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13[3654] みことばの内意で「ユダヤ」がユダヤを、そのように「エルサレム」もエルサレムを意味しないことは、みことばの中の多くの箇所から明らかにすることができます――みことばの中に、ユダヤはそれほど名前を挙げられていませんが、しかし、ユダの地は、またそれによってそこのカナンの地のように主の王国が意味され、それゆえ、教会もまた意味されます、なぜなら、これは地上の主の王国であるからです。それゆえ、このことはユダまたはユダヤ民族によって主の天的な王国が、イスラエルまたはイスラエル民族によってその方の霊的な王国が表象されているからです。表象されているので、それゆえ、みことばの中でもまた、名前が挙げられるとき、その内意で他のものは意味されません。
[2]それらが意味されることは、主の神的慈悲から、ユダヤとユダの地について続くものの中で言われることから、明らかにします。そしてそれまでは、次の預言書のわずかなものから明らかでしょう。「イザヤ書」に、
油の息子の角の中のブドウ畑は、わたしの愛したものであった。〔息子は〕それを垣で取り囲み、石を取り除き、みごとなブドウを植え、その真ん中に塔を建て、さらにまたその中に酒ぶねを切り出した。そしてブドウが生じることを期待した、しかし、野ブドウの実が生じた。今、〝エルサレムの住民〟と〝ユダの男〟よ、さあ、わたしの間とわたしのブドウ畑の間をさばけ。……わたしはそれ〔ブドウ畑〕を荒廃の中に置く。
万軍のエホバのブドウ畑は〝イスラエルの家〟、〝ユダの男〟はその方の歓喜の植えたものであるから。わたしは審判(ミシュパート)を期待した、しかし、見よ、流血(ミスパー)。公正(ツェダーカー)を期待した、しかし、見よ、叫び(ツェアーカー)(5:1-3, 6, 7)。
そこに文字どおりの意味で、イスラエルの人々とユダヤの人々のゆがんだ状態について扱われています、けれども内意では、イスラエルとユダを表象したものによって教会のゆがんだ状態について扱われています。「エルサレムの住民」は教会の善です。「住民」は善、すなわち同じこと〔ですが〕、善の中にいる者です(2268, 2451, 2712, 3613番、また「エルサレム」が教会であることは、402, 2117[1]番参照)。「イスラエルの家」も同様です。「家」は善です(710, 1708, 2233, 2331, 3142, 3538番)、「イスラエル」は教会です(3305番)。「ユダの男」もまったく同様です、というのは「男」によって真理が意味されるから(265, 749, 1007, 3134, 3310, 3459番)。また「ユダ」によって善が〔意味されます〕、しかし、「ユダの男」は、天的な真理と呼ばれます、すなわち、真理の中にいる者にあるような、主への愛の善からの真理である、という相違があります――
[3]同書に、
〔主は〕国々〔のため〕に旗を上げ、〝イスラエルの追い出された者〟を集め〝ユダの追い散らされた者〟を地の四隅から集められる。その時、エフライムの競争は去り、〝ユダの敵〟は取り除かれる。
エフライムは〝ユダ〟と張り合わない、〝ユダ〟はエフライムを苦しめない。
エホバはエジプトの海の舌をのろう。また、ご自分の息の激しさをもって御手を川の上に動かされる。
その時、アッシリアから残されるご自分の民の残りの者〔のため〕に、街道がある(11:12, 13, 15, 16)。
ここには文字どおりの意味で、イスラエルとユダヤの人々が捕囚から帰還することについて扱われています、しかし内意では、全般的に新しい教会について、また個別的に、再生される、すなわち、教会となるそれぞれの者のもとの新しい教会について扱われています。「イスラエルの追い出された者」は彼らの真理を、「ユダの追い散らされた者」は彼らの善を、「エフライム」は、もはや抵抗しない彼らの知性を、「エジプト」は記憶知を、また「アッシリア」は、ここからのゆがめる推論を、「追い出された者、追い散らされた者、残りの者、残される者」は、生き残る真理と善を意味します。「エフライム」が知性(知力)であることは、他の箇所に明らかです。「エジプト」は記憶知であり(1164, 1165, 1186, 1462, 2588, 3325番)、「アッシリア」は(誤った)推論であり(119, 1186番)、「残りの者」は主により内的な人の中に秘められた善と真理です(468, 530, 560, 561, 660, 661, 798, 1050, 1738, 1906, 2284番参照)――
[4]同書に、
このことを聞け、ヤコブの家よ。〔あなたは〕〝イスラエル〟の名前で呼ばれる。また、〝ユダの水から出た〟……神聖な都から、と呼ばれる。イスラエルの神に寄りかかっているからである(48:1, 2)。
「ユダの水」は、真理を意味し、それらは主への愛の善からのものであり、真理は、ここから、仁愛の善そのものです。それらは霊的な善と呼ばれ、霊的な教会をつくり、〔その教会の〕内なるものは「イスラエル」、外なるものは「ヤコブの家」です。ここから、「ヤコブの家がイスラエルの名前で呼ばれる」こと、「ユダの水から出る」ことが何を意味するか、明らかです――
[5]同書に、
わたしは、ヤコブから子孫を、また、〝ユダからわたしの山々の相続人〟を生み出す。わたしの選んだ者がそれを所有し、わたしのしもべがそこに住む(65:9)。
「ユダから〔生まれる〕わたしの山々の相続人」は、最高の意味で、主を、表象的な意味で、その方への愛の中にいる者を、そのように両方の愛の善の中にいる者を意味します。「山々」がそれらの善であることは、前に示されています(3652[11]番)。
[6]モ―セの書に、
〝ユダ〟は獅子の子。わたしの息子よ、あなたは、えじきにより育った。獅子のように、年取った獅子のように、うずくまり、伏せた。だれが彼を起こすのか? (創世記49:9)
そこの「ユダ」によって、最高の意味で主が、また表象的な意味でその方への愛の善の中にいる者が意味されることがはっきりと明らかです――ダビデの書に、
イスラエルがエジプトから、ヤコブの家が未開の民から出て行ったとき、〝ユダはその方の聖所となり、イスラエル〟はその方の領域となった(詩篇114:1, 2)。
そこでもまた「ユダ」は、主への愛のものである天的な愛であり、また「イスラエル」は天的な真理、すなわち、霊的な善です――
[7] 「エレミヤ書」に、
見よ、日が来ている。エホバの言われること。わたしはダビデに正しい若枝を起こす、その者は王となって支配し、栄え、地に審判と公正を行なう。
その方の日の中で、〝ユダは救われ、イスラエルは安らかに住む〟。
これはその方の名前であり、その方を彼らは、「エホバは私たちの正義」と呼ぶ(23:5, 6, 33:15, 16)。
そこに主の来臨について〔述べられています〕。「ユダ」は主への愛の善の中にいる者、「イスラエル」はその善の真理の中にいる者です。「ユダ」によってユダが、「イスラエル」によってもイスラエルが意味されないことは、ユダが、さらにイスラエルもまた救われなかったので、明らかにすることができます――同様に、同書に、
わたしは〝ユダの捕らわれた状態〟と〝イスラエルの捕らわれた状態〟を戻し、前のように建てる(33:7)。
同じく――同書に、
その日、その時、エホバの言われること。〝イスラエルの子たち〟が〝ユダの子たち〟と一緒にやって来て、行きながら、泣きながら行き、自分たちの神エホバを求める。シオンを求め、その道へ自分たちの顔を向ける(50:4, 5)。
同書に、
その日に、彼らは〝エルサレム〟をエホバの王座と呼び、それへ集められ、すべての国民はエホバの名前のために〝エルサレム〟へ〔集められ〕、もはや、自分の悪の心の頑固さの後を行かない。その日に、〝ユダの家はイスラエルの家へ行く〟、地の上を北の地から一緒に行く(3.17,18)。
[8]同書に、
見よ、日が来ている。エホバの言われること。そのとき、わたしは〝イスラエルの家〟と〝ユダの家〟に人間の種と獣の種を蒔く。……わたしは〝イスラエルの家〟と〝ユダの家〟と新しい契約を結ぶ。……これは、彼らの日々の後、わたしが〝イスラエルの家〟と結ぶ契約である、わたしはわたしの律法を彼らの心の中に与え、彼らの心の上にそれを書く(31:27, 31, 33)。
イスラエルまたはイスラエルの家が意味されないことは、異教徒の間に追い散らされ、決して捕囚から戻らなかったので、はっきりと明らかです。したがって、ユダまたはユダの家も意味されません、しかし、彼らによって内意では、主の霊的なまた天的な王国からの者が意味されます。彼らと「新しい契約があり、彼らの心の中に律法が書かれた」のです――「新しい契約」は善による主との結合です(665, 666, 1023, 1038, 1864, 1996, 2003, 2021, 2037番)。「心の中に書かれた律法」は、ここからの善と真理の知覚、そしてまた良心です――
[9] 「ヨエル書」に、
その日に起こる。山々は新しいブドウ酒を滴らせ、丘々は乳を流し、〝ユダのすべての小川に水が流れ〟、エホバの家から泉が出て、シティムの流れを潤す。
エジプトは荒れ果てた地となり、エドムは荒れ果てた荒野となる。〝ユダの子孫〟への暴力のためであり、彼らの無垢の血をその地に流したためである。
〝ユダは永遠に、エルサレムは代々に住む〟(3:18-20)。
そこの個々のものからもまた、「ユダ」によってユダ、「エルサレム」によってエルサレムではなく、愛と仁愛の聖なるものの中にいる者が意味されていることが明らかです、というのは、彼は「永遠にまた代々に住む」からです――
[10]「マラキ書」に、
見よ、わたしは、わたしの使いを送る。その者はわたしの前に道を備える。あなたがたが求めている主が、突然に、ご自分の神殿に来る、あなたがたが望んでいる契約の使いがやって来る。……
〝その時、ユダとイスラエルの穀物のささげ物(ミンハー)はエホバの好ましいものになる〟、永遠の日のように、また前の年のように(3:1, 4)。
ここに主の来臨について〔述べられています〕。その時、「ユダとイスラエルの穀物のささげ物(ミンハー)がエホバの好ましいものに」ならないことは明らかです。ここから、ユダとエルサレムによって主の教会に属すようなものが意味されることが明らかです――みことばの中の、そこにユダ・イスラエル・エルサレムが名前を挙げられている他の箇所のどこでもそのようです。
ここから今や、「マタイ福音書」のユダによって何が意味されるか、すなわち、そこの荒廃した主の教会であることを明らかにすることができます。