです――みことばの中の、そこにユダ・イスラエル・エルサレムが名前を挙げられている他の箇所のどこでもそのようです。
ここから今や、「マタイ福音書」のユダによって何が意味されるか、すなわち、そこの荒廃した主の教会であることを明らかにすることができます。

最後の審判と世の終わり

013◀︎目次▶︎015

14[3655] これまで述べた「福音書」〔第24章〕の中で、ゆがめられた教会の第一と第二の状態について扱われました。もはや何が善で何が真理か知らず、それらについて自分たちの間で論争が始まり、それらから虚偽が生じた第一の状態が、3354[2]番に見られます。また、善と真理が軽蔑され、そしてまた退けられること、このように仁愛が止むような段階にしたがって主への信仰が消滅する第二の状態が生じたことが、3487[6]3488[7]番に見られます――今、ここに、善と真理に関する教会の荒れ果てた状態である第三の状態について扱われています。

最後の審判と世の終わり

014◀︎目次▶︎016

(4)「マタイ福音書」24.19―22の解説 15―21

15 [3751] 先の〔「創世記」〕第28章の前で、主が教会の最後の時について「マタイ福音書」24:15-18で予言した事柄を説明しました。さて、前からの意図にしたがって、この〔第29〕章ではそれに続く19-22節の事柄を説明します、すなわち、次のことばです、

けれども、その日、みごもっている者に、また乳を飲んでいる者に、わざわいです。しかし、あなたがたの逃避が冬でないように、また安息日でないように、祈りなさい。というのは、その時、世の始まりから今までなかったような、これからもないような大きな苦難があるからです。また、それらの日々が縮められないなら、だれも肉は救われません。しかし、選ばれた者のためにそれらの日々は縮められます。

最後の審判と世の終わり

015◀︎目次▶︎017

16[3752] これらのことばが何を意味するか、内意によって照らされていないなら、だれも決して把握することができません。エルサレムの破壊について言われているのではないことはその章の中の多くのものから明らかです、例えばこれらから、「それらの日々が縮められないなら、だれも肉は救われません、しかし、選ばれた者のためにそれらの日々は縮められます」、また続くものから、「それらの日の苦難の後、太陽は暗くされ、月はその光を与えず、星は天から落ち、天の力は揺り動かされます。その時、人の子のしるしが見られ、人の子が、力と栄光とともに天の雲の中にやって来るのを見ます」、また他のものから。
世の滅亡について言われているのではないこともまた、同じ章の中の多くのものから明らかです。例えば、先行するものから、「その時、家の屋根の上にいる者は、自分の家から何かを取り上げるために、降りないようにしなさい。また畑の中にいる者は、自分の衣服を取るために、後ろに戻らないようにしなさい」。なおまた、今や示されたこれらから、「あなたがたの逃避が冬でないように、また安息日でないように、祈りなさい」。また続くものから、「その時、ふたりが畑の中にいて、ひとりは選ばれ、ひとりは残されます。ふたりの臼を女がいて、ひとりは選ばれ、ひとりは残されます」。
しかし、教会の最後の時について、すなわち、その荒廃について言われていることが明らかです。その教会は、もはや何も仁愛がないとき、荒廃したと言われます。

最後の審判と世の終わり

016◀︎目次▶︎018

17[3753] 主について信心深く考え、その方の中に神性があると信じる者はだれでも、主が教え、話された他のもののように、〔主は〕神的なものから、ある国民についてではなく、しかし全人類について話されたこと、またその世の状態についてでなく、その霊的な状態について話されたことを、そしてまた、主のことばは、その方の王国のもの、また教会のものを含むことを知り、信じることができます、というのは、それらは神的なものと永遠のものであるから。
そのように信じる者は、これらのことば、「その日、みごもっている者に、また乳を飲んでいる者に、わざわいです」が、みごもっている者また乳を飲んでいる者を意味しないこと、また「あなたがたの逃避が冬でないように、また安息日でないように、祈りなさい」が、世の敵に対する何らかの逃避を意味するのではないことなどを結論します。

最後の審判と世の終わり

017◀︎目次▶︎019

18[3754] 前のそれらの中に、教会の中の善と真理のゆがめられた3つの状態について扱われており、ここに今や第4の状態について扱われ、それは最後の状態でもあります。
第一の状態は、もはや何が善で何が真理か知らず、しかし、それらについて自分たちの間で論争することが始まり、それらから虚偽が生じる状態です(3354[2]番参照)――
第二の状態は、善と真理を軽蔑し、そしてまたそれらを退け、このように仁愛が止むような段階にしたがって主への信仰を消滅させる状態です(3487[6]3488[7]番参照)――
第三の状態は、善と真理に関して教会の荒廃の状態です(3651[10]3652[11]番参照)――
今、ここに扱われる第四の状態は善と真理の冒涜の状態です。ここに述べられているその状態は、内意の個々のものから明らかにすることができ、それは次のようなものです。

最後の審判と世の終わり

018◀︎目次▶︎020

19[3755]「けれども、その日、みごもっている者に、また乳を飲んでいる者に、わざわいです」は、主への愛の善と無垢の善に浸されている者を意味します。「わざわいです」は、永遠の断罪の危険を意味する決まり文句です。「みごもる」は、天界の愛の善を抱くことです。「乳を飲む」もまた、無垢の状態です。「その日」は、その時、それらの中にある教会の状態です。
[2] 「しかし、あなたがたの逃避が冬でないように、また安息日でないように、祈りなさい」は、このことがあまりに急いで、過度に冷たい状態の中で、また過度に熱い状態の中で行なわれないように、それらからの移動を意味します。「逃避」は、愛の善と無垢の状態からの移動であり、それらについてはすぐ前に〔述べてあります〕。「冬での逃避」は、あまりに冷たい状態の中でのそれらからの移動であり、自己愛によってひき起こされるそれらに対する反感がある時、冷たさがあります。「安息日での逃避」は、過度に熱い状態の中でのそれらからの移動です。「」は、内部に自己愛と世俗愛があるときの外なる神聖さです。
[3]「というのは、その時、世の始まりから今までなかったような、これからもないような大きな苦難があるからです」は、善と真理に関して、教会の歪曲と荒廃の最高の段階を意味し、それは冒涜です。というのは、聖なるものの冒涜は永遠の死を、また悪の他の状態よりも多くのさらにきびしいものをひき起こすから。また、内的な善と真理であればあるほど、ますますきびしく、それらが冒涜されます。それらの内的なものはキリスト教会の中で明らかに述べられ、よく知られているので、その冒涜が、「その時、世の始まりから今までなかったような、これからもないような大きな苦難があるからです」と言われています。
[4]「また、それらの日々が縮められないなら、だれも肉は救われません。しかし、選ばれた者のためにそれらの日々は縮められます」は、教会からの善と真理の生活の中にいる者が善と真理の内的なものから外的なものへ、彼らが救われることができるまでも移動することが意味されます。「日々が縮められる」によって、移動の状態が意味され、「だれも肉は救われません」によって、そうでなければ、だれも救われることができないことが意味されます。「選ばれた者」によって、善と真理の生活の中にいる者が意味されます。

最後の審判と世の終わり

019◀︎目次▶︎021

20[3756] それがそれらのことばの内意であることを、十分に示すことができます。例えば、「みごもっている者」は、最初に善に浸されている者を意味します。そして「乳を飲んでいる者」は、無垢の状態に浸されている者を意味します。「逃避」は、それらから移動を、「」は、自己愛が内的なものを占めてそのことから、それらの善への反感を、また「安息日の中での逃避」は、外なるものの中に聖なるものがあり、内部に自己愛と世俗愛があるとき生じる冒涜を意味します。しかし、同じことばと同様の表現が続くものの中でしばしば現われるので、主の神的慈悲から、そこに、それらの意味がそのようなものであることを〔これから〕示します。

最後の審判と世の終わり

020◀︎目次▶︎022

21[3757] けれども、何が聖なるものの冒涜か知っている者はわずかです、しかし、以前にそれらについて言われ、示されたものから明らかにすることができます、すなわち、善と真理を吸収し、知り、認める者は冒涜することができる、けれども、認めない者は、まして、知らない者は冒涜できないことです(593,1008,1010,1059,3398番)――そのように、教会内にいる者は、聖なるものを冒涜することができます、けれども、外の者はできません(2051番)――天的な教会からの者は、聖なる善を、霊的な教会からの者は、聖なる真理を冒涜することができます(3399番)――それゆえ、内的な真理は、それらを冒涜しないようにユダヤ人たちに示されませんでした(3398番)――異教徒は最も冒涜できません(2051番)――冒涜は、善と悪の、なおまた真理と虚偽の混合と結合です(1001, 1003, 2426番)――そのことは血を食べることによって意味され、これはユダヤ教会の中で非常にきびしく禁じられました(1003番)。それゆえ、もしそれらの中にとどまることができないなら、それほどに善と真理の承認と信仰から押しとどめられ(3398, 3402番)――それゆえ、無知の中に保たれ(301-303番)――それゆえ、礼拝もまた外なるものになりました(1327, 1328番)――内的な真理は、教会が荒廃させられるときよりも前には啓示されません、その時、善と真理はもはや冒涜されることができないからです(3398, 3399番)――それゆえ、主はその時、初めて世の中にやって来られました(3398番、聖なるものとみことばの冒涜からどれほど大きな危険があるかは、571, 582番照)。

最後の審判と世の終わり

021◀︎目次▶︎023

(5)「マタイ福音書」24:3-28の解説 22-26

22 [3897] 目的にしたがって、この章〔「創世記」第30章〕の前〔の部分〕で説明されることへ、主が「マタイ福音書」第24章で、最後の審判について、すなわち、教会の最後の時について教えられたことへ来ています。
前章〔第29章〕の前〔の部分〕で、そこの19-22節に含まれていることが説明されました、今から、23-28節を続けます、すなわち、

その時、たとえ、だれかがあなたがたに、「見よ、ここにキリストがいる」、または「そこに」と言っても、あなたがたは信じないようにしなさい。というのは、にせキリストたち、にせ預言者たちが現われ、もし可能なら、選ばれた者にもまた、大きなしるしと兆しを、惑わすために与えるからです。見よ、わたしはあなたがたに予言しました。それゆえ、〔彼らが〕あなたがたに、「見よ、荒野の中にいる」と言っても、あなたがたは外に出ないようにしなさい。「見よ、部屋の中に〔いる、と言っても〕」、あなたがたは信じないようにしなさい。というのは、いなずまが東から発し、西にまで見られるように、人の子の到来もまたそのようであるから、というのは、どこでも死体のあるところにワシもまた集められるからです。

最後の審判と世の終わり

022◀︎目次▶︎024

23[3898] これらのことばが何を含むかは、内意から教えられないなら、だれも知ることができません、例えば、にせキリストたちが現われ、その者がしるしと兆しを与えられること、たとえキリストが荒野の中にいると言ったにしても、外に出ないこと、たとえ部屋の中にいると言ったにしても、信じないこと、人の子の到来があること、いなずまのように、東から発し、西にまで見られること、なおまた、死体のある場所にワシが集められることです――これらは、前の章やこの章に続くもののように、それらは文字どおりの意味に関して、何も連続していないことが見られます、しかしそれでも、内意に関して、最も美しく連続しており、その連続は、「にせキリスト」によって何が、「しるしと兆し(前兆)」によって何が、「荒野と部屋」によって何が、なおまた「人の子の到来」によって何が、また最後に、「死体とワシ」によって何が意味されるか理解される時、初めて見られます。
[2]そのように主が話されたのは、みことばが理解されず、それを冒涜しないように、との理由のためでした。というのは、当時のユダヤ人のもとにあったように、教会が荒廃させられるとき、もし理解したなら、冒涜してしまったであろうからです。そのために、同じ理由で、主もまた、「マタイ福音書」13:13-15,「マルコ福音書」4:11, 12,「ルカ福音書」8:10で教えているように、たとえ話で語られました。なぜなら、みことばは神秘(奥義)を知らない者によっては冒涜されることができず、知っている者により冒頭されるからです(301-303, 593, 1008, 1010, 1059, 1327, 1328, 2051, 3398, 3402番)。さらにまた、無学な者よりも自分自身に学識があると見られるような者により〔冒涜されます〕。
[3]しかし、今や、みことばの内的なものが開かれているのは、今日の教会がそれだけ荒廃の中にある、すなわち、信仰と愛がなく、そのように、たとえ知り、理解しても、それでも認めず、まして信じず(3398, 3399番照)、善良な生活の中にいて選ばれた者と呼ばれるわずかな者が、今や、教えられることができ、彼らのもとに新しい教会が設立されることになるからです。しかし、彼らがどこにいるのかは、主だけが知っておられます。教会内にはわずかな者しかいなくて、以前に新しい教会が設立されたのは異教徒たちのもとでした(2986番参照)。

最後の審判と世の終わり

023◀︎目次▶︎025

24[3899] 前に「マタイ福音書」のこの章の中で教会の継続的な荒廃について、すなわち、〔彼らが〕最初にもはや何が善と真理か知らなくなり始め、それらについて論争し、その後、〔彼らが〕それらを軽蔑し、第三に、認めず、第四に、冒涜することを扱いました(そのことは3754[18]番参照)。そこでは、全般的に教えに関する教会の状態について、その時、どんなものであるかを扱っています。特に、外なる聖なる礼拝の中にいても、内的な冒涜の〔礼拝の〕中にいる、すなわち、聖なる崇敬とともに口で主を告白しても、心で自分自身と世を崇拝し、そのように、主の礼拝が彼らにとって名誉と富を得る手段である教会の状態です。彼らは、主を、天界の生活と信仰を認めれば認めるほど、このような者になり、そのとき冒涜します。
教会のこの状態について、今から扱います。前に示された主のことばの内意から、いっそうよく明らかにすることができるためです。それは次のようなものです。

最後の審判と世の終わり

024◀︎目次▶︎026

25[3900] 「その時、たとえ、だれかがあなたがたに、『見よ、ここにキリストがいる』、または『そこに』と言っても、あなたがたは信じないようにしなさい」は、彼らの教えを用心するようにとの勧告を意味します。「キリスト」は、神的真理に関する、ここから、みことばに関する、またみことばからの教えに関する主です。ここでは、正反対のもの、すなわち、虚偽化された神的真理または虚偽の教えであることが明らかです。「イエス」は神的善、「キリスト」は神的真理です(3004, 3005, 3008, 3009番参照)。
[2]「にせキリストたち、にせ預言者たちが現われる」は、その教えの虚偽を意味します。「にせキリスト」が虚偽化されたみことばからの教え、すなわち、神的なものでない真理であることは、すぐ前に言われたことから明らかです(3010, 3732番以降参照)。「にせ預言者」は、それらの虚偽を教える者です(2534番)。虚偽を教える者は、キリスト教界の中で、特に自分自身の卓越を、なおまた世の富を目的とする者です。というのは、彼らはみことばの真理を自分自身のためにゆがめるから。というのは、目的として自己愛と世俗愛が存在するとき、他のものは何も考えられないからです。これらの者が「にせキリストたち、にせ預言者たち」です。
[3]「大きなしるしと兆しを与える」は、外なる外観と欺きからの確信と説得することを意味し、それらにより単純な者は惑わされることを被ります。これらが「大きなしるしと兆しを与える」ことであることは、主の神的慈悲から、他の箇所で示されます。
[4]「もし可能なら、選ばれた者にもまた……惑わすために」は、善と真理の生活の中に、ここから主とともにいる者を意味します。彼らが、みことばの中で選ばれた者と呼ばれる者です――これらの者が、聖なるものの下に冒涜的な崇拝を秘めている集会に見られるのはまれです、また見られるにしても、知られません、なぜなら、主は彼らを隠し、そのように守られるからです。というのは、確信される前に、容易に外なる神聖さによって〔他の者のように〕連れ去られることを被るから、しかし、確信された後は、とどまるからです。というのは、主により、天使たちの交わりの中に保たれ、そのことを自分自身では知らないからであり、また、その時、その極悪な群れから惑わされるのは不可能です。
[5]「見よ、わたしはあなたがたに予言しました」は、慎重であるように、すなわち、用心するようにとの勧告を意味します、というのは、「羊の衣服で見られます、しかし、内部で貪欲なオオカミ」(マタイ7:15)であるにせ預言者たちの間にいるからです。にせ預言者は「賢明な者たちである世代の子」、すなわち、「その時代の中の光の子」よりも抜け目のない者たちです(彼らについては、ルカ16:8)。それゆえ、主は彼らを、次のことばで勧告されました、

見よ、わたしはあなたがたをオオカミの真ん中の羊のように送り出します。それゆえ、あなたがたはヘビのように用心深く、ハトのように単純でありなさい(マタイ10:16)。
[6]「それゆえ、〔彼らが〕あなたがたに、『見よ、荒野の中にいる』と言っても、あなたがたは外に出ないようにしなさい。『見よ、部屋の中に〔いる、と言っても〕』、あなたがたは信じないようにしなさい」は、真理について話されるものも、善について話されるものも、多くのものを信じてはならないことを意味します。意味されるものがこれらであることは、内意を知る者でないなら、だれも見ることができません。それらのことばの中に秘義が含まれていることは、主がそれらを話されたこと、また他の隠された内意なしに、決して何らかのものでないこと、すなわち、もしキリストが荒野の中にいると言うなら、出て行かないこと、またもし部屋の中にいると言うなら、信じないこと、そのことから知られることができます。しかし、「荒野」によって荒廃した真理、また「部屋」または奥まった所によって荒廃した善が意味されます。荒廃した真理が荒野によって意味されるのは、教会が荒廃するとき、すなわち、その中にもはや何らかの神的な真理がないとき、もはや何らかの善が、すなわち、主への愛と隣人に対する仁愛がないからです。その時、その教会は「荒野」、または「荒野の中にある」と言われます、なぜなら、荒野によって、耕されていないまたは住んでいないこと(2708番)、なおまた、ほとんど生命力がないこと(1927番)、そのすべてのことが意味されるからであり、その時、教会の中の真理はそのようです。ここから、ここに「荒野」は、その中に真理がない教会であることが明らかです。
[7]けれども「部屋」または奥まった所は、内意で善に関する教会を、なおまた単に善を意味します。善の中にある教会は、「神の家」と呼ばれ、部屋は、またそれらと家の中のものは善です。「神の家」は神的善であり、家は全般的に愛のものと仁愛のものである善です(2233, 2234, 2559, 3142, 3652[11], 3720番参照)。真理について話されるものと善について話されるものを信じてはならない理由は、虚偽を真理、悪を善と呼ぶからです、というのは、目的として自分自身と世を眺める者は、真理と善によって、自分自身が崇拝されることと自分自身に利益を与えること以外の他のものを理解しないからです。そしてもし、敬虔を呼び起こすなら、羊の衣服で見られるためです。
[8]さらに、主が語られたみことばは、本的に無数のものを含むので、また荒野は、意味の広い言葉なので、なぜなら、耕されていないまた住んでいないすべてのものは荒野と呼ばれ、内的なものであるすべてのものは部屋と呼ばれるので、それゆえ、さらにまた「荒野」によって「旧い契約のことば」が意味されます、なぜなら、これが廃されたものと見なされているので、また「部屋」によって内的なもの、すなわち、内なる人について教えるので「新しい契約のことば」が意味されます。同じく、さらにまたみことば全体が、もはや教えの事柄として役立たないとき「荒野」と呼ばれ、人間の制定したものが「部屋」と呼ばれます。それら〔人間の制定したもの〕が、みことばの戒めと制定したものから遠退とおの いたので、みことばが荒野であるかのようになりました。キリスト教界の中でもまたよく知られているように、というのは、外なる聖なる礼拝と内なる冒涜の中にいる者は、更新(新しくすること)のために、目的として、すべての者よりも自分自身の卓越を、またすべてのものよりも富を眺め、みことばを廃します、それどころか、他の者により読まれることを決して許さないようにまでも廃します。また、このような冒涜の礼拝の中にいない者は、たとえ、みことばに聖なるものがあり、また大衆の中にあることを許しても、そのすべての教えの事柄をねじ曲げて、説明し、そのことは、みことばの中の教えの事柄にしたがっていない他のものを「荒野」であるようにします。〔このことは〕信仰のみ・・ の中に救いを置き、仁愛の働きを軽蔑する者から十分に明らかにすることができます。彼らは、主ご自身が「新しい契約」の中で、またこれほど何度も「旧い契約」の中で、愛と仁愛について語られたすべてことを「荒野」のように、またすべてのものを働きのない信仰のものである「部屋」のようにしてしまいます。ここから、「もし、〔彼らが〕あなたがたに、『見よ、荒野の中にいる』と言っても、あなたがたは外に出ないようにしなさい。『見よ、部屋の中に〔いる、と言っても〕』、あなたがたは信じないようにしなさい」によって何が意味されているか明らかです。
[9]「というのは、いなずまが東から発し、西にまで見られるように、人の子の到来もまたそのようであるから」は、主の内なる礼拝がそのようなものであったとき、そのいなずまのように、直ちに消散させられることを意味します。というのは、「いなずま」によって、天界の光のものであること、そのように愛と信仰について宣べ伝えられるものが意味されるから、なぜなら、これらが天界の光であるからです。「」は、最高の意味で主であり、内意では、主からの愛の、仁愛の、信仰の善です(101, 1250, 3249番照)。けれども、「西」は内意では、死んで倒れたこと、すなわち、存在が終わったこと、このように主の認知がなく、愛の善、仁愛と信仰の認知もないこと、このように「いなずまが東から発し、西にまで見られる」ことは追い散らすことです。主の来臨は文字〔どおりの意味〕にしたがって、再び世に現われることではありません、しかし、その方がそれぞれの者の中に現在されることであり、福音が宣べ伝えられ、また聖なるものが考えられるたびごとに存在します。
[10]「というのは、どこでも死体のあるところにワシもまた集められるからです」は、荒廃した教会の中で推論によって虚偽の確信が増大するであろうことを意味します。教会は善とここからの信仰の真理がない時、すなわち、荒廃した時、死んだものと言われます、なぜなら、そのいのちは善と真理からであるからです。ここから、死んだとき、「死体」にたとえられます。善と真理についての推論は、理解されるものでないかぎり正しい推論ではありません、それによる悪と虚偽の確信が、〔この後〕すぐに続けられることから明らかにすることができるように「ワシ」です。ここで「死体」は仁愛と信仰の生活(いのち)のない教会であることは、「ルカ福音書」の主のことばから明らかであり、そこにも世の終わり(世代の完了)について、

弟子たちは言った、「主よ、どこでですか?」(すなわち、時代の完成(世代の完了)または最後の審判〔はどこで行なわれるか、です〕)、イエスは彼らに言われた、〝身体の〔ある〕場所に、そこにワシが集められます〟(17:37)。

そこに死体に代わって「身体」〔が述べられています〕、というのは、ここに意味される死んだ身体は、教会を意味するから、なぜなら、審判は、神の家から、すなわち、教会から始まらなければならないことが、みことばからあちこちに明らかであるからです。
これらが、今や、示され、説明された主のみことばが内意で意味するものです。それらが最も美しい連続の中にあることは、たとえ文字どおりの意味の中でそのように見られなくても、それらを熟考する者は解説にしたがって〔その〕関連の中で明らかにすることができます。

最後の審判と世の終わり

025◀︎目次▶︎027

26[3901] 教会の最後の状態がワシにたとえられることは、死体または身体へ集められる「ワシ」によって人間の理性が意味されるからであり、それらは善について述べられるとき真の理性です、しかし、悪について述べられるとき虚偽の理性、または誤った推論です。「鳥」は一般的に人間の思考を、両方の意味でもまた意味します(40, 745, 776, 866, 991, 3219番)。また、それぞれの種類〔の鳥〕は、何らかの個々のものを〔意味し〕、ワシは、高く飛び、鋭く見るので、理性を意味します。そのようであることは、みことばの中の多くの箇所から明らかにすることができます、それらの〔箇所のうち〕確証のために次のものを示すことが許されます。最初に、そこに真の理性を意味するものがモーセの書に〔あります〕。

エホバはご自分の民を荒野の地で、嘆き悲しむ空虚の中で、さびしい場所で見つけられた。彼を取り囲み、彼を教え、ご自分の目のひとみのように彼を守られた。〝ワシのように自分の巣をゆり動かし〟、ひなの上にご自分を動かし、ご自分の翼を広げ、彼を取り、ご自分の翼の上に彼を運ばれた(申命記32:10, 11)。

信仰の真理と善の中での教育がここに述べられ、ワシにたとえられています。人間が理性的なものと霊的なものになるまでの過程そのものが、その記述とたとえの中に含まれています。みことばの中のたとえはすべて、表意するもので行なわれ、ここから、ここでは「ワシ」によって行われており、それは理性です――
[2]同書に、エホバはモーセに、

あなたがたは、わたしがエジプトにしたことを見た。〝わたしはあなたがたを〟、わたしのもとに連れて来るために、〝ワシの翼の上へ持ってきた〟(出エジプト記19:4)。

同様に――「イザヤ書」に、

エホバを待ち望む者は力を新たにされ、〝ワシのように強い翼で上る〟、走っても、くたびれない、歩いても、疲れない(40:31)。

力を新たにされる」ことは、善を意志することに関して増大させることであり、「ワシのように強い翼で上る」ことは、真理を理解することに関して、そのように理性に関して増大させることです。事柄は、他の箇所のように、二つの表現によってここに表示されています、それらの一つは意志のものである善を、もう一つは理解力のものである真理を含んでいます。「走っても、くたびれない、歩いても、疲れない」ことも同様です――
[3]「エゼキエル書」に、

イスラエルの家について、たとえ話しを、たとえて話せ、主エホバはこのように言われたと言え、〝長い羽で、豊かな羽毛で〟、刺繍とともに、〝大きなワシ〟が、レバノンの上にやって来て、杉の小枝を取り、交易の地に導き、香料作りの都の中に置いた、芽を出し、多産なブドウとなった。
〝大きな翼と豊かな羽毛でもう一羽の大きなワシ〟がいた、見よ、それへこのブドウはその根を接触させ、またその枝をそのワシへ、それを水で潤すために、自分の植わっている所から、良い畑の中へ、多くの水とともに、差し出した……しかし、荒される。
彼は、自分自身に多くの馬と民を与えるために、自分の使者をエジプトに送った(17:2-9, 15)。

最初に名前を挙げられた「ワシ」は神的なものから照らされた理性であり、第二の箇所の「ワシ」はプロプリウムからの理性の代わりに、感覚的なものと記憶知からの推論によって、その後、ゆがめられた理性です。「エジプト」は記憶知です(1164, 1165, 1186, 1462番)。「」はここからの知的なものです(2761, 2762, 3217番)――
[4]「ダニエル書」に ダニエルの幻〔があります〕、

四つの……獣が海から上った、これらは他のものから異なっていた。第一のものは獅子のようであった、しかし、〝それにワシの翼〟があった。私が見ていると、その翼が引き裂かれ、地から上げられ、足で人間のように直立し、人間の心が与えられた(7:3, 4)。

教会の最初の状態が「ワシの翼のある獅子」によって描かれています、そこの「ワシの翼」はプロプリウムからの理性であり、それらが上げられて、神的なものからの理性と意志が与えられ、それらが「地から上げられ、足で人間のように直立し、人間の心が与えられた」ことによって意味されています――
[5]「エゼキエル書」に、

四つの生き物、すなわち、ケルビムに、顔に似たものがあり、〔それは〕人間の顔であって、それらに獅子の顔が右に四つ、それらに牛の顔が左に四つ、それらに〝ワシの顔〟が〔後ろに〕四つ〔あった〕(1:10)。
それらの輪はガルガルと呼ばれ、それぞれに四つの顔があって、第一の顔はケルブの顔、第二の顔は人間の顔、第三の顔は獅子の顔、第四の顔は〝ワシの顔〟であった(10:13, 14)。

ヨハネの書に、

王座のまわりに、前も後ろも目で満ちた四つの生き物がいた。第一の生き物は獅子に似て、第二の生き物は子牛に似て、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は〝飛んでいるワシ〟に似ていた(黙示録4:6, 7)。

見られたそれらの生き物が神的な秘義を意味し、それゆえ、それらの顔に似たものもまた秘義を意味するは明らかです。しかし、内意で、獅子・子牛・人間・ワシが何なのか知られないなら、その秘義が何かは知られることができません。「ワシの顔」が見回すこと、またここから摂理であることは明らかです、なぜなら、「エゼキエル書」の生き物によって表象されているケルビムは、人間が自分自身から、また自分の理性から、信仰の神秘(奥義)に入らないようにとの主の摂理を意味するからです(308番照)。ここからもまた、「ワシ」が人間について述べられるとき、内意で、理性であることが明らかであり、またこのことは、ワシが高く飛び、上から下にあるものを広く眺めるからです――
[6]「ヨブ記」に、

タカは、あなたの知性によって飛び、翼を南に向けて広げるのか?
ワシは、あなたの口にしたがって〝自分自身を上げ〟、自分の巣を高めるのか? (39:26, 27)

ここに「ワシ」が知性のものである理性であることが明らかです。古代教会の中でワシはこのようなものを意味しました、なぜなら、「ヨブ記」は古代教会の書物であるからです(3540番以降)。というのは、その時代の書物はほとんどすべて表意するものによって書かれたから。しかし、表意するものは時間の推移〔の中〕で、たとえ、みことばの中にこんなにもしばしば名前を挙げられ、またそこにはっきりと〔鳥以外の〕他のものを意味していることが見られても、「鳥」が全般的に思考であることが決して知られないように、そのように消し去られました。
[7]「ワシ」が正反対の意味で真理でない理性を、そのように虚偽を意味することは、続く箇所から明らかです。モーセの書に、

エホバはあなたの上に国民を遠くから、地の端から、〝ワシが飛ぶように〟、持ち上げる。あなたはその国民の言葉(舌)を聞かない、その国民は顔で硬い(申命記28:49, 50)。

「エレミヤ書」に、

見よ、彼は雲〔のように〕上る、彼の戦車は突風のようである、〝その馬はワシよりも速い〟、私たちにわざわい〔である〕、私たちは荒廃させられるからである(4:13)。

同書に、

あなたの自慢があなたを欺いた、あなたの心の誇りが、岩の穴の中に住み、丘の高いところを占める、〔あなたは〕〝ワシのようにあなたの巣を高くする〟ので、ここからわたしはあなたを投げ落とす。
見よ、〝ワシのように上り、飛ぶ〟、その翼をボズラの上に広げる、エドムの力ある者の心は、その日、〔産みの〕苦しみの中の女の心のようになる (49.16,17,22)。

同書に、

私たちを追う者は〝ワシよりも〟速かった、山の上まで追い、荒野で私たちを待ち伏せた(哀歌4:19)。

「ミカ書」に、

禿げ頭をひき起こせ、あなたを剃れ、あなたの楽しみの息子の上に、〝ワシのように〟、〔あなたの〕禿げ頭を広げよ、あなたから移住したからである(1:16)。

「オバデヤ書」に、

〝あなたがワシのように持ち上げ〟ても、星の間にあなたの巣を置いても、そこからわたしはあなたを引き降ろす(第4節)。

「ハバクク書」に、

わたしはカルデヤ人を起こす、むごくて向う見ずな国民だ。わたしは広く地の中へ前進する、自分の住むところを受け継ぐために……〝その馬はワシよりも速い〟……その騎士は遠くからやって来る、〝食べるために急ぐワシ〟のように飛んで来る(1:6, 8)。

[8]これらの箇所の中で「ワシ」によって推論によって導き出された虚偽が意味され、それは感覚の欺きと外なる外観から導き出されます。最後に引用された預言書の「カルデヤ人」によって、外なる聖なるものの中にいるけれども内部に虚偽がある者が意味されます(1368番照)。彼らは教会を荒廃させるバビロンのようです(1327番)。「地の広さ」は真理であり(3433, 3434番)、それらの荒廃が「広く地の中へ前進する」によって意味されます。「」は彼らの知力であり、それらは〔ワシと〕同様のものです(2761, 2762, 3217番)。「食べるために急ぐワシ」が何かは、ここから明らかです、すなわち、真理で人間を空虚にするためです、なぜなら、教会の荒廃についてそこに扱われているからです――ワシと比較されています、しかし、〔前に〕言われたように、みことばの中の比較は表象的なものによってなされます。
ここから、「死体へ集められるワシ」との比較によって、何が意味されるか、今や、明らかです。

最後の審判と世の終わり

026◀︎目次▶︎028

(6)「マタイ福音書」24:29-31の解説 27-31

27 [4056]「第3部(巻)」の〔創世記〕第24-30章の前〔の部分〕で、主が「世代の完了」または「最後の審判」について「マタイ福音書」の第24章3節から28節まで話され、予言されたことを説明しました。そこで、そこに順に続き、この〔「創世記」第31〕章の前〔の部分〕で説明すべきものに来ています。それらは第29-31節、すなわち、次のことばです、

けれども、それらの日の苦難の後、直ちに、太陽は暗くされ、月はその光を与えず、星は天から落ち、天の力は揺り動かされます。その時、人の子のしるしが天の中に見られ、その時、地のすべての種族は嘆き叫びます。また人の子が天の雲の中に、多くの力と栄光ともに、やって来るのを見ます。
また、自分の天使たちを、らっぱと大きな音とともに、送り出し、天の端から端まで、四つの方向から、その方の選ばれた者を集めます。

最後の審判と世の終わり

027◀︎目次▶︎029

28[4057]「世代の完了」または「最後の審判」が何かは、前に説明されました、すなわち、教会の最後の時です。そこに、もはや仁愛と信仰が何もないその時、最後の時と言われます。そしてまた、このような完了または最後の時が、〔これまで〕数回、現われたことが示されました。最初の教会の完了は、洪水によって、第二の教会の完了は、カナンの地の国民の絶滅によって、そしてまた預言書で多くの絶滅と破壊によって述べられました。第三の教会の完了は、みことばの中に述べられていませんが、しかし、それは予言されており、エルサレムの破壊であり、そのもとに教会があったユダヤ国民が全世界に追い散らされることでした。今日のキリスト教会の第四の完了は、主により、福音書に、そしてまた、ヨハネの「黙示録」の中で、予言されており、今や、それは差し迫っています。

最後の審判と世の終わり

028◀︎目次▶︎030

29 [4058] これまで「マタイ福音書」この章の中で、教会の連続的な荒廃について扱いました、すなわち、最初に、何が善と真理か知らないことが始まった、しかし、それらについて論争したこと、第二に、それらを軽蔑したこと、第三に、心で認めなかったこと、第四に、冒涜したことです。これらについてその章の第3節から22節まで扱いました。また、依然として信仰と真理と仁愛の善が、真ん中に、すなわち、選ばれた者と呼ばれるある者のもとに残存しなければならないので、信仰に属す真理の状態について、その時、どのようなものであったか、第23節から28節まで〔扱い〕、また仁愛と愛のものである善の状態について、今、示されているこれらの節の中で、さらにまた、新しい教会の始まりについても扱います。

最後の審判と世の終わり

029◀︎目次▶︎031

30[4059] これらの節の中で言われている個々のものから、内意があること、またその意味の理解なしに、何が含まれているか、決して知られることができないことが、はっきりと明らかです。例えば、「太陽が暗くされる」こと、「」もまた〔光を与えない〕こと、「星が天から落ちる」こと、また「天の力が揺り動かされる」こと、主が「天の雲の中に見られる」こと、「天使たちがらっぱを鳴らし、このように選ばれた者を集める」ことです。これらのことばの内意を知らない者は、このようなことが起こるであろうことを、それどころか、全世界の中に見られるすべてのものとともに世が滅ぶであろうことを信じてしまいます。しかし、最後の審判によって世の何らかの滅亡は意味されず、仁愛と信仰に関して教会の完了または荒廃が意味されます(3354[1]番参照)、また、「マタイ福音書」の同じ〔この〕章の中で続けられる次のことばからはっきりと明らかです、

その時、ふたりが畑の中にいて、ひとりは選ばれ、ひとりは残されます。ふたりの臼をひく女がいて、ひとりは選ばれ、ひとりは残されます(第81節)。

最後の審判と世の終わり

030◀︎目次▶︎032

31[4060] そこで、示されたそれらのことばによって、その時の善に関する、すなわち、隣人に対する仁愛と主への愛に関する教会の状態が意味されることが、それらのことばの内意から明らかであり、それらは以下のものです。
けれども、それらの日々の苦難の後、直ちに」は、信仰のものである真理に関する教会の状態を意味し、そのことについては直前の箇所の中に扱われています。真理の荒廃は、みことばの中のあちこちで「苦難」と呼ばれています。「」は状態です(23, 487, 488, 493, 893, 2788, 3462, 3785番参照)。ここから、もはや信仰が何もない後に、仁愛が何もないことが、それらのことばによって意味されていることが明らかです。というのは、信仰は何が仁愛であるか教えるので、仁愛へ導き、仁愛はその性を信仰のものである真理から、しかし、信仰の真理はその本とそのいのちを仁愛から受けるからです、それらは前の「部(巻)」の中でしばしば示されました。
[2]「太陽は暗くされ、月はその光を与えない」は、「太陽」である主への愛を、また「」である隣人に対する仁愛を意味します。「暗くされ、光を与えない」は、見えなくなる、そのように消えることを意味します。「太陽」は愛の天的なもの、また「」は愛の霊的なものであること、すなわち、「太陽」は主への愛、また「」は信仰を通して〔やって来る〕隣人に対する仁愛です(1053, 1529, 1530, 2120[4], 2441, 2495番照)。それが太陽と月の意味である理由は、主が来世の中で、天的な者と呼ばれるその方への愛の中にいる者に天界の中の太陽として見られ、また霊的な者と呼ばれる隣人に対する仁愛の中にいる者に月として見られるからです(1053, 1521, 1529-1531, 3636, 3643番参照)。
[3] 天界の中の太陽と月は、すなわち、主は、決して暗くされないし、光も失いません、しかし、永続的に輝き、そのように、天界の中の天的な者のもとのその方への愛も、また霊的な者のもとの隣人に対する仁愛も、それらの天使たちがいる地上の者、すなわち、愛と仁愛の中にいる者もそうなりません。しかし、決して愛と仁愛の中にいないで、自己愛と世俗愛の中に、ここから憎しみと復讐の中にいる者のもとで、彼らは自分自身にその暗さそのものをひき起こしています。このことは世の太陽の場合のようです、太陽は絶えず輝いています、しかし、雲が間にはさまるとき、〔太陽は〕見られません(〔太陽については〕2441番参照)。
[4]「星は天から落ちる」は、善と真理の知識が滅びることを意味します。みことばの中でそこに名前が挙げられている「星」によって他のものは意味されません(1808, 2849番)。「天の力は揺り動かされる」は、教会の基礎(土台)を意味します、それが滅びるとき「揺り動かされることとゆさぶられること」が言われます。というのは、地上の教会は天界の基礎であるから、なぜなら、善と真理の流入は、主から天界を通って最後に教会の人間のもとの善と真理の中で終結するからです、それゆえ、教会の人間がこのようなゆがめられた状態の中にいるとき、善と真理の流入がもはや許されないために、その時、「天の力は揺り動かされる」と言われます。そのために、何らかの教会が残るように、また旧い教会が滅びるとき、新しいものが設立されるように、常に主により備えられています。
[5]「その時、「人の子」のしるしが天の中に見られる」は、神的な真理の出現です。「しるし」は出現であり、「人の子」は神的な真理に関する主です(2803, 2813, 3704番参照)。弟子たちが、主へ言ったとき、この出現、すなわち、このしるしについてです、

私たちに言ってください、それがいつ起こるか、あなたの来られることと世代の完了のしるしが何か(この章の第3節)。

というのは、みことばから〔彼らは〕世代が完了するとき、主が来臨されることを知り、また主から、再び来ることを知っており、そのことによって、主が世の中にもう一度やって来ること理解しましたが、教会が荒廃するたびごとに、主がそれほどしばしばやって来ることを、まだ知っていなかったからです。出生から人間性をまとわれ、これを神的なものにされたときのように、人物の中にでなく、マムレのアブラハムに、柴の中でモーセに、シナイ山の中でイスラエルの民に、カナンの地に入ったときのヨシュアに見られたときのような出現または顕現によってです。あるいは、このような顕現によってではなく、例えば、霊感によってであり、その霊感によって、みことばが書かれたのです。またその後、みことばによってです、というのは、みことばの中に主が現在されるから、なぜなら、今までしばしば示されたものから明らかにすることができるように、みことばのすべてのものはその方からであるからです。 「人の子のしるし」によってここに意味されるものは、この出現であり、それについてこの節で扱います。
[6]「その時、地のすべての種族は嘆き叫びます」は、愛の善と信仰の真理の中にいるすべての者が悲嘆の中にいることを意味します。「嘆き叫ぶ」ことはそのことを意味します(ゼカリヤ書12:10-14参照)。また「種族」が善と真理のすべてのもの、すなわち、愛と信仰のすべてのものを意味します(3858, 3926番)、したがって、それらの中にいる者です。教会内にいる者が意味されるので「地の種族」と言われます。「」は教会です(662, 1066, 1067, 1262, 1733, 1850, 2117[1], 2928, 3355[3]番参照)。
[7]「また人の子が天の雲の中に、多くの力と栄光ともに、やって来るのを見ます」は、その時、みことばが、その中に主がおられるその内意に関して啓示されることを意味します。「人の子」はその中の神的な真理であり(2803, 2813, 3704番)、「」は文字どおりの意味です。善について「」が、また真理についてそこに「栄光」が述べられています。それらが「人の子が天の雲の中にやって来るのを見る」によって意味されていることは、「創世記」第18章への序言に見られます。ここに意味されているものは主の来臨ですが、文字どおりの意味にしたがって雲の中に見られるのではありません。そこで、新しい教会の設立について続けられ、それは旧い教会が荒廃し、拒否されたとき生じます。
[8]「自分の天使たちを、らっぱと大きな音とともに、送り出す」は、選びを意味しますが、見ることのできる天使たちによってでなく、まして、らっぱと大きな音によってではありません、しかし、主から天使たちを通しての善の聖なるものと真理の聖なるものの流入によってです、それゆえ、みことばの中の「天使たち」によって、主の何らかのものが意味されます(1925, 2821, 3039番)。ここに主から、また主についての聖なるものが意味されます。「らっぱと大きな音とともに」は、みことばの他の箇所のように、福音を説くことを意味します。
[9]「天の端から端まで、四つの方向から、その方の選ばれた者を集めます」は、新しい教会の設立を意味します。「選ばれた者」は、愛と信仰の善の中の者です(3755[19]番以降、3900[25]番)。「四つの方向」は、それらから集められますが、善と真理のすべての状態です(3708番)。「天の端から端まで」は、教会の内なるものと外なるものです。
それで、これらが主のみことばによって意味されるものです。

最後の審判と世の終わり

031◀︎目次▶︎033

(7)「マタイ福音書」24:32-35の解説 32-34

32 [4229] 主が「最後の審判」について「マタイ福音書」第24章で予言したことの説明を「第3部(巻)」の中で始めました。それらの説明はそこの最後の章の前の序文であり、説明とともに、その福音書の第31節まで続けました(3353-3356[1-4]番3486-3489[5-8]番3650-3655[9-14]番3897-3901[22-26]番4056-4060[27-31]番参照)。それらのすべての内意が、要約して、何かは、そこに説明したことから明らかです、すなわち、教会の連続的な荒廃について、また最後に、新しい教会の設立について、次の順序で述べました――
(1)何が善と真理か知らないことが始まった、しかし、それらについて論争した。
(2)それらを軽蔑した。
(3)心で認めなかった。
(4)冒涜した。
(5)また、依然として信仰の真理と仁愛の善がある者のもとに残るので、その者は選ばれた者と呼ばれるが、その時の信仰の状態が述べられる。
(6)またその後、仁愛の状態が〔述べられる〕。
(7)そして最後に、新しい教会の始まりについて扱われており、それらは最後に説明したことばによって意味されている、すなわち、次のものによって、

また、自分の天使たちを、らっぱと大きな音とともに送り出し、天の端から端まで、四つの方向から、その方の選ばれた者を集めます(第31節)。

それらは新しい教会の始まりを意味します(4060[31]番末尾参照)。

最後の審判と世の終わり

032◀︎目次▶︎034

33[4230] 旧い教会の終わりの時、そして新しい教会の始まりが近い時、最後の審判があります。みことばの中で最後の審判によって意味されるのはその時です(2117-2133[1―17]3353[1]4057[28]番参照)。そしてまた、「人の子」の来臨によって〔最後の審判が意味されます〕――今から、来臨そのものについて扱います、そのことについて「マタイ福音書」で、弟子たちは主に、〔次のように〕言って、問しました、

私たちに言ってください。いつ起こるのですか、あなたの来られることや世の終わり(世代の完了)のしるしは何ですか? (24.3)。

そこで、今から、説明すべきものを続けます、それらは主が予言された、ご自分の来臨の時そのものと最後の審判である世代の完了についてです。
[2]しかし、この章〔「創世記」第32章〕の前に、32-35節に含まれるものだけを〔述べます〕、それらは次のものです、

けれども、イチジクの木からたとえを学びなさい。すでにその枝が柔らかくなり、葉が芽を出している時、あなたがたは夏が近いことを知ります。このように、あなたがたはこれらのすべてを見る時、あなたがたは戸口に近くにいることを知りなさい。まことに、わたしはあなたがたに言います、これらすべてのことが起こるまで、この世代は過ぎ去りません。天と地は移ります、けれども、わたしのことばは移りません。

これらのことばの内意を以下に続けます。

最後の審判と世の終わり

033◀︎目次▶︎035

34[4231] 「けれども、イチジクの木からたとえを学びなさい。すでにその枝が柔らかくなり、葉が芽を出している時、あなたがたは夏が近いことを知ります」は、新しい教会の最初のものを意味します。「イチジクの木」は自然的な善であり、「」はその情愛であり、「」は真理です。それらを意味することを〔彼らは〕「たとえ」から学びます。みことばの内意を知らない者は、イチジクの木そしてその枝と葉について主の来臨のたとえが何を含むか、決して知ることができません。しかし、みことばの中のすべてのたとえもまた表意するものであるので(3479番)、ここから、それらが何か知ることができます。「イチジクの木」は、みことばの中で名前を挙げられているどこでも、内意では、自然的な善を意味します(217番参照)。「枝」がその情愛であることは、枝がその幹からのように、情愛は善から芽を出すので、ここからです。「葉」は真理です(885番参照)。ここから今や、そのたとえが何を含むか明らかです、すなわち、新しい教会が主により創造されるとき、その時、すべてのものの最初に自然的な善が、すなわち、外なる形の中の善が、その情愛と真理とともに現われることです。自然的な善によって、その中に人間が生まれる善は、すなわち、両親から得る善は意味されません、その善は、起源に関して霊的なものであって、この中にだれも生まれていません、しかし、主により、善と真理の知識によって導き入れられます。そのために、人間はこの善の中に、すなわち、霊的な善の中にいる前に、生来の善から、〔外なる形の中で〕教会の人間であるとどれほど見られても、教会の人間ではありません。
[2]「このように、あなたがたはこれらのすべてを見る時、あなたがたは戸口に近くにいることを知りなさい」は、 最も近い前の29-31節で、また「イチジクの木」について言われたこれらのことばによって、それらが見られるとき、内意で意味されることは、その時、教会の完了、すなわち、最後の審判、そして主の到来です。それゆえ、その時、旧い教会は退けられ、新しい教会が設立されます。自然的な善とその真理が最初のものであるので、「戸口に」と言われ、それらは、再生し、教会となるとき人間に徐々にしみ込みます。
まことに、わたしはあなたがたに言います、これらすべてのことが起こるまで、この世代は過ぎ去りません」は、他の民族のように絶滅されないユダヤ民族を意味します(その理由は3479番参照)。
[3]「天と地は移ります、けれども、わたしのことばは移りません」は、前の教会の内なるものと外なるものが滅びる、しかし、主のみことばが残ることを意味します。「」は教会の内的なものであり、「」はその外的なものです(82, 1411, 1733, 1850, 2117[1], 2118[2], 3355[3]番以降参照)。「わたしのことば」は、今、その方の来臨と世代の完了についてだけが言われのではなく、しかし、みことばの中のすべてのものであることが明らかです。これらが、ユダヤ民族について言われたそのすぐ後に言われたのは、3479番で言及された箇所から明らかにすることができるように、ユダヤ民族は、みことばのために保たれたからです。
これらから、今や、ここに新しい教会の始まりについて予言されていることが明らかです。

最後の審判と世の終わり

034◀︎目次▶︎036

(8)「マタイ福音書」24:36-41の解説 35-38

35 [4332] 前章の前〔の部分〕で、主が「マタイ福音書」第24章32-35節で、ご自分の到来について予言したものを説明しました。それらは、前の教会の最後の時と新しい教会の最初を意味し、そこに、また前に、しばしば示しました(今まで扱われた前の教会の最後の時または終わりについて、また新しい教会の最初の時または始まりについては、前の〔「創世記」〕第31章の前〔の部分〕の4056-4060[27-31]番に、また第32章の前〔の部分〕の4229-4231[32-34]番参照)――さて、続く「福音書」同章の中の36-42節を説明します、すなわち、次のことばです、

けれども、その日と時について、わたしの父だけでないなら、だれも、天の天使たちも知りません。けれども、ノアの日のように、人の子の到来はこのようです。というのは、洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、〔彼らは〕食べて、飲んで、めとったり、嫁いだりしていたからです。また、洪水がやって来て、すべてのものを取り上げるまで〔彼らは〕知りませんでした。人の子の到来もまた、このようです。その時、ふたりが畑の中にいて、ひとりは選ばれ、ひとりは残されます。ふたりの臼をひく女がいて、ひとりは選ばれ、ひとりは残されます。

最後の審判と世の終わり

035◀︎目次▶︎037

36[4333] それらのことばによって内意で何が意味されるか、続く説明から明らかです、すなわち、旧い教会が退けられ、新しいものが設立される時、来るべき状態がどんなものであるか述べられていることです――旧い教会を捨て、新しい教会を設立することが世代の完了と〝人の子〟と到来によって、また全般的に最後の審判によって意味されることであり、〔このことは〕前にしばしば示されました。なおまた、その最後の審判はこの地上で数回、起こりました、すなわち、「最初」は、主の天的な教会である最古代教会のとき、洪水以前に、悪と虚偽を清めることによって滅びました、それが洪水の内意です。
[2]「第二」は、洪水後、アジアの多くの世界を通して広がった古代教会と言われる霊的な教会のときであり、その教会自体から終わりました。
[3]「第三」は、ヤコブの子孫のもとで教会の表象が破壊されたときであり、そのことは、十の部族が永続する捕囚の中へ連れ去られ、そして国民の間にちりぢりにされたときに、また最後に、エルサレムが滅ぼされ、またユダヤ人たちもまた追い散らされたときになされました。その時、主の来臨の後に世代の完了があり、それゆえ、さらにまた多くのことが、その世代の完了について主により「福音書」のもとに言われており、それらの民族にもまた適用でき、そしてまた今日の多くの者に適用されます。しかしそれでも、特定的に、また特にそこに、今や切迫している世代の完了、すなわち、キリスト教会の終わりについて扱われており、それについてもまたヨハネの「黙示録」のもとに扱われています。これはこの地上の「第四」の最後の審判になります。
前に引用された36-42節にあることばが何を含むかは、それらの内意から明らかであり、それは次のようなものです。

最後の審判と世の終わり

036◀︎目次▶︎038

37 [4334] 「けれども、その日と時について、だれも知りません」は、地上でもなく、天界でもなく、だれにも、その時の善と真理に関する教会の状態が明らかにされないことを意味します。というのは、「日」と「時」によって、ここに日と時または時間は意味されず、しかし、善と真理に関する状態が意味されるからです(みことばの中で「時間」が状態を意味することは、2625, 2788, 2837, 3254, 3356[4]番、またさらにまた「日」については23, 487, 488, 493, 893, 2788, 3462, 3785番参照)。ここから「時間」もまた、しかし、特に〔善と真理に関する〕状態です。善と真理に関する状態であることは、教会について扱われているからです、なぜなら、善と真理が教会をつくるからです。
[2]「わたしの父だけでないなら、天の天使たちも知りません」は、天界が教会の状態について、特に善と真理に関して、知らないことを意味します、しかし、主だけが、そしてまたその教会の状態がいつなのか知られます。「父」によって意味される方は主ご自身です(15, 1729, 2004, 2005, 3690番照)。また主の中の神的善が「父」と呼ばれるものであり、神的善からの神的真理が「子」と呼ばれるものです(2803, 3703, 3704, 3736番)。それで、あるものが父と子が別のものであると信じ、それらを区別する者は、聖書を理解していません。
[3]「けれども、洪水前の日々は、このようです」は、教会からの者の荒廃の状態を意味し、それが最初の教会、すなわち、最古代の教会の荒廃の状態にたとえられており、その世代の完了、すなわち、最後の審判が、みことばの中で洪水によって述べられています(「洪水」によって悪と虚偽の氾濫が、またここからその世代の完了が意味されることは、310,660,662,705,739,7
90,805,1120番照。「日々」が〔それらの〕状態であることは、前のもの参照)。
[4]「食べて、飲んで、めとったり、とついだりしていた」は、悪と虚偽を自分のものにすること、そしてここからそれらとの結合に関して、彼らの状態を意味し(「食べる」は善を自分のものにすること、また「飲む」は真理を自分のものにすることは、3168, 3513番以降、3596番参照)、そのように正反対の意味では悪と虚偽を自分のものにすることです。「めとる」は悪との結合、また「とつぐ」は虚偽との結合であることは、結婚と結婚愛について言われ、示されたことから明らかにすることができます(686, 2173, 2618, 2728, 2729, 2737-2739, 2803, 3132, 3155番)、すなわち、内意では、善と真理の結合です、けれども、ここでは、正反対の意味であり、悪と虚偽の結合です。
主が話されるどんなものでも、神的なものであるので、聖餐で食べることと飲むことが霊的な意味で食べることと飲むことを意味しないように、内意では、文字どおりの意味のようなものではなく、しかし、主の愛の神的な善を自分のものにすることです(2165, 2177, 2187, 2343, 2359, 3464, 3478, 3735, 4211, 4217番)。教会についてまた主の王国について述べられるとき、結婚のように、愛のものである善と、信仰のものである真理との結合であり、それゆえ、その結合から主の王国は、みことばの中で、天界の結婚と呼ばれています。
[5]「ノアが箱舟に入るその日まで」は、前の教会の終わりと新しいものの始まりを意味します。というのは「ノア」によって、洪水後に最古代教会に続いた古代教会が全般的に意味されるから(773番)、また他の箇所、また「箱舟」によって教会そのものが〔意味されるから〕(639番)――数回、これらの節に名前を挙げられている「」は、直前に示されているように、状態を意味します。
[6] 「また、洪水がやって来て、すべてのものを取り上げるまで〔彼らは〕知らなかった」は、教会の人間は、その時、悪と虚偽に氾濫させられていることを知らないことを意味します。何が主の中の愛の善か、隣人に対する仁愛の善か、なおまた何が信仰の真理か無知でおり、まったくの悪と虚偽の中にいるからです。またこのことは、ここからであり、その愛の中に、またその仁愛の中に生きる者以外にありえません。さらにまた、内なるものが救い、断罪するけれども、内なるものから分離した外なるものはそうしない、ということに無知でしょう。
[7]「人の子の到来もまた、このようです」は、受け入れられない神的真理を意味します。前の27と30節に言われた「人の子の到来」は、その時、啓示される神的真理です(2803, 2813, 3704番、なおまた3004-3006, 3008, 3009番)。
[8]「その時、ふたりが畑の中にいて、ひとりは選ばれ、ひとりは残されます」は、善の中にいる教会内の者、また悪の中にいる教会外の者を意味します、善の中にいる者は救われ、悪の中にいる者は(地獄へと)断罪されます。「」は善に関する教会です(2971, 3196, 3310, 3317, 3766番参照)。
[9]「ふたりの臼をひく女がいて、ひとりは選ばれ、ひとりは残されます」は、真理の中にいる教会内の者、すなわち、善からのその情愛の中にいる者は救われること、また教会内の真理の中にいても、その者は悪からの情愛の中に〔いるので〕、断罪されることを意味します。みことばの中で「臼をひくことと臼」がそれらを意味することは、今から続くものから明らかです。
これらから、今や、それらのことばによって教会内の善と真理に関して、どのような状態になるか、それらが退けられて、新しいものが養子とされることが述べられているのが明らかです。

最後の審判と世の終わり

037◀︎目次▶︎039

38[4335] 「ひき臼をひく者」が、みことばの中で、善の情愛からの真理の中にいる教会内の者、また正反対の意味で、悪の情愛からの真理の中にいる教会内の者であることは、次の箇所から明らかにすることができます。「イザヤ書」に、

下って、ちりの上に座れ、おとめバビロンの娘よ。王座のない地に座れ、カルデヤの娘よ。……〝ひき臼を取り、粉をひけ〟。あなたの髪をとき、足を裸にせよ。腿をあらわにし、流れを渡れ(47:1, 2)。

バビロンの娘」は、外なるものに、聖なるものと善が見られますが、しかし、内的なものは冒涜的なものと悪である者です(1182, 1326番)。「カルデヤの娘」は、外なる聖なるものと真理が見られても、内的なものは冒涜的なものと虚偽である者です(1368, 1816番)。「臼を取り、粉をひく」ことは、真理から悪用する教えの事柄を考え出すことです。というのは、「」は、小麦または大麦からのものであるので、善からの真理を、そして正反対の意味の中で迷わすために悪用する真理を意味するからです――「エレミヤ書」に、

わたしは、彼らから楽しみの声と喜びの声、花婿の声と花嫁の声、〝ひき臼の音〟と油ランプの光を滅ぼす。この全地は荒れ果てたところと廃墟となる(25:10, 11)。

[2]またヨハネの書に、

すべての技術のすべての職人は、もはやバビロンの中に見いだされない。〝すべてのひき臼の音は、もはやそれらの中に聞かれない〟、また油ランプの光はもはやそれらの中に輝かない、花婿と花嫁の声はもはやそれらの中に聞かれない(黙示録18:21-23)。

ひき臼の音は、もはやバビロンの中に聞かれない」は、真理がないことです。「油ランプの光は輝かない」は、真理からの知性もないことです――「哀歌」に、

女たちはシオンの中で、おとめたちはユダの都の中で強姦された。首領たちは彼らの手でつるされ、老人たちの顔は尊ばれない。〝若者たちはひき臼へと連れ去られ〟、少年たちは薪の中で倒れる(5:11-14)。

若者たちはひき臼へと連れ去られる」ことは、真理を適用し、またこのように説きつけて、虚偽を考え出すことです。
[3]モーセの書に、

エジプトの地のすべての長子は、王座の上に座っているパロの長子から、〝ひき臼の後ろの女奴隷の長子まで〟、死ぬ(出エジプト記11.5)。

エジプトの長子」は、仁愛の善から分離した信仰の真理であり、それらの真理は虚偽となります(3325番)。「ひき臼の後ろの女奴隷の長子」は、このような真理の情愛であり、ここからの虚偽です。これらが、それらの歴史によって表象されました――
[4]同書に、

担保品として〝ひき臼〟と〝石臼〟を受け取るな、あなたはその霊魂を担保品とするからである(申命記24:6)。

この律法は、「ひき臼」によって教えの事柄が、「石臼」によって教えの事柄の真理が意味され、それらは「担保品の霊魂」と呼ばれるものであるので、それゆえ、定められました。ひき臼と石臼の霊的な意味なしに、その律法は与えられなかったこと、また「その霊魂」であったと言われなかったことは、明らかです。
[5]霊たちの世界の中に存在する表象するものから、「ひき臼をひくこと」の意味が導かれていることが、私に示されました。というのは、役立ちの目的なしに、単に自分たちの快楽のために、それらの者がいわばそこでひき臼をひいているのが見られたからです。真理は、その時、善からのその情愛がないので、外なる形の中で確かに真理のように見えます、しかし、それらに内なるものがないので、幻影です。そして、もし内なるものが悪であるなら、その時、悪を確証するために適用され、このように悪への適用によって虚偽となります。

最後の審判と世の終わり

038◀︎目次▶︎040

(9)「マタイ福音書」24:42-51の解説 39-41

39 [4422] この章〔創世記第34章〕の前に、「マタイ福音書」の第24章42節から終わりまでの主のことばの説明をとり上げます、それらはその章の中の最後のものであり、世代の完了、すなわち主の到来についてであり、それらは文字で次のものです、

それゆえ、目を覚ましていなさい、あなたがたは、あなたがたの主人がいつの時間にやって来るか知らないからです。けれども、これを知っておきなさい、家長が、泥棒がやって来るのを見張る時を知っていたなら、確かに目を覚ましていて、自分の家に穴をあけることを許さないからです。それで、あなたがたもまた用意しておきなさい、人の子がやって来るのがいつの時間かあなたがたは知らないからです。
それゆえ、主人が自分の召使いたちの上に、適切な時に彼らに食べ物を与えるために、彼らの上に置く忠実また賢いしもべはだれでしょうか? 主人がやって来て、そのようにしているのを見つけられるそのしもべは幸いです。
まことに、わたしはあなたがたに言います、〔その主人は〕自分のすべての財産の上に、そのしもべを置きます。けれども、悪いしもべが自分の心の中で「私の主人がやって来るのは遅れる」と言い、仲間のしもべを打ちたたき、酔っ払いたちと食うことと飲むことを始めるなら、待っていない日に、知らない時間に、このしもべの主人がやって来ます。また、彼を分裂させ、その部分を偽善者とともに置きます。そこには嘆き叫びと歯ぎしりがあります。

これらが何を含むか、続く事柄から明らかにすることができます。というのは「福音書」のこの章全部の中に、教会の最後の時について、それは内意で、世代の完了、また主の到来が扱われているからです。そのようであることは、各章の前の、前置きの中に見られるすべての説明から明らかにすることができ、それらはその章の直前にあります(すなわち、第26章の前に3353-3356番、第27章に3486-3489番、第28章に3650-3655番、第20章に3751-3757番、第30章に3897-3901番、第31章に4056, 4060番、第32章に4229-4231番、第33章に4332-4335番)――
[2]連続して何が含まれているかは、そこ〔これまでの内容〕にもまた言われています、すなわち、主の来臨後に設立されたキリスト教会がそれ自体を荒廃させ、すなわち、善からそれることを始めることです、その時、

(1)何が善と真理か知らず、しかし、それらについて論争し始めた。
(2)それらを軽蔑した。
(3)続いて、心で認めなかった。
(4)その後、冒涜した。
(5)また、選ばれた者と呼ばれる者のもとに依然として信仰の真理と仁愛の善が存続しなければならなかったので、その時の信仰の状態が述べられている。
(6)またその後、仁愛の状態〔述べられる〕。
(7)最後に、新しい教会の始まりについて扱われている。
(8)そのように、それら〔以前の教会内の善と真理〕が退けられ、また新しいものが養子にされるとき〔新しい教会と〕言われる教会内の善と真理についての状態について〔扱われている〕。

このひと続きのものから、書き写されたその章〔「マタイ福音書」第24章〕の最後ものであるそれらのことばが何を含むか、明らかにすることができます。すなわち、信仰の善の中にいるように、またもし〔その善の中に〕いないなら、滅びてしまう、という、教会の中の者への警告です。

最後の審判と世の終わり

039◀︎目次▶︎041

40[4423] 旧い教会の排斥と新しい教会の養子縁組(選定)のとき、それがどのようなものであるか知る者はほとんどいません。人間の内的なものとこれらの情愛を、またここから死後の人間の状態を知らない者は、善と真理が荒廃している、すなわち、もはや心で認められていない旧い教会の者は、洪水以前の者のように洪水で、あるいはユダヤ人のように自分の土地から追放されて、あるいはさらにまたそのように滅びてしまう、としか把握することができません――しかし、教会が、特にその内的な状態に関して、そのように来世の中での状態に関して荒廃したとき、すなわち、もはや信仰の何らかの善の中にないとき滅びます。その時、天界は彼らから遠ざかり、したがって主は遠ざかり、彼らに代わって養子にされる他の者へ移ります。なぜなら、地上のどこかに教会なしに、人間との天界の伝達は存在しないから。というのは、地上の教会は〝最大の人〟の心臓と肺のようであるからです(468, 637, 931, 2054, 2853番)。
[2]その時、旧い教会の者は、またこのように天界から遠く離れた者は、内的なものに関してある種の洪水の中に、実際に頭の上まで洪水の中にいます。この洪水そのものは、人間が身体の中で生きるとき認められません、しかし、死後、その中にやって来ます。その洪水は来世で認められ、実際に曇った霧で囲まれるようであり、それによって天界から分離されています――その曇った霧の中にいる者の状態は、信仰の真理が何か、ましてその善が何か、少しも見ることができないことです。というのは、天界の光は、その光の中に知性と知恵がありますが、その霧の中を貫通することができないから――これが荒廃した教会の状態です。

最後の審判と世の終わり

040◀︎目次▶︎042

41[4424] 前に示された主のことばが内意では何を含むか説明なしに明らかにすることができます。というのは、主はそこでは表象するものと表意するものによってではなく、たとえによって話されるからです。最後の節のことばが何を意味するかだけを述べます、すなわち、「彼を分裂させ、その部分を偽善者とともに置きます。そこには嘆き叫びと歯ぎしりがあります」です――「彼を分裂させる」は、善と真理からの分離と移動を意味します。というのは、教会内にいて、またそれでも悪の生活の中にいて、善と真理の知識の中にいるような者は、それら〔知識〕から遠ざけられるとき、彼らは分裂させられる者と言われるから。なぜなら、彼らから善と真理の知識が来世の中で分離されるとき、悪の中に、またここから虚偽の中にも保たれるからです。その理由は、善と真理の知識によって天界と連絡し、また悪とここからの虚偽によって地獄と連絡し、またこのように両方の間にぶら下がらないように、さらにまた、悪と虚偽に混ぜられるときに生じる善と真理を冒涜しないようにするためです――このような者もまた、地中に〔自分の〕タラントを隠した者への主のことばによって意味されています、

「彼からタラントを取り上げ、十タラントを持っている者に与えなさい」。なぜなら、持っているすべての者は満ち溢れるように与えられる、けれども、持たない者からは持っているものもまた取り去られるからです(マタイ25:28, 29)。

なおまた主が他のところで、「マタイ福音書」13:12、なおまた「マルコ福音書」4:25、また「ルカ福音書」8:18でもまた、それらが意味されます。
[2]「またその部分を偽善者とともに置きます」は、彼らの運命(割り当て地)を意味し、それが彼らの「部分」〔割り当てられた地〕です。その者は外面上、教えに関して真理の中に、また生活に関して善の中に見られます、しかし、内面的に、真理を何も信じず、善を何も意志せず、その者は偽善者です。彼らはこのように分裂させられます。そのために、彼らに外なるものが取り去られるとき、来世の中ですべての者に生じるように、内なるものに関してどのような者であるか見られます、すなわち、信仰と仁愛がないことです。それでも、名誉・利益・名声を得て、他の者を捕えるためという理由で、それら〔信仰と仁愛〕を装います――荒廃した教会内にいる者は、ほとんどすべての者はこのような者です。というのは、彼らは外なるものを持っています、しかし、内なるものは何も持っていないから。ここから彼らに内的な洪水があります(それについては直前の4423[40]番)。
[3]「そこには嘆き叫びと歯ぎしりがあります」は、来世の中の彼らの状態を意味し、「嘆き叫び」は悪に関する状態、また「歯ぎしり」は虚偽に関する状態です。というのは、みことばの中の「歯」は、最低の自然的なものを意味し、本来の意味ではそれらの真理を、正反対の意味ではそれらの虚偽であるから。というのは、「歯」は、それらに対応するから。それで、「歯ぎしり」は、真理との虚偽の衝突です。単なる自然的なものの中にいる者は、また感覚の欺きからそれらの中にいる者は、それゆえ見ないものを何も信じません。彼らは「歯ぎしりの中に」いると言われ、そしてまた、来世で自分自身が〔歯ぎしりの中に〕いることが見られ、なおまた自分自身の欺きから信仰の真理について結論します――善と真理に関して荒廃した教会の中に、このような者が満ち溢れています――さらにまた歯ぎしりによって同様のものが他の箇所に意味されています、例えば、「マタイ福音書」に、

王国の息子たちは外の暗やみの中に投げ出され、そこに嘆き叫びと〝歯ぎしり〟があります(8:12)。

王国の息子たち」は、荒廃した教会の中の者です。「暗やみ」は虚偽です(4418番)、というのは、曇った霧の中にいるとき暗やみの中にいるからです、そのことについては前に〔述べました〕。そこの「歯ぎしり」は、真理との虚偽の衝突です――同じく他の箇所に〔あります〕(例えば、「マタイ福音書」13:42, 50, 22:13, 25:30、また「ルカ福音書」13:28)。

最後の審判と世の終わり

041◀︎目次▶︎043

(10)世代の完了  42

42 [4535] 〔創世記の〕第26章からここまでの章の前に、主がご自分の到来について、すなわち、「世代の完了」について予言し、また数回、そこに、ご自分の到来、すなわち、世代の完了によって、「教会の最後の時」が意味されること、さらにまたみことばの中で最後の審判と呼ばれていることが示され、説明されました――文字どおりの意味を超えて見ることのない者は、「最後の審判」が「世の滅亡」であることとしか、このことを特に「黙示録」からしか、知ることができません、そこに〔次のように〕言われています、

私は〝新しい天〟と〝新しい地〟を見た。〝以前の天と以前の地は過ぎ去ったからである〟。海はもはやなかった。私は聖なる都、新しいエルサレムが神から天から下って来るのを見た(21:1, 2)。

そしてまた「イザヤ書」の預言から、そこに同様のものが〔あります〕、

見よ、わたしは〝新しい天〟と〝新しい地を創造している〟。それゆえ、以前のものは思い出されず、心にも上らない。あなたがたは永遠に喜べ、また小躍りして喜べ、それをわたしは創造している。見よ、わたしはエルサレムを創造し、小躍りするものとし、その民を喜ぶ(65:17, 18, 66:22)。
[2]文字どおりの意味を超えて見ることのない者は、地とともに全天がそこに何もないほどに粉みじんにされ、またその時、初めて死人は復活させられ、新しい天の中にそして新しい地の上に住むとしか把握しません。しかし、このみことばがこのように理解されてはならないことは、天と地の名前が挙げられているみことばの中の他の多くの箇所から明らかにすることができます――内意について何らかの信仰を持つ者は、新しい天と新しい地によって新しい教会が意味されていることをはっきりと見ることができ、その教会は以前のものが過ぎ去ったとき後に続きます(1733, 1850, 3355[3]番以降参照)。「天」がその内なるもの、「地」が外なるものです。
[3]前の教会のこの最後の時と、新しい教会の最初の時が、世代の完了とも呼ばれるものであり、それについて、またご自分の到来を、主は「マタイ福音書」第24章で語られています、なぜなら、その時、主は前の教会から去り、新しいものへやって来られるから――世代の完了がそのことであることは、みことばの中の他の箇所からもまた明らかにすることができます。例えば、「イザヤ書」に、

その日に……残りの者は、ヤコブの残りの者は力ある神に立ち返る。なぜなら、あなたの民イスラエルが海の砂のようになる、それから残りの者は立ち返るから。〝完了が定められ〟、義が氾濫した。なぜなら、〝完了〟と〝決定〟を万軍の主エホバが〝全地〟に行なわれているから(10:20-23)。

同書に、

今、あなたがたはあざけることがないようにせよ。ことによると、あなたがたの罰が強められないかもしれない、私は〝完了〟と〝決定〟を、万軍の主エホバとともに〔その方〕から、〝全地の上に〟聞いたからである(28:22)。

「エレミヤ書」に、

このようにエホバは言われた。〝全地〟は荒廃する、それでも、わたしは〝完了〟を行なわない(4:27)。

「ゼパニヤ書」に、

わたしは人間を苦痛の中に追いやる、また彼らはエホバに罪を犯したのでその盲目のように行く。彼らの血はちりのように、彼らの肉は糞のように、まき散らされる。……エホバは〝完了〟を、実に性急に〝地のすべての住民に〟行なわれる(1:17, 18)。

完了」がそこの教会の最後の時であり、また「」が教会であることは、個々のものから明らかです――
[4]地が教会であることは、カナンの地がそこに最古代の自体から教会があった地であり、そしてその後、ヤコブの子孫のもとに教会を表象するものがあったからです。この地が完了したと言われるとき、意味されるものはそこの国民ではなく、そこの民族の教会のものである礼拝の聖なるものです。というのは、みことばは霊的なものであり、地そのものは、民族もまた霊的なものでなく、教会のものが霊的なものであるからです――カナンの地は、そこに最古代の時代から教会があった地です(567, 3686, 4447, 4454, 4516, 4517番照)。またそのよう〔であった〕ので、みことばの中で「地」によって教会が意味されました(566, 662, 1066, 1067, 1262, 3355[3], 4447番)。ここから、「イザヤ書」の「全地に行なわれる完了」によって、また「ゼパニヤ書」の「地のすべての住民のもとの性急な完了」によって何が意味されているか明らかです。その地の住民であったユダヤ民族が、完了させられなかったこと、しかし、彼らのもとの礼拝の聖なるものが完了させられたことは、よく知られています。
[5]完了がそのことであることは、さらにはっきりと「ダニエル書」に明らかです、

あなたの民の上に、またあなたの聖なる都の上に、そむきの罪の〝完了〟のために、罪を封印するために、不法を償うために、世代の義をもたらすために、幻と預言を封印するために、また至聖所に油を注ぐために、七十週が定められている。……週の真ん中でいけにえとささげ物をやめさせる。最後に〝完了〟と〝決定〟にまでも鳥の上に荒廃の荒廃があり、荒すことの上に滴り落ちる(9:24, 27)。
[6]ここから今や、弟子たちは主に向かって、

あなたの到来と〝世の終わり〔世代の完了〕〟のしるしは何ですか? (〔マタイ〕24:3)。

〔と問した〕世代の完了によって教会の最後の時以外に何も意味されないことを見ることができます。そしてまた、同じ福音書の最後にある主の次のことばによって、
イエスは弟子たちに、

わたしがあなたがたに命じたどんなことでも、教えたことのすべてのことをあなたがたは守りなさい。見よ、わたしは、〝世の終わり〟まですべての日に、あなたがたともにいます(28.20)。

主により、弟子たちとともに世の終わり〔世代の完了〕までいる、と言われたのは、主の十二弟子によってイスラエルの十二部族と同様のものが、すなわち、愛と信仰のすべてのもの、それゆえ、教会のすべてのものが意味されるからです(3354[2], 3488[7], 3858番参照)。十二部族によって(3858, 3926, 3939, 4060[31]番)――教会の完了が、そこにもはや仁愛が何もなく、またここから信仰が何もない時であることは、前に数回、示されています――キリスト教会と呼ばれるこの教会の中に、仁愛の何らかのものまたここから信仰の何らかのものがほとんど残っていないことは、そのように世代のその完了が今や現存することは、続くものの中で、主の神的慈悲から示されます。

最後の審判と世の終わり

042◀︎目次▶︎044

(11)「マタイ福音書」25:1-13の解説 43-46

43 [4635] 「創世記」の前章の序文の中で、主が「マタイ福音書」第24章で教会 の最後の時について予言したことをこれまで説明しました。同じ福音書の同じものが第25章に続けられるので、それらもまた、その順序で、内意に関して説明することが許されています、それらは文字で次のものです――

その時、天の王国は、自分の明かりを握って花婿の出迎えに出て来る十人の娘と同様である。けれども、彼女らからの五人は賢かった、しかし、五人は愚かだった。それらの愚かな者は、自分の明かりを握って〔いても〕、自分自身に油を受け入れていなかった。けれども、賢い者は、自分の明かりとともに自分の器の中に油を受け入れていた。けれども、花婿が遅れて、すべての者が眠り、眠り込んだ。けれども、真夜中に叫び声が起こった、「見よ、花婿が来る、その方の出迎えに出て来い」。その時、そのすべての娘たちは起き、自分の明かりを整えた(ランプの芯を切りそろえた)。しかし、愚かな者たちは言った、「私たちにあなたがたの油をください、私たちの明かりは消えるからです」。けれども、賢い者たちは、「ことによると、私たちに、またあなたがたに、十分でないかもしれません。しかし、むしろ売る者のところへ出かけなさい、あなたがた自身で買いなさい」と言って、答えた。けれども、買うために彼女らが立ち去っているときに、花婿がやって来た。用意のできた者はその方とともに結婚式場へ入り、入り口は閉ざされた。けれどもその後、残りの娘たちもまた、「主よ、主よ、私たちに開けてください」と言って、やって来た。けれども、その方は答えて言った、「まことに、わたしはあなたがたに言う、わたしはあなたがたを知らない」。それゆえ、目を覚ましていなさい、あなたがたは人の子がやって来る日を、時もまた、知らないからである(マタイ25:1-13)。

最後の審判と世の終わり

043◀︎目次▶︎045

44 [4636] このたとえによって主がご自分の到来を述べたことは、個々のものから、またそこに言われている終わり〔のことば〕、「それゆえ、目を覚ましていなさい、あなたがたは人の子がやって来る日を、時もまた、知らないからである」から明らかです。前の第24章の中にもあるように、そこには、その方の到来について明瞭に話されています、

それゆえ、目を覚ましていなさい、あなたがたは、あなたがたの主がいつの時間にやって来るか知らないからです(第42節)。

その方の到来が世代の完了または教会の最後の時であることは前に示しました。

最後の審判と世の終わり

044◀︎目次▶︎046

45 [4637] 主がたとえの中で話したすべてと個々のものは、その方の王国の霊的なものと天的なものの、また最高の意味の中でその方のもとの神的なものの表象するものと表意するものであることがはっきりと明らかです。それゆえ、そのことを知らない者は、主のたとえについて何らかのものを、またもっと多く内部に隠れているものを、普通の比喩のようなもの以外に、決して何も把握することができません。例えば、これら十人の娘について、内意で「」が何を意味するか知られないなら、なおまた、十・五・明かり・器・油・売る者・結婚式、また他のものが何を意味するか〔何も把握することができません〕。他のすべてのたとえの中にあるものも同様です。主がそれらのたとえの中で話されたものは、外なる形で、〔前に〕言われたように、普通の比喩のように見えます、しかし、内なるものの中に、全天界を満たすようなものがあります、なぜなら、内意が個々のものに内在し、それは、その霊的なものと天的なものが、天界を通ってあらゆる方向へ光と炎のようにひろがるようなものであるからです。その意味は文字どおりの意味からまったく高揚されており、個々の表現から、また個々のことばから、それどころかすべてのイオータ〔一点〕から流れ出ています。
けれども、内意でこのたとえが何を含むかは、続くものから明らかになります。

最後の審判と世の終わり

045◀︎目次▶︎047

46 [4638] 「その時、天の王国は……十人の娘と同様である」は、旧い教会の最後の時と新しい教会の最初の時を意味します。教会は地上の主の王国です。「十人の娘」は、教会の中の、すなわち、善と真理の中にも、悪と虚偽の中にもいるすべての者です。内意で「」は、残りのもの、そしてまた十分なもの、このようにすべてのものです。また「」は、教会の中の者です。このように、みことばの中の他の箇所でもまたこのようなものが意味されています。
[2]「自分の明かりを握っている者」は、霊的なものの中に天的なものがあるその霊的なものを、すなわち、真理の中に善があるその真理を、または同じことですが、信仰の中に隣人に対する仁愛があるその信仰を、また仁愛の中に主への愛があるその仁愛を意味します、というのは「」は愛の善であるから、そのことについては後で続けます。しかし、「その中に油のない明かり」は、信仰と仁愛の中に善がない同じものです。
[3]「花婿の出迎えに出て来る」は、彼らが受け入れたことを意味します。
けれども、彼女らからの5人は賢かった、しかし、五人は愚かだった」は、彼らの一部の者を意味します、その者は真理の中にいて、それらの中に善があります、また一部の者を意味します、その者は真理の中にいて、それらの中に善がありません。前者は「賢い」者です、けれども、後者は「愚かな」者です。内意で「」は、ある者であり、ここでは彼らの一部の者です。
それらの愚かな者は、自分の明かりを握っていても、自分自身に油を受け入れていなかった」は、自分の真理の中に仁愛の善を持たなかったことを意味します。内意で「」は、仁愛の善、愛の善です。
けれども、賢い者は、自分の明かりとともに自分の器の中に油を受け入れていた」は、自分の真理の中に仁愛の善を、愛の善を持ったことを意味します。「」は、信仰の教えの事柄です。

[4]「けれども、花婿が遅れて、すべての者が眠り、眠り込んだ」は、遅れ(時の経過)を、またここからの疑いを意味します。「眠る」ことは、内意で、遅れ(時の経過)から教会のものの中で不活発になることであり、「眠り込む」ことは疑いを、「賢い者」は、その中に肯定的なものがある疑いを、「愚かな者」は、その中に否定的なものがある疑いを抱くことです。
けれども、真夜中に叫び声が起こった」は、旧い教会の最後の時と新しい教会の最初の時を意味します。この時が、みことばの中で教会について扱われるとき「」と呼ばれるものです。「叫び声」は変化です。
見よ、花婿が来る、その方の出迎えに出て来い」は、審判、すなわち、受け入れと拒絶を意味します。
[5]「その時、そのすべての娘たちは起き、自分の明かりを整えた(ランプの芯を切りそろえた)」は、すべての者の準備を意味します、なぜなら、それらの中に善がない真理の中にいる者は、それらの中に善がある真理の中にいる者と比べて、自分も等しく受け入れられると信じるからです。というのは、仁愛がないところに信仰は何もないことを知らないで、信仰のみが救うと思うからです。
しかし、愚かな者は言った、『私たちにあなたがたの油をください、私たちの明かりは消えるからです』」は、〔彼らが〕自分の無益な真理によって、すなわち、空虚な自分の信仰によって、他の者から善が伝達されることを欲したことを意味します。というのは、すべての霊的なものと天的なものは来世の中で相互に伝達されます、しかし、善によってでないなら伝達されないからです。
[6]「けれども、賢い者たちは言った、『ことによると、私たちに、またあなたがたに、十分でないかもしれません』と言って、答えた」は、彼らにわずかにある善が取り去られるので伝達されることができないことを意味します。というのは、このように、来世の中で、善のない真理の中にいる者との善の伝達については、あたかも他の者から善を取り去り、自分自身に適用し、また他の者に伝達しないで、それを汚すかのように振る舞い、そのために、彼らに善の何らかの伝達は生じないからです(これらについては、続く〔創世記〕第37章の終わりに〔述べた〕経験参照)。
[7]「しかし、むしろ売る者のところへ出かけなさい、あなたがた自身で買いなさい」は、功績の善を意味します。そのことを自慢する者は、「売る者」です。さらにまた、その中に善のない真理の中にいる者は、来世で、他の者よりもそのすべてのものを功績のものとし、外見上、外なる形の中で善のようにします、それでも内なるものの中に悪があります。主が「マタイ福音書」で言われています、

その日に、多くの者がわたしに言います、「主よ、主よ、あなたの名前によって私たちは預言し、あなたの名前によって私たちは悪魔を追い出し、あなたの名前の中で私たちは多くの力を行使しませんでしたか?」。しかし、その時、わたしは彼らに宣言します、「わたしはあなたがたを知らない、わたしから立ち去れ、不法を働く者たちよ」(7:22, 23)。

また「ルカ福音書」で、
そこで、家長が起き上がり、戸を閉め〔てから〕、その時、あなたがたは戸の外に立ち、「主よ、主よ、私たちに開けてください」と言って、たたき始めますが、しかし、あなたがたに答えて、言います、「私は、あなたがたがどこからであるか、知らない」。その時、あなたがたは、「私たちはあなたの前で食べ、飲み、私たちの街路であなたは教えられた」と言い始めます。しかし、言います、「私はあなたがたに言います、私は、あなたがたがどこからであるか知りません。 私から立ち去りなさい、不法を働くすべての者たち」(13:25, 26, 27)。

このような者が「愚かな者」によってここに意味されている者です、そのために、彼らについて同様に次のことばで言われています、「彼女らもまた、『主よ、主よ、私たちに開けてください』と言って、やって来た。けれども、その方は答えて言った、『まことに、わたしはあなたがたに言う、わたしはあなたがたを知らない』」。
[8]「けれども、買うために彼女らが立ち去っているときに、花婿がやって来た」は、さかさまの適応を意味します。
用意のできた者はその方とともに結婚式場へ入った」は、善の中に、またここから真理の中にいた者が、天界の中に受け入れられたことを意味します。
天界は、善と真理の結婚である天界の結婚から結婚式に、主は花婿にたとえられ、そのとき〔彼らは〕その方に結合されるので、ここから教会は花嫁と呼ばれます。
入り口は閉ざされた」は、他の者たちは入ることができないことを意味します。
[9]「けれどもその後、残りの娘たちもまた、『主よ、主よ、私たちに開けてください』と言って、やって来た」は、仁愛なしの信仰のみから、また、それらの中に主のいのちがなく、しかし、自分自身のいのちある働きから、入ることを欲することを意味します。
けれども、その方は答えて言った、『まことに、わたしはあなたがたに言う、わたしはあなたがたを知らない』」は、拒絶を意味します。内意で「彼らを知らないこと」は、隣人に対する何らかの仁愛の中に、またそれによって主との結合の中にいないことです。結合の中にいない者は、「知られていない」と言われます。
[10]「それゆえ、目を覚ましていなさい、あなたがたは人の子がやって来る日を、時もまた、知らないからである」は、信仰の戒めにしたがった生活を熱望することを意味し、これが「目を覚ましている」ことです。人間に知られていない受け入れの時や状態が「あなたがたは人の子がやって来る日を、時もまた、知らない」によって意味されます。
善の中にいる者は、すなわち、戒めにしたがって行なう者は「賢い者」と言われます、しかし、真理の知識の中にいて、また行なわない者は、「愚かな者」と言われます。さらにまた「マタイ福音書」に、主により言われている他の箇所に、

わたしのことばを聞いて、それを行なうすべての者を、わたしは〝賢い男〟にたとえます……また、わたしのことばを聞いて、しかし、それを行なわないすべての者は、〝愚かな男〟にたとえられます(7:24, 26)。

最後の審判と世の終わり

046◀︎目次▶︎048

(12)「マタイ福音書」25:31-46の概要 47-49

47 [4661] 〔創世記の〕前章の前〔の部分〕に、主が「マタイ福音書」第25章1節-14節で、教会の最後の時について、またそこに十人の娘についてのたとえによって予言したものの説明を続けました。その後、他のたとえが続きます、すなわち、しもべたちについて、国外へ出かける者たちに、ひとりに五タラント、ひとりに二タラント、もうひとりに一タラントを与え、それらで商売したとき、それらの者のうち、五タラントを受けた者はそれらによってさらに五タラントをもうけ、二タラントを受けた者はそれらによって二タラントをもうけ、一タラントを受けた者はそれを地の中に隠したことです。このたとえは、十人の娘についてのたとえとほとんど同様のものを含んでいるので、同じ章の最後へ通り過ぎ、それを説明することを許していただきます、第25章31節から終わりまでに、そこに文字で次のことがあります。

最後の審判と世の終わり

047◀︎目次▶︎049

48[4662] 人の子がご自分の栄光の中に、すべての聖なる天使たちがその方とともにやって来る時、その方は栄光の王座の上に座ります。そして、その方の前にすべての国民が集められ、それらを、羊飼いが羊を山羊から分離するようにお互いから分離します。実に、羊を自分の右側に、しかし、山羊を左側に置きます――その時、王はその方の右側に者に言います、「やって来なさい、わたしの父に祝福された者たち。世の創造から、あなたがたに用意された王国を所有しなさい。というのは、わたしが飢え、あなたがたはわたしに食べさせました。わたしが渇き、あなたがたはわたしに飲ませました。わたしが異国人として生活し、あなたがたはわたしを迎え入れました。裸であったとき、あなたがたはわたしに着せました。わたしが病んでいたとき、あなたがたはわたしを訪ねました。わたしが牢の中にいたとき、あなたがたはわたしにやって来たからです――その時、正しい者たちがその方に、「主よ、いつ、私たちは飢えているあなたを見て、あなたに食べさせたましたか。または渇いて、飲ませましたか? しかし、いつ、私たちは異国人として生活していたあなたを見て、迎え入れ、または裸であった〔あなたを〕私たちは着せましたか、しかし、いつ、私たちは、病んでいるあなたを、または牢の中であなたを見て、あなたにやって来ましたか?』と言って、答えました。しかし、王は答えて、彼らに言います、「まことに、わたしはあなたがたに言います、あなたがたがこれらの兄弟のひとりに、わたしの最小の者〔のひとり〕にしたかぎり、あなたがたはわたしにしたのです」。
その時、左側にいる者にもまた言います、「わたしから立ち去れ、呪われた者たち、悪魔とその使いたちに用意された永遠の火の中へ。というのは、わたしが飢え、あなたがたはわたしに食べさせなかった。わたしが渇き、あなたがたはわたしに飲ませなかった。わたしが異国人として生活し、あなたがたはわたしを迎え入れなかった。裸であって、あなたがたはわたしに着せなかった。わたしが病み、あなたがたはわたしを訪ねなかったからである――その時、またその者たちがその方に、「主よ、いつ、私たちは、飢え、渇き、異国人として生活し、裸であり、病み、牢の中にいたあなたを見て、私たちはあなたに仕えなかったのですか?』と言って、答えました。
その時、彼らに、「まことに、わたしはあなたがたに言う。あなたがたがそれらの最小の者のひとりにしなかったかぎり、あなたがたはわたしにもしなかった」と言って、答えます――これらの者は永遠の罰の中に、しかし、正しい者は永遠のいのちの中に入ります。

最後の審判と世の終わり

048◀︎目次▶︎050

49[4663] 内意を知らない者は、主により言われた最後の日について、その日に主の前に全地球の中のすべての者が集められ、その時、さばかれ、そしてまた、さばかれることの過程は、文字で述べられているようなものになる、すなわち、彼らを右側と左側に置き、そのように彼らに話す、としか考えることができません。しかし、内意を知っている者は、みことばの中の他の箇所から学んだ者は、主は決してある者を永遠の火へとさばかないこと、しかしだれでも自分自身をさばくこと、すなわち、それらの中に自分自身を投げ込むこと、そしてまた、最後の審判がそれぞれの者に死ぬときにあること、全般的にそれらが何を含むかある程度知ることができます。また内意からまた対応から、ことばの内的なものを知っている者は、それらが特定的に何を意味するか、すなわち、だれもが世の中での自分の生活にしたがって、来世の中で報酬を受けることを知ることができます。
[2]信仰のみによる人間の救いを見せびらかせた者は、主の働きについて〝信仰の実〟であると話したとしか、またこのことの神秘(奥義)を知らない単純な者のために話したとしか、それらを説明することができません。しかし、それらの見解にしたがっていても、それでもここから、〝信仰の実〟が死後、人間を祝福されたものや幸福なものにすることが明らかです。〝信仰の実〟は、信仰の戒めにしたがった生活以外の何ものでもありません、したがって、それにしたがった生活が救います、けれども生活のない信仰は救いません。というのは、人間は死後、自分自身に自分の生活のすべての状態を抱き、身体の中であったように、死後もそのようなものであるからです。すなわち、いのちが身体の中にあったとき、他の者を自分自身に比べて軽蔑した者は、来世の中でもまた他の者を自分自身に比べて軽蔑します。いのちが身体の中にあったとき、隣人を憎んだ者は、来世の中でもまた隣人を憎みます、そして、いのちが身体の中にあったとき、仲間に対して欺きを行なった者は、来世の中でもまた仲間に対して欺きを行ないます、等々。それぞれの者が、いのちが身体の中にあったときおびた性を、来世の中でも保持します。その性が追い払われることができないこと、またもし追い払われるなら、いのちの何ものも残らないこともまたよく知られています。
[3]それで、ここから、仁愛の働きだけが主により言及されています。というのは、仁愛の働きの中にいる者は、すなわち、同じことですが、信仰の生活の中にいる者は、いのちが身体の中にあったときでないなら、それでも来世で信仰を受け入れる可能性の中にいるからです。しかし、仁愛の働きの中にいない者は、すなわち、信仰の生活の中に、信仰を受け入れる何らかの可能性の中に決していない者は、いのちが身体の中あったときも、来世でもいません。というのは、悪は決して真理と一致しないで、1方は他方を退けるからです。そしてもし、悪の中にいる者が真理を話すなら、それらを口から話し、心からではありません、このように〔悪と真理は〕やはり最も遠く互いに離れています。

[4664] 主が最後の審判について、すなわち、死後、それぞれの者の最後の審判について話されていることに含まれている内意が何であるかを、前のようにここで説明するのは、長くなるので、主の神的慈悲から、続く〔創世記の〕章の前〔の部分〕で、順に説明します。

最後の審判と世の終わり

049◀︎目次▶︎051

(13)「マタイ福音書」25:31-33の解説 50-53

50 [4807] 前章〔創世記第37章〕の前の4661-4664番[47-49]に、主が「マタイ福音書」第25章31節から終わりまでの説明を始めました――そこに羊と山羊と呼ばれる善い者と悪い者についての審判について話されたことです。これらのことばの内意が何であるか、まだ説明していません、しかし、今から、この章と続くいくつかの章の前で、説明すべきことを取り上げます。ここから、最後の審判によってそこに世の最後の時が、またその時、初めて死んだ者が復活し、主の前に集められ、さばかれることが意味されないで、世から来世の中に移るそれぞれの者の最後の時が意味されます、というのは、その時が彼の審判であるからです、この審判が意味されるものであることが明らかになります。
しかし、そのようであることは、文字どおりの意味からは見られません、内意から見られます。主がこのように話されたのは、表象するものと表意するものによって、旧約と新約のみことばの中のどの箇所でも、そのように話されたからです。というのは、表象するものと表意するものによって話すことは、同時に世の前と天界の前で、すなわち、人間の前と天使の前で話すことであるからです。このような話し方は、全般的な話し方なので神的であり、ここからみことばに特有です。そのために、世の中にいて、主が最後の審判について話しているものに関心がなく、世俗的なものにしか関心がない者は、復活の時がすべての者に同時にあること、それどころか、主が、その時、栄光の王座の上に座り、集められた者に、そこにあることばにしたがって言われることであると把握します。しかし、天界的なものに関心をもつ者は、死ぬときにそれぞれの者に復活の時があること、またそこの主のことばには、それぞれの者が生活にしたがってさばかれることを知ります。このように、それぞれの者が審判を自分自身にもたらすのは、その審判がその者の生活にしたがっているからです。

最後の審判と世の終わり

050◀︎目次▶︎052

51[4808] それらのことばの内意にそのことが含まれることは、それらの意味にしたがって個々の説明から明らかになります。しかし、ここでは31-33節の中に含まれるものだけを説明します、すなわち、次のものです、

人の子がご自分の栄光の中に、またすべての聖なる天使たちがその方とともにやって来る時、その方は栄光の王座の上に座ります。そして、その方の前にすべての国民が集められ、それらを、羊飼いが羊を山羊から分離するようにお互いから分離します。実に、羊を自分の右側に、しかし、山羊を左側に置きます。

最後の審判と世の終わり

051◀︎目次▶︎053

52 [4809] 「人の子がご自分の栄光の中にやって来る時」は、神的真理がその光の中に見られる時を意味し、それは人間のそれぞれの者に死ぬとき生じます。というのは、その時、天界の光の中にやって来て、その中で、何が真理と善か、またここから〔それが〕どんなものであるか認めることができるからです。「人の子」は、みことばの内意で、神的真理に関する主、このように主からの神的真理です。「栄光」は、知性と知恵であり、それらはここから、光のように、また天使たちの前に光の輝きのように見られます。この光の輝きが、その中に主からの神的真理であって、みことばの中で「栄光」と呼ばれるものです。内意で「人の子」は神的真理です(2159,2803,2813,3704番照)。
[2]「すべての聖なる天使たちがその方とともに」は、天使たちの天界を意味します。「聖なる天使たち」は主の神的善からの真理です、なぜなら、みことばの中の「天使」によって天使たちではなく、主からのものが意味されるからです(1925,4085番照)。というのは、天使たちは主の神的善から発出している真理のいのちを受け入れるものであるから。ここから、「天使たち」はそれらの真理であることが明らかです。ここに、死後、それぞれの者の状態が、そして生活にしたがったそれぞれの者の審判について扱われているのは、「すべての聖なる天使たちがその方とともに」と言われていて、そのことによって、天界を通して審判があることが意味されるからです。というのは、神的真理のすべての流入は天界を通して生じ、直接の流入は、だれによっても受け入れられることができないからです。
[3]「その時、その方は栄光の王座の上に座ります」は、審判を意味します、というのは「王座」は主の王権について言われ、そして主の王権が神的真理であるから(1728, 2015, 3009, 3670番)、また神的真理は、そこから、またそれにしたがって審判があるからです。
[4]「その方の前にすべての国民が集められる」は、すべての善と真理が明らかになることを意味します。というのは、みことばの内意で、「国民」によって善が、また正反対の意味で悪が意味されるから。このように善と悪が神的な光の中で見られることが、すなわち、神的真理からの光の中で、「その方の前にすべての国民が集められる」ことによって意味されます。
[5]「それらを、羊飼いが羊を山羊から分離するようにお互いから分離します」は、悪からの善の分離を意味します。というのは、「」は善の中にいる者、また「山羊」は悪の中にいる者であるから。「」は仁愛の中に、またここから信仰の中にいる者、「山羊」は信仰の中にいても、仁愛の中にいない者と正しく(適切に)言われています。その両者についてここに扱われています。「羊」は、仁愛の中に、またここから信仰の中にいる者です(2088, 4169番照)。「山羊」は信仰の中にいて、仁愛の中にいない者です(4769番)。
[6]「実に、羊を自分の右側に、しかし、山羊を左側に置きます」は、善からの真理にしたがった分離を、また悪からの虚偽にしたがった分離を意味します。実際、来世の中で、善からの真理の中にいる者は右側に、悪からの虚偽の中にいる者は左側に見られます。ここから、右側にと左側に置かれることは、生活にしたがって秩序づけられることです。

最後の審判と世の終わり

052◀︎目次▶︎054

53 [4810] これらから、何がこれらの主のことばに含まれるか、また文字どおりの意味にしたがって理解されてはならないこと、すなわち、主が何らかの最後の時に栄光の中にやって来ること、またその時、すべての聖なる天使たちがその方とともにやって来て、栄光の王座の上に座り、その方の前に集められたすべての国民がさばかれること、しかし、それぞれの者が、自分の生活にしたがって、世の中の生活から永遠の生活の中に移るとき、さばかれることが明らかです。

最後の審判と世の終わり

053◀︎目次▶︎055

(14)「マタイ福音書」25:34-36の解説 54-59

54 [4954] 前章の前の序文の中で、主が「マタイ福音書」25:31-33で善い者と悪い者の審判について話されたことが説明され、それらは4807-4810[50-53]番に見られます。今や、そこに順に続いている説明すべきものに、入ります、すなわち、次のことばです、

その時、王はその方の右側の者に言います、「やって来なさい、わたしの父に祝福された者たち。世の創造からあなたがたに用意された王国を所有しなさい。というのは、わたしが飢え、あなたがたはわたしに食べさせました。わたしが渇き、あなたがたはわたしに飲ませました。わたしが異国人として生活し、あなたがたはわたしを迎え入れました。裸であったとき、あなたがたはわたしに着せました。わたしが病んでいたとき、あなたがたはわたしを訪ねました。わたしが牢の中にいたとき、あなたがたはわたしにやって来たからです(第34-36節)。

最後の審判と世の終わり

054◀︎目次▶︎056

55 [4955] 内意で、これらが何を含むか、続くものから明らかになります。その順序で列挙されているこれらの働きが仁愛そのものであることを、あらかじめ知っておかなければなりません。このことを、みことばの内意を知らない者、すなわち、「飢えている者に食べさせ、渇いている者に飲ませ、異国人として生活した者を迎え入れ、裸の者に着せ、病んでいる者を訪れ、牢の中の彼らにやって来ること」によって何が意味されるか知らないなら、だれも見ることができません。これらについて単に文字どおりの意味から考える者は、それらによって外なる形の中の善の働きが意味され、それらに何の秘義も内在しないと推断します。それでもそのとき個々のものの中に秘義があり、これは主からのものなので神的なものです。しかし、今日では仁愛の教えの事柄は何もないので、その秘義は今日では理解されていません。というのは、〔人々が〕仁愛を信仰から分離した後に、それらの教えの事柄は失われ、それらに代わって、信仰の教えの事柄が受け入れられ、考え出され、それら教えの事柄は、何が仁愛かまた何が隣人かまったく何も教えないからです。
[2]古代人のもとの教えの事柄は、仁愛のすべての種類を、そしてまた、だれが仁愛を行なうべき隣人か、またどのように、あるものが別の段階の中で、また別の相互関係の中で、別の隣人であるか、したがって、他の者に対してどのように仁愛を適応させて、ある者に対して実践すべきか教えました。さらにまたそれらを分類し、また名前を与えました。ある者を貧しい者・乏しい者・哀れな者・苦しむ者、ある者を盲目の者・びっこの者・孤児・やもめのような欠陥のある者、ある者を飢えた者・渇いた者・外国で生活する者・裸の者・病んだ者・縛られた者、等々です。ここから〔彼らは〕、ある者にまた他の者に対してどの義務の中にあるか知りました。しかし、これらの教えの事柄は、言われたように、また、みことばの理解も、また今日ではみことばの中の貧しい者・やもめ・孤児によって、このように呼ばれている者、同様に、ここに、飢えた者・渇いた者・外国で生活する者・裸の者・病んだ者・牢の中の者以外に何も他のものが意味されないことを、だれも知らなくなるほどに失われました。それでも、そのとき、これらによって、その本で仁愛がどのようなものであるか、またその実践がその生活の中でどのようであるべきかが述べられています。

最後の審判と世の終わり

055◀︎目次▶︎057

56 [4956] 隣人に対する仁愛の本は、善と真理の情愛であり、自分自身が悪と虚偽であることの承認であり、実に、隣人は善と真理そのものです。これらに情愛を感じることが仁愛を持つことであり、隣人と正反対のものは悪と虚偽であり、これらを退ける者は仁愛を持ちます。そこで、隣人に対する仁愛を持つ者は、善と真理にそれが主からのものなので情愛を感じ、自分自身からのものなので悪と虚偽を退けます。このことを行なうとき、自分自身の承認から卑下の中にいます、また卑下の中にいるとき、主からの善と真理を受け入れる状態の中にいます。
これらが仁愛のものであり、内意では、それらを主の次のことばが含んでいます、

わたしが飢え、あなたがたはわたしに食べさせました。わたしが渇き、あなたがたはわたしに飲ませました。わたしが異国人として生活し、あなたがたはわたしを迎え入れました。裸であったとき、あなたがたはわたしに着せました。わたしが病んでいたとき、あなたがたはわたしを訪ねました。わたしが牢の中にいたとき、あなたがたはわたしにやって来ました。

これらのことばがそれらのことを含むことは、内意から以外に、だれも知ることができません。仁愛の教えの事柄を持っていた古代人は、これらを知っていました。しかし、今日では、「それらが内在する」と言われるなら怪しんでしまうほどに、これほどに遠く離れているように見えます。さらにまた、人間のもとの天使たちは、それらのことばをそのようにしか知覚しません。というのは、「飢えている者」によって情愛から善を望む者、「渇いている者」によって情愛から真理を望む者、「異国人として生活している者」によって教えられることを欲する者を、「裸である者」によって自分自身の中に善と真理が何もないことを認めている者、「病んでいる者」によって自分自身の中に悪でないなら何もないこと認めている者、「縛られている者」すなわち「牢の中にいる者」によって自分自身の中に虚偽でないなら何もないことを認めている者を知覚するからです――これらが一つの意味のものとされるなら、直前に言われたことを意味します。

最後の審判と世の終わり

056◀︎目次▶︎058

57  [4957] これらから、主が話したものには、たとえ単なる世俗的なものの中にいる者の前に、さらにまた身体的なものの中にいる者の前に、どんな人間でも話すことができるようなものに見られても、すべてのものの内部に神的なものがあったことを明らかにすることができます。それどころか身体の中にいる者は、「主のこれらのまた他のみことば中には、この時代の学問のある者たちからの、雄弁をもって話す者の説教や伝道〔の話〕ほどの、それほどのありがたみ(恵み)がない、それほどの重みもない」と言います。そのとき、それでもこれらの説教や伝道〔の話〕は、穀粒に比べて、うろこやもみ殻のようです。

最後の審判と世の終わり

057◀︎目次▶︎059

058 58 [4958] 「飢えること」が情愛から善を望むことであるのは、パンが内意の中で愛と仁愛の善であり、食物が全般的に善であるからです(2165, 2177, 3478, 4211, 4217, 4735番)。「渇くこと」が、情愛から真理を望むことであるのは、ぶどう酒そしてまた水が信仰の真理であるからです(ぶどう酒が〔それである〕ことは、1071,1798番、水が〔それである〕こと
は、2702番)。「異国人として生活している者」は教えられることを欲する者です(1463,44
44番照)。「裸である者」は善と真理の何ものも自分自身の中にないことを認める者です。「病んでいる者」は悪の中にいる者です。「縛られている者」、すなわち、「牢の中にいる者」が虚偽の中にいる者であることは、みことばの中に、そこに名前を挙げられている多くの箇所から明らかです。

最後の審判と世の終わり

058◀︎目次▶︎060

59 [4959] 主がご自分についてこれらのことを言うのは、主がこのようである者の中におられるからです。そのために、さらにまた、言われています、

まことに、わたしはあなたがたに言います、あなたがたがこれらの兄弟のひとりに、わたしの最小の者〔のひとり〕にしたかぎり、あなたがたはわたしにしたのです(第85節)。

最後の審判と世の終わり

059◀︎目次▶︎061

(15)「マタイ福音書」25:37-46の解説 60-68

60 [5063]前の〔創世記〕第39章の前〔の部分〕で、主が「マタイ福音書」25:34-36で善い者と悪い者の審判について話したこと〔の内容を〕説明しました。今から、次のものを続けます――

その時、正しい者たちがその方に、「主よ、いつ、私たちは飢えているあなたを見て、あなたに食べさせましたか。または渇いて、飲ませましたか? しかし、いつ、私たちは異国人として生活していたあなたを見て、迎え入れ、または裸であった〔あなたに〕着せましたか、しかし、いつ、私たちは、病んでいるあなたを、または牢の中であなたを見て、あなたにやって来ましたか?』と言って、答えました。
しかし、王は答えて、彼らに言います、「まことに、わたしはあなたがたに言います、あなたがたがこれらの兄弟のひとりに、わたしの最小の者〔のひとり〕にしたかぎり、あなたがたはわたしにしたのです」。その時、左側にいる者にもまた言います、「わたしから立ち去れ、呪われた者たち、悪魔とその使いたちに用意された永遠の火の中へ。というのは、わたしが飢え、あなたがたはわたしに食べさせなかった。わたしが渇き、あなたがたはわたしに飲ませなかった。わたしが異国人として生活し、あなたがたはわたしを迎え入れなかった。裸であって、あなたがたはわたしに着せなかった。わたしが病み、あなたがたはわたしを訪ねなかったからである」。
その時、またその者たちがその方に、「主よ、いつ、私たちは、飢え、渇き、異国人として生活し、裸であり、病み、牢の中にいたあなたを見て、私たちはあなたに仕えなかったのですか?』と言って、答えました。
その時、彼らに、「まことに、わたしはあなたがたに言う。あなたがたがそれらの最小の者のひとりにしなかったかぎり、あなたがたはわたしにもしなかった」と言って、答えます。これらの者は永遠の罰の中に、しかし、正しい者は永遠のいのちの中に入ります(第37-46節)。

最後の審判と世の終わり

060◀︎目次▶︎062

61 [5064] 前の章の序文、4954-4959[54-59]番の中で「飢えている者に食物を与えること、渇いている者を飲ませること、異国人として生活している者を歓迎すること、裸の者を着せること、縛られている者そして牢の中にいる者を訪れること」によって、内意で何が意味されているか説明しました、すなわち、含まれているものは仁愛の本であり、そしてそのように述べられていることです。「飢えている者、渇いている者、異国人として生活する者」によって善と真理の情愛が、また「裸である者、病んでいる者、縛られている者、牢の中にいる者」によって自分自身〔がそのような者であることを〕を承認することが4956, 4958[56, 58]番に見られます。

最後の審判と世の終わり

061◀︎目次▶︎063

62 [5065] それらの中に引用された同じものが3度繰り返され、またそれらは前に言われたように、説明されているので、個々に、すなわち、個々のことばに関して、これらが内意で何を意味するか説明することは必要ではありません。ここではただ、右側の者がそのように答えたこと、また左側の者もそのように答えたこと、すなわち「その方が、飢えている者、渇いている者、異国人として生活する者、裸の者、縛られた者、牢の中にいた者であったことを見なかった」ことが何を意味するか、またその後、「」が、なおまた、「正しい者と永遠のいのち」が何を、また「呪われた者と永遠の火」が何を意味するかだけ言えばよいでしょう。

最後の審判と世の終わり

062◀︎目次▶︎064

63 [5066] 右側からの彼らが、「主よ、いつ、私たちは飢えているあなたを見て、あなたに食べさせましたか。または渇いて、飲ませましたか。しかし、いつ、私たちは異国人として生活していたあなたを見て、迎え入れ、または裸であった〔あなたに〕着せましたか、しかし、いつ、私たちは、病んでいるあなたを、または牢の中であなたを見て、あなたにやって来たましたか」と答えたことは、もし彼らが主ご自身を見たなら、だれもがそれらの親切をします、しかし、その方に対する愛からでなく、しかし恐れから、主が全世界の審判者となられるので、その方のためでなく、しかし自分自身のために、そのように内的なものからでなく、すなわち、心からでなく、しかし、外的なものから、また振る舞いの中で行なったことを意味します。その者はこのことを、王に見られるために振る舞い、その恩恵に値されることを、偉大にまたは富んだ者になるために欲し、それゆえ、その王に向けて自分自身を服従させて振る舞います。外なる聖なる礼拝の中にいる者の場合も同様に振る舞います、その中でいわば主を見て、このように永遠のいのちを受けることを信じて、そしてその方に自分自身を服従させます、それでも何も仁愛を持っていません、自分自身のため以外に他の者に善も行ないません、そのように自分自身だけに行ないます。これらの者は、外なる形の中で大いなる崇敬で自分の王のご機嫌を伺います、それでも、心そのものではさげすむので王の命令をあざ笑う者と似ています。右側からの彼らがそのように答えたことによって、これらと類似のことが意味されます。外なる形の中で類似のことを悪い者もまた行なうので、それゆえ、左側からの者もほとんど同様に答えたのです。

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64 [5067] そこで、主は外なるものでなく、内なるものに関心をもたれ、人間は内なるものを、崇拝だけによってでなく、仁愛とその実践によって証明するので、それゆえ、主は答えられました、「まことに、わたしはあなたがたに言います、あなたがたがこれらの兄弟のひとりに、わたしの最小の者〔のひとり〕にしたかぎり、あなたがたはわたしにしたのです」。
兄弟と呼ばれる者は、仁愛と生活の善の中にいる者です、なぜなら、彼らは善そのものの中にいるので、主は彼らのもとにおられるからです。また隣人によってその者が正しく意味されます。これらの者の中にも主はご自分を現わされません、なぜなら、彼らは相対的に卑しいからです、しかし、人間自身が内的なものからその方を崇拝することを主の前に現わすのです。

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65 [5068] これらのことばで、「人の子がご自分の栄光の中に……やって来る時、その方は栄光の王座の上に座ります。……その時、王は彼らに言います」と、主がご自分を「」と言われることの理由は、主の王権が神的真理であり、そのことからまたそのことにしたがって審判が行なわれるからです。しかしその神的真理から、またそれにしたがって、善い者と悪い者に異なってさばかれます。善い者は神的真理を受け入れているので、善から、そのように慈悲からさばかれます。悪い者は神的真理を受け入れていないので、真理から、そのように慈悲からでなくさばかれます、というのは、この神的真理を退け、ここから来世の中でも継続して退けるからです。
神的真理を受け入れることは単に信仰を持つことだけでなく、信仰を行なうことでもあります、すなわち、信仰のものを生活のものとして行なうことです。
主がご自分を王と言われることはここからです――主の王権は神的真理です(1728, 2015番以降、3009, 3670, 4581, 4966番参照)。

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66 [5069] 彼らが、右側からの者が、「正しい者たちがその方に」いろいろと答えて、「正しい者」と言われ、「正しい者は永遠のいのちの中に入ります」は、主の義の中にいることを意味します。仁愛の善の中にいるすべての者は、「正しい者」と呼ばれ、自分自身からでなく主から正しい者であり、その方の義が彼らに自分のものとされます。もはや自分に悪は何もないと信じるまでに、自分自身から正しい者、義とされる者であると信じている者は、正しい者の間にいないで、不正な者の間にいます。なぜなら、自分自身に善を帰し、そしてまたその善の中に功績を置くからであり、このような者は決して真の卑下から主を崇拝することができません。そのために、みことばの中で「正しい者と聖徒」と呼ばれる者は、すべての善が主からであることを、またすべての悪が自分自身から、すなわち、地獄から自分自身にあることを知り、認める者です。

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67 [5070] 正しい者にある永遠のいのちは、善からのいのちです。善は、いのちそのものである主からであるので、それ自体の中にいのちを持ちます。主からのいのちに、知恵と知性が内在します、なぜなら、善を主から受け入れること、またここから善を欲することは知恵であり、そして真理を主から受け入れること、またここから真理を信じることは知性であり、その知恵をまた知性を持つ者はいのちを持つからです。また幸福がこのようないのち(生活)に接合されるので、永遠の幸福があり、それがいのちによってもまた意味されます。
悪の中にいる者は〔これと〕正反対です。たとえ、これらの者は、いのちを、特に自分自身に持っているように見えても、このようないのちは、ことばの中で死と呼ばれ、そしてまた霊的な死です、なぜなら、善を何も味わず、真理を何も理解しないからです。このことを熟考するそれぞれの者に明らかにすることができます、というのは、善と真理にいのちが内在するとき、いのちは悪とここからの虚偽に存在することができないから、なぜなら、これらは反対のものであって、いのちを消滅させるからです、そのために、これらの者に狂気以外の他のいのちはありません。

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68 [5071] 左側の者が、「呪われた者」と言われ、そして「その時、左側にいる者にもまた言います、『わたしから立ち去れ、呪われた者たち、悪魔とその使いたちに用意された永遠の火の中へ』」と、「これらの者は永遠の罰の中に入ります」と、彼らの罰が永遠の火と言われるのは、自分自身を善と真理から背かせ、悪と虚偽へ向けたからです。「呪い」は、みことばの内意の中で離反を意味します(245, 379, 1423, 3530, 3584番)。
彼らが行くことになる「永遠の火」は、四元素の火ではなく、良心の呵責でもなく、悪の欲望です。というのは、人間のもとの欲望は霊的な火であり、それが彼を身体のいのちの中で焼き尽くし、来世の中で苦しめるからです。それらの火から、地獄の者は(自分自身を)互いに恐ろしい方法で拷問にかけます。
[2]永遠の火が四元素の火でないことは明らかです。良心の呵責でないことは、悪の中にいるすべての者は何も良心を持たないからです、また、いのちが身体の中にあるとき何も良心を持たなかった者は、来世の中で何も持つことができないからです。しかし、欲望であることは、生命のすべての火は人間のもとの愛からであるからです、天界の火は善と真理の愛から、地獄の火は悪と虚偽の愛から、すなわち、同じことですが、天界の火は主への愛と隣人に対する愛から、地獄の火は自己愛と世俗愛からです。人間の中の内部にあるすべての火、すなわち、熱がここからであることは、それぞれの者が注意するなら、知ることができます――ここからもまた、愛が霊的な熱と言われ、みことばの中の火と熱によって他のものは意味されません(934番以降、1297, 1527, 1528, 1861, 2446, 4906番)。
悪い者のもとのいのちの火は欲望の猛烈さの中にいるときのようなものです、さらにまたある種の〔いわば〕火の中にいて、その火から他の者を苦しめる熱望と激怒の中にいます。しかし、善い者のもとのいのちの火は高い段階の情愛の中にいるときのようなものです、さらにまたある種のいわば火の中にいて、その火から他の者に善を行なおうとする愛と熱意の中にいます。